第10話 夜明けの彼方に
月狼の群れは、寄せては返し、返しては寄せる波のように、繰り返しタリムの防衛戦線に攻めかかった。
街道を遮断するように屹立した野外の防衛戦線は、フェール辺境伯が率いる私兵一〇〇と騎士六名による守備隊によって成り立つ。その形状は腫れ上がったできもののように城市タリムから突き出して陣地を組んでいた。
まるで、「ここを攻撃してください」と言わんばかりに、それはあった。
そのただなかに魔獣が飛び込む。
獣除けの柵を踏み倒す勢いで、月狼の群れは空堀の深みをくぐり抜け、城市の壁へと突っ込もうとしていた。
なぜかれらがヒトを狙い、襲うのか。
だれもそのことはわからない。
ただ聖典には「かつて人間族がこの世界に生まれ落ちたときから身につけている〝原罪〟が怪物を招き寄せるのだ」という具合にしか書かれていないのだった。
この謎については神聖神学を通じてあまたの議論がなされたが、いまだに結論はない。その間、人間は文明を築き、自らを育む技と自らを守り戦う力を得た。
いまその力と力がぶつかり合っている。
騎士たちは、具体的には五つの隊に分かれて、これを迎え撃っていた。
うち一隊は見張りと仕切りを同時に担う、中心部だった。
だから、実質前線で戦っているのは四つの隊伍だったと言っていい。
かれらは交互に入れ替わりながら、休みなく襲い来る月狼の群れを迎撃した。
ただ撥ね退けるのではない。
策略があった。
柵の一部は扉のように開閉可能だった。魔獣の群れのなかでも脚の速いものは、与しやすしと真っ先にこの柵に組み掛かる。すると兵士たちはすぐさまこれを開いて、二三匹を連れ込んだ。
けものは狂喜し、吠え猛りながら陣地に侵入するが、たちまちにしてあらかじめ作られた誘導路に入り、袋小路に迷い込む。そこは勢いづいたけものには、方向転換が厳しい円環の周回路をなしていた。
魔性とはいえ、結局はけもの。その習性には抗い難く、袋小路をぐるぐると回ると、はたしてそこはかがり火が明々と照らす光の領域だった。
なかにはもう一個の隊が槍を構えている。
魔獣が次第に光の力に負けて、弱体化していくころに、その脇腹を槍で突くのだ。
その繰り返しで──
一匹ずつ、確実に仕留めていく。
その間、表で張っている隊の半数は、ひたすら守りの一手に身を尽くす。獣除けの柵を押し倒そうとする魔獣に対し、槍で突いてこの戦術をはばむ役を買うのだ。
アデリナは、その混乱のなかをひたすら走り回っていた。
「アデリィ、きみはまだ慣れていないことも多い。だからまず前線と本部のあいだを走って、状況を辺境伯に伝える役だ」
「えっ、戦うんじゃないのか?」
「ただ剣を振って、槍で突くのが戦いだと思ったら大間違いだ。いいから行け!」
シュヴィリエールにそう叱られるように言われて、アデリナは何往復もしていたのだ。
いま彼女は、フェール辺境伯が座す本部に駆け込んで、最新の状況を伝える。
「報告! 月狼の一群その数、十ほど、南方に迂回して柵の破壊に取り掛かっています」
それに──とアデリナは一生懸命思い出しながら、言葉をつないだ。
「先鋒に魔女の獣がいます」
「使い魔か」
「はい」
フェール辺境伯は頭を巡らせて、
「南方イリエの隊に伝えろ。少しは骨のある魔獣が来るから備えろ、とな」
言われてアデリナは追われるように駆け出した。
南方の守備隊は二十名の兵を率いるイリエ・シュヴァンクマイエルの一隊だった。
長髪で灰色の瞳をしたこの青年は、飄々とした顔で報告を聞き届けると、柵の向こうに火矢を放てと号令した。
さっそく柵に脚を掛けて、実行する。
するとくらやみの奥がざわ、と散った。
「やっこさん、もうお出ましだ」
イリエはとっさに立ち上がって、アデリナの近くに駆け寄る。なにごとかと振り向いたときには柵越しに剣を突き出していた。
ギャッと悲鳴が出たと思ったところに、魔獣はいた。剣尖から血がしたたる。それがまるで合図だったかのように、柵に向かって魔獣が体当たりを仕掛けてきた。
南方は、モレドが死守する東とちがって柵は固定されている。
だからこれを突破するには、犠牲を覚悟で力押しするしかない。
利に聡く、自己保存本能が強い魔獣が、このような計略じみた統率力を発揮するのは異例の事態だった。
