衝動⑤
翌日の14時40分。
教授棟の入り口で身を潜め、研究室の入り口を睨みつける。
園田教授が、研究室を出ていくのが見えた。
教授は鍵をかけなかった。
教授が廊下の先を曲がり、その背中が見えなくなるまで待って、私は研究室の中へ忍び込んだ。
中庭に面した窓にはカーテンが引かれ、電気のついていない部屋は、日中だと言うのに薄暗い。
冷房がかかったままなのか、埃っぽい匂いの冷たい空気が、すっと肌を撫でた。
部屋の真ん中に置かれた、大きなデスクに向かう。
そこには、ホウセンカの植わった植木鉢と、何もない植木鉢が、一つずつ。
あのとき棚の上にあったはずのホウセンカは、今はデスクの上に、置かれていた。
私の、私だけの、暗い赤。
やっと、やっと、手に入れる!
駆け寄って、鉢の中を覗く。
そこには、私を捕らえて離さない、あれが。
薄暗い部屋の中、わずかな光をとらえて、妖艶に、てらてらと光る、あの赤が。
早く、この鉢を持って部屋を出なければ。
レイが来る前に、早く。
あぁ、でも。
とくん
それが小さく震えた。
ドクン。ドクン。ドクン。
身体中に充満した衝動が、私の心臓が。
大きく揺れた。
触れたい。
今すぐに。
誘われるように、夢見ごごちで、ゆっくりと指を伸ばした。
とくん。
ドクン。ドクン。ドクン。
指先が、震えるそれに、触れる──
パンッ!!
それは一瞬で弾けた。
赤黒い液体がドロドロと流れ、鉢植えの土に染み込む。
「あぁ……」
あれに触れた手を、引く。
確かに、触れた。この手で触れた。
そして、一瞬にして、失ってしまった。
それに触ってはいけない。
いつかの教授の声が、頭の中を駆け回る。
それに触ってはいけない。
あぁ、それなのに私は。
触って、しまった。
逃げるように研究室を飛び出し、廊下を走った。
「あれ?ハナちゃん!」
途中、小学生くらいの男の子を連れた、レイとすれ違った。
とても言葉を返す余裕はなかった。
レイは、弾けたあれの残骸に、何を思うだろうか。
とにかく、あれは私が手に入れたのだ。
誰にも渡さない。私のものだ……。
目に入ったトイレに駆け込み、洗面台に手をついた。
はぁはぁと息があがる。
あれ、は、何だったのか。
とくん、と震えていた。
暗く、赤い。
弾けて、赤黒い液体が飛び出す。
あれは、あの暗くて赤い液体は。
まさに、血液だった。
つまり、あの植木鉢のホウセンカは、あれの中を巡る血液を吸い上げて、暗い赤に染まっていたのだ。
土の中で、血液を巡らせ、小さく、とくんと震える何か。
あれは、まるで小さな。
「私の、命です」
いつかの教授の声が頭に響いた。
ああ、あれは。
そうだ。
あれはまるで、小さな、
心臓。
触ってはいけない。
弾けてしまった。
種を孕んだ、ホウセンカの実のように。
種ではなく、暗く赤い、血液を散らして。
あの花は、枯れるのだろうか。
あの心臓によって生かされていたのだとしたら、あれが弾けてしまった以上、もう。
はぁはぁと、息が上がっている。
逃げるように、走ってきたのだ。
息が上がる。
額を汗が流れた。
身体中から、汗が噴き出ている。
身体中の血が脈打ち、心臓が、大きく鼓動して……。
しかし、その鼓動は、感じられなかった。
そっと、自分の胸を押さえた。
何も、感じない。
鼓動が、消えている。
心臓だけ、どこかにいってしまったかのように。
胸の奥が、ひんやりとする。
まるで、心臓だけが。
土に、埋まってしまったかのように。
トイレから飛び出し、研究室へと走った。
視界にとらえた壁掛けの時計は、ちょうど、15時を指している。
触ってはいけない。
はじけてしまう。
あれは、私の──
研究室のドアに、手をかけた時。
パンッ!
何かが弾ける音を。
確かに、聞いた。