第5話 同じ鍋のスープを食う
「魔獣? あれ、もとは魔獣なのか?」
アデリナはふと我に返って言った。
イリエは得意げにうなずいた。
「方角獣イシドルス──シュヴィリエールの先祖が捕縛して、家の紋章に書き加えたっていうほどのやつだ。あれは強えぞぉ」
言っていると、エレヴァンが叱咤した。
「イリエ、クドクド垂れてないでおまえも剣を構えろ。一瞬で終わらせるからな」
「あいよ。て、コトで、おまえさんは今回は見物だ」
軽業師が短刀で遊ぶかのように、イリエの抜いた剣は軽くしなやかに踊っていた。
かれはそのまま散歩に出るような気楽な姿勢で、前に出る。
かたわらにはエレヴァンが、いたって生まじめに〈鳥の構え〉をなしている。人間相手なら顔や首を狙う構えだったが、貪る羆相手では胸部に当たればいいほうだ。
それが──いま。
「行け」とシュヴィリエール。
イシドルスがそのツノを突き出した中空に、パチッとなにかが油を焼いて爆ぜる音がした。それは次第に周辺の空気を振動させ、アデリナの皮膚にも強いしびれを帯びさせる。
いや、ちがう。これは──
アデリナの持っている言葉だけでは、それを形容する術を持たない。光が集まり、周辺の草木にジグザグに乱反射したかと思えば、パチッ、パチッと激しく圧を高めていった。
そして、程よく溜まったかと思う頃。
光は一直線に、直立する貪る羆の胸部を貫いた。
ほんの一瞬のことだった。
まさに雷に打たれたかのように、魔獣は呆然と立ち尽くし、それからゆっくりと仰向けにくずおれた。これが合図だった。
ふたりの騎士はすばやく、確実に川の岩場を渡り歩いて、貪る羆のもとに歩み寄る。
それで、見事一息でその剣を突き立てた。心臓部分をグサリ。即死の一撃だった。
明確にとどめを刺したのを確認して、ふたりは早く血をぬぐった。
それと同時に、シュヴィリエールの傍らから、獣が風のように霧散して消えた。
「川上に急げ。アデリナ、目的地はそっちでいいな?」
「えっ、あ、うん」
せっかく勝ったのに、勝ったという感じがない。
むしろ逆だった。
いまのかれらは、敗走しているもののようにせっせと足を動かしている。
「なんで……」
「魔獣は、仲間を呼ぶし、共食いもする。やつらは無限に増殖するくせに、生きていても死んでいても同類をその場に招き寄せるようになってるんだよ。どうしてなんて言われても知らねえ。そういうもんなんだよ。だから、おれらができるのはその生態を活かして、よそに注意をむけてもらうことだけさ」
イリエのまくしたてる説明に、うんともすんとも返しようのないアデリナだった。
やがてかれらは、瘴気の霧を迂回して、清流の流れる洞穴を見つけた。
メリッサ村の集落から見た時、そこはうんと遠回りをした山沿いのはずれにすぎない。しかしアデリナから見たら見慣れた場所のひとつだった。
ここを拠点にすれば、メリッサ村の方角がわかる。ついにそこまでこれたのだった。
雲海山脈を近くにして、広葉樹林が針葉樹林に入れ替わるような肌寒い世界が、そこにはあった。さながら人の住む世界と魔獣に喰われた世界を同時に映すかのようだった。
ちょうど、岩場をくぐって流れ落ちる清流が、そのふたつの世界の境界だったのだ。
流れは最初二〇歩ほど歩く幅の広い川だったが、だんだんと狭くなり、一足でまたいでしまえるほどの幅になった。
そのあたりで洞穴があった。暗がりの傍らに清流が注いでいるのを見ながら、ずっと奥に続いているかのような構造だった。
エレヴァンは先行し、思念結晶のかけらを出して一瞬光を放った。
魔獣の影はない。
それを確信したかれは、やがて全員をそのなかに連れ込んだ。おもしろいことに、ある程度まで洞穴の奥に進むと空気が暖かく、野宿するにはうってつけだとわかった。生き物が冬ごもりする穴でもあったのだ。しかしいまとなっては〝生き物〟はいなかった。それがかえって好都合でもあった。
かれらは薪と一晩夜露をしのぐ屋根などをつくる作業にいそしんだ。
アデリナとシュヴィリエールが、コケラブナやアザモミから落ちた枝を拾い、タナウラカエデの枝を折るあいだ、イリエがツノムグラの群生を抜いてきた。交代交代で、燃やすようの枝と、夜露をしのぐ屋根の支えとする太い枝が運ばれて、数が揃った頃に一斉に組み立てる。やがて、かれらは洞窟の奥地に、ツノムグラの葉でできた天幕を張ることに成功したのだった。
作業中、何度か偵察に出ていたエレヴァンが戻ってきた。魔獣の気配はなくなったらしい。そう報告した。
一同は安心し、夕食の準備にかかった。
「魔女か、魔獣か。どちらかを取れと言われたら、結局のところ魔獣と答えるな」
エレヴァンもこの判断には思うところがあった。だが光を嫌い、人を惨殺する習性を持つ存在と、異なる立場で相容れない思想を有した存在とを天秤に掛けた時──かれはまだ、人間の持っている良識と良心を信じたかったのだ。
あなぐらの中で焚いた火は、落ちた枝葉をくらって四人の男女を照らしていた。
その光はまばゆく、そして暖かかった。
まるで人が初めて夜に接し、肩身を寄せ、乗り越えようとした時のような人の営みがそこにはあった。やがておもむろに取り出された小さな鍋に、清流で汲んだ水が注がれる。
腹が減っては戦はできぬ──
そううそぶく声も漏れ聞こえた。
樹の実と、行動食として携帯していた干し肉を、一緒に放り込んで、しばらく煮込む。