「やっぱり魔女のやつら、魔獣を操る術を身につけたってうわさはほんとうか……」
イリエのぼやきを、図らずも聞く。
その言葉はのちにアデリナにとって強い印象とともに焼き付くのだが、それはまだあとのことだ。
いまはただ、戦うのみ──
槍を手に戦う兵卒の群れと、捨て身の勢いで柵に身をぶつける月狼の群れが、はたまたぶつかり合う。槍が数本折れ、柵が傾き、ついに押し倒されるかといったところで、だしぬけに魔獣たちが撤退した。とうてい勝利とは言い難い。得体のしれないぶきみな感触だけが、戦局を支配していた。
持ちつ持たれつの戦線が、各地で展開し、戦力が分散しつつあるまさにそのときのことだった。
「柵が切られた!」
東側からその声があがったとき、アデリナはまさに戻ろうとしたところだった。
(まさか)
と思って、急ぎ駆けつける。
手に持った剣は未だに具現化したままだった。この剣は、黒竜との対峙のとき、魔女ヴェラステラとの戦いのとき、とっさに手に取ったものでもあった。だが、これをなし得るふしぎの力は〈黒魔術〉として忌避されていること以外なにも知らないに等しい。
(アタシはまだこの剣の使い方を知らない)
ヴェラステラと戦ったときはふつうの剣として使った。でも、それでは足りないのだ。事実イシュメルとの戦いでは無力同然だったことを思い出す。
それだけではないのだ。
この剣は、魔法が手に執らせたこの武器には、まだ秘密がある。
(聖剣──)
魔獣を退治するために鍛えられた特注の武具のなかでも、栄光ある騎士の得物として知られるそれは、決して万能ではない。
ただ、魔獣に対して格別の効果があるという、たったそれだけの武器だった。
そういえばこの剣があるというのに、彼女は戦うことを許されなかった。
不満があった。
この想いに至ったとき、彼女は眼前に魔獣の気配を感じた。
(魔女の獣……ッ!)
とっさに構える。
四つ脚に見えるそのけだものは、猟犬のような肢体をしているが、その実態は煙のように変幻自在で、肉体を持たない。
だから、度重なる反撃の嵐のなかでも平気の顔で駆けめぐっていたのだ。
この魔獣を退治する──
功名心が、アデリナを奮い立たせた。
刃を寝かせて差し向ける構えは、〈針の構え〉と呼ばれるものだった。
剣に合わせた身体の動かし方は、失われた記憶にも増して確信に満ちていた。まるで父ノエリク・ガルドの教えを、言葉以外のあらゆるもので記憶しているかのように。
対するけものも、背後から月狼を連れてはいるものの、アデリナの得物を見て警戒の素振りを見せた。隊伍が乱れ、とたんに後ろで追いついた騎士たちとの乱闘を見せる。
アデリナの意識はそこまで届いていない。ただ眼の前の魔女の獣にのみ集中し、その緊張の糸はささいな空気のゆらぎではち切れそうだったのだ。
飛ぶ。振りかぶる。
牙を剥く。振り下ろす。
斬った、と思った。
しかし──
「ちきしょう、なんだってんだよ」
剣を取り落とした。手がしびれている。
怪我はない。
しかしまともに打ち合って、力負けした。
魔女の獣はその猟犬に似た面貌にあざけるような表情を浮かべた。
おまえは無力だ──そう、言っているような気がした。
力を使えと誘惑するささやきもあった。
図らずも、アデリナはその獣の気配にイシュメルの意志を感じ取る。一度は断った誘惑だった。しかしアデリナは、その発言が意味するものをまったく予見せずにうそぶいてしまったのだ、といまさらのように知る。
強くなる。ただそれだけのことが。
こんなにも、苦しくて、厳しい。
(アタシは負けるわけにはいかないんだ)
しびれる腕を押さえつけた。
ジリジリと剣を手繰り寄せる。
だがけものはそれを許そうとしない。
シュッと煙が風に吹かれるように、それは中空を這って迫ってきた。
アデリナはとっさに前転し、剣を取った。おかげでけものが狙った首筋への攻撃は見事に空振って、アデリナはその腹に向かって天を突く一撃を加えた。
おぞましい叫びが、けものの内側から溢れ出した──
「ちきしょう、なんだってんだよ」
ニヤッと笑う。
そこに、知ってる声が掛かる。
「アデリィ! そのまま!」
