5 ニャ…、…
その翌日、仕事は休みで、ミルトンさんは家にいた。朝食以外で二人が顔を合わすことはなく、俺もミルトンさんといるのが嫌で、朝とっ捕まって石のチェックを受けた後はずっと夫人のそばにいた。
午後になり、馬車が用意された。ミルトンさんがどこかに行くようだ。こっそりと馬車に乗り込み、どこに行くのか探ってみることにした。小さく丸まっていると意外と気付かれないものだ。
馬車が止まり、ミルトンさんは馬車をその場に待たせて降りた。宝飾店の前だった。ミルトンさんはきれいに包まれた箱と、包まれていない小ぶりな箱を手にして戻ってきた。
次に止まった場所で、きれいに包まれた箱だけ手にして馬車を降りた。降りた先にはこの前の女が待っていた。包まれた箱は女に渡され、女は喜んでミルトンさんの腕にしがみつき、店に入っていった。金持ちの商人やお貴族様が使う高級な「休憩所」だ。
椅子の上にあった箱を開けると、そこには俺の首につけられているのと同じ石があった。今は黒い色をしているが、首輪につけられる金具があり、金具の下の小さなボタン操作で石の色を変え、赤くなれば画像を撮ることができる。一見普通の宝飾店だったが、魔道具も売っていたのか。
馭者は近くの待機所に馬車を止め、昼寝をしていた。この手の待ち合わせには慣れているようだ。
やがて女に見送られ、ミルトンさんは馬車に乗り込んだ。その後酒場に立ち寄り、また長い待ち時間かと思っていたら、伸びをしたところを馭者の男に見つかってしまった。
「いつの間に! 勝手に入り込みやがって!」
馭者は屋敷に預けられている猫のことなど知らなかった。一度は乗ったことのある馬車だったが、あの時俺は籠の中にいたから猫を乗せていることさえ気付いてはいなかっただろう。
ドアが開き、鞭を振り回されて慌てて馬車から飛び降り、街の片隅に逃げ込んだ。
しかし、そこは野良猫のテリトリーだった。
目が合うなり一撃を食らわされた。一回りは大きなボス猫だ。
「す、すまん、道に迷って」
「問答無用! シャーーーーッ!」
背を高くあげ、毛を逆立てたかと思うと素早い猫パンチの応酬。逃げても追いかけてきて、逃げた先はまた別の猫のテリトリー。街の裏を逃げに逃げてようやく息をつけた時には泥水を被り、毛は切れて、傷だらけになっていた。逃げる途中にガラスでも踏んだのだろう。肉球を切っていた。血が滴り、痛みで左後足を地面につけられない。
片足を引きずりながら、まずは現在位置を確認しなければ。知らない街じゃない。自分の住んでいる家までなら戻れるかもしれない。
猫にも人にも見つからないよう、目立たないようにゆっくりと歩みを進め、自分の借りているアパートに着いた時には夜中だった。しかし、着いたところで鍵はなく、家に入ることはできなかった。
同じアパートに住んでいる住人が俺を見かけても、小汚い猫など
「しっしっ、あっち行け」
と冷たい言葉しかかけてこない。俺だってそうだろう。俺が人で、家の前に怪我をした猫がいたとして助けるだろうか。疲れて帰ってきて視界にさえ入らないかもしれない。
腹が減った。疲れと痛みでふらふらだ。とりあえず寝床が欲しい。
アパートの裏手に回り、軒下で小さくなって眠った。
全身毛だらけとはいえ、濡れた体で外にいるのは寒かった。
このまま死んだら人の姿に戻るって事はないよな。全裸で自分の住んでるアパートの裏で行き倒れ、なんて洒落にもならない。
腹が減った…。人に媚びて、何か食うものをもらえるだろうか。芸もない、薄汚れた俺でも。
目が覚めると、もう寒くはなかった。
暖炉からパチッと薪の爆ぜる音がして、ゆらゆらと光が揺れる。柔らかな寝床に、伸ばした手は毛だらけ、肉球がキュートな…。
猫のままだ。
「ナーーーン」
「ちゃーさん!」
目の前に現れたのは夫人だった。
戻ってきている??
立ち上がろうとして、後ろ足に痛みが走った。
夢じゃない。昨日のあれは…。
「ああよかった。気がついてくれて。街まで行っちゃうなんて、旦那様の馬車に乗ってしまったのかしら」
「ナーーーン」
そうなんです。
「迷子用の石をつけておいて良かったわ。…預かっている猫に怪我させてしまうなんて…。飼い主さんにお詫びしなければ」
「ナーーーン」
あの青い魔石のおかげか。
大丈夫、猫も俺、飼い主も俺。助けてくれたあなたを怒る人なんているもんですか。本当に夫人には感謝しかない。
俺は熱が出ていたようで、少しだけミルクを舐めてそのまま眠った。
翌日、熱が下がっているのを確認すると、早々に風呂に入れられた。
濡れるのが嫌なのは猫の性なんだろうか。初めは暴れたものの、夫人の手に傷をつけるわけにはいかず、
「アオオオオオオオウ」
と低い声で威嚇しながらも、攻撃することはできなかった。
適温のお湯、優しく洗われる手。傷をいたわり、そっと乾かされ、人間でもこんな待遇はないだろう。
今俺は夫人の膝の上で、ほぐされた肉をもらって食べている。肉をつまむ指ごとなめて、こそばゆいと目を細められても、肉がなくなっても指をなめ続けた。
「もう、ちゃーさんったら。まだあるから」
肉を持たない手が膝から落ちないよう腰を支え、その腕にもたれながら糸状にほぐされた肉を食む。
生きててよかった…。
食べ終わったら体を丸め、見つめられているのが恥ずかしくて自分の手で顔を隠しながら再び眠りについた。
人に戻ったら二度と味わえない、至福のひとときだった。