ほんとうならここに丸ネギを刻んで入れて、ベニネやカンランといった野菜類も煮てやりたかったが、致し方がない。代わりに糧食にしていた堅焼きのパンをふやかしていれた。灰汁を抜いてもそのスープは決して美味くはなかったが、アデリナは初めて、騎士の持っている独特な連帯感を体験したように感じた。ようやく自分もその環に入ることができたのだ、という気がしたのだ。
もしかしたらそれは幻想だったかもしれない。しかし、そのときかれらはまちがいなく使命をともにする仲間だった。
だからアデリナも、騎士になること、騎士でいることを、言葉ではない回路によって、ようやく感じ取ることができたのだ。そこには決して愛着など存在しなかった。しかし努力と苦労を撚り合わせてつくったロープのように、気持ちの交流が互いを支え合っていた。つまり命綱なのだ。かれらの持つ騎士の連帯とは、互いの勇気と信頼によって、窮地のキワの部分に足を、手を掛けているのだという一体感でもあったのだ。
アデリナは、まずいスープを飲み干した。
それで、いまのいままでからだが冷え切っていたことに気がついて、驚いたのだった。
鍋底をすくって、最後の一杯になったとき、騎士たちが一斉に目配せを始めた。
だれがその一杯を食べるのか──
関心が、好奇心が、そして貪欲な精神が、視線を通じて火花を散らす。
とくに、意外だったのがアデリナとシュヴィリエールの決戦になったということだ。
思えばアデリナは十四、シュヴィリエールは十七の年齢だった。きょうだいを思わせる年の差だ。個々の年齢自体も、ケンカが絶えない幼さを残しているといって良い。
「第一このスープをつくるのにククルカの実のありかを教えたアタシに、功労があってもいいとおもうんだよな」
「何をいうか。糧食というものはいざというときに戦う人間が、満足した状態で戦うためにあるものなのだ。それを──」
「はン、それだったらイリエやエレヴァンに差し出すべきだね」
「減らず口を……ッ」
両者のいがみ合いを見て、イリエはエレヴァンを覗き見た。
青年騎士は、シュヴィリエールの人柄にもないむきになったすがたに、まるで兄のようなやさしいまなざしを向けている。
イリエは、焚き火の縁から少しずついざりよって、エレヴァンを小突いた。
「いよッ、もとの主君の娘がそんなに気になるかい?」
「あいにくだが、そんなんじゃない」
即答だった。
エレヴァンは寂しげに微笑んだ。
イリエはそれで、茶化す気持ちが霧散してしまった。「あーあ、つまんねーの」と言って両手をあたまの後ろで組む。
「おまえがアスケイロンの家から奉公先を変えて、十年近くになるか」
「そうだな」
「あの事件から十四年だもんなぁ。英雄家も落ちぶれることがあるのかと、オレは感心しちまったくらいだけど……おいおい、冗談だって」
「笑い事ではないぞ。イリエ」
エレヴァンはどこまでも気まじめだった。
「過去、数限りなく魔獣を退治し、ときにはおのれの下僕として従えた騎士の中の騎士──その存在の筆頭たるアスケイロン家が、家督を継ぐべき存在もなく、娘御を男子として育ててまで守ろうとしたものを、われわれはきちんと次の世代に継がなければなるまい。シュヴィリエール様の家督を一時的に預かっている叔父君も、腹の底では何を考えているかわからんからな。〝武者修行〟などと称してこんな僻地の任務に就かせたのもヤツの仕業だと踏んでいる。案外〈エル・シエラの惨劇〉だって──」
「エレヴァン、熱くなりすぎだ」
「…………」
「オレはそういう難しいことはわかんねえからよ。でも、いまオレたちが向き合ってる一大事で、シュヴィリエールの活躍をちゃんと聖櫃城の玉座に奏上できれば、英雄家の名誉挽回ってなふうにはならんかね。おもしろいことに、今回の相手は竜だというじゃんか。存分に戦って、ちゃんと結果を残そう」
な? と最後に念を押し、肘でもう一度小突いた。
エレヴァンは黙ったままだったが、少しだけ柔和な笑みを浮かべた。
とたんに顔を引き締める。
立ち上がって、振り向いた。
「どうした?」
「──足音だ」
「なに?」
巧みに隠しているが、たしかにそうだった。しまった、と思うも後の祭り、イリエは声を殺して、若人二名に「おい、静かにしろ」と伝えた。
「へ? なんで?」とアデリナ。
「だれかきた。シュヴィリエール、火を消すんだ」
「もう遅い──」
暗がりからヌ、と手が伸びて、イリエの耳をつかんだ。
わァ、声を出したのもつかのま、すぐに痛みを訴える悲鳴に様変わりした。
その急襲のあっけなさに、ふたりは呆然とする。が、しかしすぐに闇のなかからイリエの頭を小脇に抱えた女性がやってきた。亜麻色の髪と眠たげなまなざしが、極めて特徴的な大柄の女性騎士だった。
「クリスタル」とシュヴィリエール。
「へ?」
アデリナが素っ頓狂な声を上げるのと、クリスタルが目を見開くのは同時だった。
「やはり似てるな」
「アタシ?」
自分を指差すアデリナに、クリスタル・ハミルトンはあらためて自己紹介をした。
「そして、きみに詫びなければならない。わたしは……きみの弟ルートを見失ってしまった。かれはおそらく魔女たちのもとにいるだろう。かれの計画通りに」
焚き火がパチっと爆ぜた──アデリナはその音に、脳裡から呼び覚ます声を聞いた気がしたのだった。