空を切る音がしたかと思うと、シュヴィリエールの剣が魔女の獣にとどめを刺した。首から上を見事に両断するその一撃は、アデリナではとうてい及ばない技だった。
物質化した魔獣の首が落ちると、急に剣が重く感じた。そのまま倒れ込む。
「だいじょうぶか」
アデリナは剣を手放し、息を吐いた。
この瞬間まで、息を止めていたことにいまさらのように気がついた。だが、それを素直に言うのが恥ずかしくて、自嘲の意味も込めてヘヘッと笑って済ませることにした。
そのしぐさに、眉をひそめたシュヴィリエールは、アデリナの胸ぐらをつかんだ。
「抜け駆けはしない──これも騎士の不文律だ。憶えておくといい」
アデリナは、むすっとしてシュヴィリエールの手を剥がした。
かれらの背後では、月狼たちが、騎士たちによって追い返されていた。統率する先鋒を失い、混乱しているのだろうか──魔獣たちの動きはこの期に及んで、あっけなく離散した。柵の外に逃れるもの、場当たり的に走り回って自ら袋小路に陥るもの、ほか多数。
戦局はついに改善した。
こうなれば総力戦で、司令部も必要最低限の人数にとどめて、一気に三人一組で一体ずつ魔獣を仕留めるように隊伍を組んで移動する。アデリナも、シュヴィリエールともうひとりで同じ作業に参加したのだった。
やがて、夜が明けた。
待ちわびたような朝日だった。
暁の光に照らされて、魔獣たちはそのほんらいの魔性の力を弱めていった。
もはや勝敗は決したと言っていい。その判断は、白銀の朝焼けのなかで行われた。
「残党はメリッサ村方面へ逃走中」
「よし。戻ってこないか、増援がないかをイリエの部隊に確認させろ。あとのものは被害状況を点検し、報告せよ」
たんたんと命令が駆けめぐる状況下で、アデリナはシュヴィリエールと行動をともにする。整列し、人数を数える。
安否確認が終了すると、警戒する部隊を除いて、命令を解かれた。
(そういえば──)
ルゥがいない。アデリナはあたりをさんざん見回したが、間違えようがなかった。
あの色褪せた藍色のローブすがたは、どこにもいない。確信は、すばやく彼女を辺境伯のもとに連れて行った。
彼女はふたごの弟のゆくえを問うた。するとフェール辺境伯は首を振って次のように言ったばかりだった。
「かれは行ってしまった」
「どこに?」
「魔女のもとに」
彼女は全身の毛が逆立つのを感じた。なぜ、と問う。答えを期待しての言葉ではなかったが、辺境伯が即座に返事をした。
「これはかれの提案なんだ。魔女に投降し、居場所とその目論見を見つける。自分でも賭けだと言っていたよ」
「でも……」
「考えてもみたまえ。なぜきみたちを魔女結社が執拗に追い回すのか。幹部までもがわざわざ来るくらいだぞ。きみたちは自分で思っているよりもかなり大きな鍵を隠し持ったままなんだということを自覚したほうがいい」
フェール辺境伯は苦笑しながら付け加えた。
「まったく、星室庁もやっかいな火種を押し付けたものだ。これこそやつらの専門分野だというのに、まるでかれがそうしないといけないかのような布石じゃないか」
「それって……ッ!」
アデリナは顔を上げた。
辺境伯は首を振った。
「いいや。あのガーランドという青年ではとうてい思いつけない策略だよ。おそらくその長官どのの頭脳から出てきたのだろう」
「じゃあなぜ断らなかったんですか?」
「……きみは、あの子の決意の固さを見て止められたかね?」
風が吹いた。冬の接近を感じる冷たい風だった。
「かれは最初から考えていたんだ。〝リナは剣をにぎって戦うことができる。でも、ボクはただ考えることしかできない。考えていたってなにも始まらない状況に居続けても、意味がないんだ〟──そう言っていたよ」
「……ッ、ばかやろう……ッ!」
「当然、ひとりで行かせたわけじゃない。魔女相手にどこまで通じるかはわからんが、こちらも騎士を尾行させている。これは化かし合いなのだよ、もっとも子どもを前線に出さねばならん時点で、われわれも落ちぶれたものだがな」
言われなくてもわかっている、とその目は暗に語っていた。
「ゆくぞ。今度は兵をまとめて黒竜退治だ」
運命の扉は、その一言とともに少女に向かって開け放たれたのだった。




