懺悔②
その日は、珍しく妻が朝寝坊をしたので、私が朝食を支度し、妻が寝室から出てくるのを待っていました。
窓の外は、雪でも降りそうな分厚い雲がかかっていましたが、窓辺には、赤く鮮やかなホウセンカが、まるでそこだけ季節が違うかのように、咲き誇っていました。
なかなか出てこない妻を待つ間、私はふと、花に水をやろうと思いました。
普段は、花に水をやるなんて考えもしないどころか、花に興味を向けることもありませんでした。
けれどその日ばかりは、視界に映った鮮やかな赤に、何故か目が向いてしまったのです。私の方が先に起きたのですから、そうすべきだろうと、ごく自然に考えました。
ジョウロのしまってある場所さえ分からなかったので、コップに水を入れて、鉢植えの前に立ちました。
根本に向かって、コップの水を注ぐと、少し土が崩れ、そして、見つけてしまったのです。
土からほんの少し現れた、あの、赤い何かを。
それは、怯えるかのように、一度、とくん、と震えました。
その様子を見た瞬間。
私の中で、抗い難い衝動が首をもたげました。
あれに触れたい、と。
もちろん、それが何であるかなど、その時の私には想像もつきません。
なぜ、あそこまでの強い衝動を覚えたのか。
あの瞬間は、あの赤に魅入られた、というほかありません。
触れたいという衝動は、みるみるうちに私の中で膨れ上がりました。
そして私は、その衝動を抑えることなく、なんの疑いもなく、それに触れました。
パン、と、私が触れた瞬間、それは血液のような液体を散らし、弾けてしまいました。
みるみるうちに、赤黒い液体が土に吸われていく様は、さながら悪夢を見ているかのようでした。
失ってしまったのだと、そう確信しました。
今思えば、触れた瞬間に響いたあの乾いた音がどこから響いたものであるのか、よく分かりません。
目の前の鉢植えから聞こえたのかもしれませんし、もしかしたら、ようやく寝室から出てきた妻の体から、響いたのかもしれません。
私がハッとして振り向いた時には、妻は、床にうずくまって、倒れていました。
すぐに救急車を呼び、妻に声をかけましたが、手遅れであることは明らかでした。
なぜ、こんなことになってしまったのか。
回復したとばかり思っていた妻の体は、やはり病魔に犯されていたのか。
ぐるぐると思考が渦巻き、動揺、不安、恐怖から、身体中を冷や汗が流れました。
しかし一方で、ひどく混乱した状況にあるにもかかわらず、私自身の胸の鼓動は、驚くほどに静かでした。
まるで、私の心臓だけが、体から失われてしまったように感じました。
しかし、私はまだ生きている。
失われたのは、妻の心臓であって、私のものではない。
なぜ、心臓の鼓動を感じないのか。
そこまで考え、私は、あの花の正体について、一つの恐ろしい可能性に辿り着きました。
そんなバカな話があるわけないと頭を振る一方で、頼むから思い違いであって欲しいと、心の底から祈りました。
自分の胸を押さえながら、狂ったように咲き誇るホウセンカの鉢植えを覗くと。
そこには、ついさっき、弾け、失われたはずのあの赤い何かが、まるであれは夢だったと言わんばかりに、とくん、と震えていました。
私の予測した恐ろしい可能性は、見事に的中してしまったのです。
つまり、妻の心臓がはじけ、代わりに私の心臓が、あの花の根としてあてがわれた。
私の夢が潰え、悪夢の始まりを告げられた瞬間でした。
なぜ妻は、私にあの花の正体を明かしてくれなかったのでしょう。
そうすれば、私があれに触れることは決してなく、妻の心臓も失われず、幸せな毎日が続いたはずです。
もちろん今となっては、真実は誰にも分かりません。
ただ、言えるとすれば、妻があの鉢植えを手に入れた以上、妻も、私と同じことをした可能性がある、ということです。
突然、この世を去ってしまった、同じ病に苦しむ、妻の友人。
彼女は、誰にも何も打ち明けず、一人であの花を抱え、その宿命を背負い、生きてきたのかもしれません。
いずれにしても、私は妻を殺しました。
これが、決して裁かれることのない、しかし絶対に許すことのできない、私の犯した罪への懺悔です。