衝動④
授業が終わり、教室から学生がいなくなったのを見計らい、教授に詰め寄った。
「どういうことですか。」
「何のことです。」
「ホウセンカです。」
教授は目を伏せる。
また、あの寂しそうな顔をした。
「あれは、あなたの目のつかないところへ移しました。」
「どうして。」
「あなたは、あれに関わるべきではない。」
「あれは一体、何なんですか。」
「何でもありません。忘れてください。」
「納得いきません。それに、レイの弟に……」
レイの弟にあの花を見せなくては。
そう言おうとして、それが単なる私自身の言い訳に過ぎなかったことを思い出し、口を噤んだ。
「レイさん?その弟が、なんだと言うんですか。」
「いえ、何でもありません。」
「とにかく、全ては私の責任です。あの花は、あなたの手に負えない。」
そして、教授はまたあの冷たい声色で言い放った。
「忘れなさい。」
背を向けて、教室を出ていく園田教授の足音が、天井の高い教室で反響した。
その背中を、睨みつける。
教授は、あの赤を、あの世界の深淵を。
自分だけのものにするつもりだ。
そんなことは絶対に、認めない。
ドクンと、心臓が大きく、鼓動した。
私こそが、あれに、触れなくては。
隠れて教授の後をつけた。
教授は、きっと私と同じだ。
心の奥深くまで、あれに魅入られている。
だから、教授は、あれを手放すことができない。
自分の手元に置いているはずだ。
教授が、研究室に入っていくのが見える。
教授の研究室は、1階にあった。教授棟の研究室には、中庭に面した大きな窓があるはずだ。
その窓から、探せるかもしれない。
ドクン。
何かに突き動かされるように、全力で走って中庭に回り、幾つも並ぶ窓から、教授の研究室を探した。
心臓がうるさく鼓動する。血が騒いで身体中を駆け巡る。
外気の暑さが身体に纏わりつき、洋服の中がしっとりと濡れた。
ドクン。心臓が跳ねる。
あった。
教授の研究室の窓から、鉢に植えられたホウセンカが、高い棚の上に置かれているのが見える。
きっとあの土の中には。
暗く赤い、震える、あれが。
ドクン。
あれに触れたい。
視界が狭くなり、あの暗い赤で目の前がいっぱいになる。
あれに。土の中の、あれに触れたい。
だが、ここからでは花に手を出すことも、鉢の中を覗くこともできない。
知りたい。触れたい。
衝動が、身体中に充満する。
頭の中が、研究室の鉢植えのことで占められる。
あの研究室に押し入ってでも、あれに触れたい。
容赦のない日差しによって、熱を与えられた血が、身体中を巡っているのを感じる。
ドクン。ドクン。
心臓がやかましく鼓動する。
あれに、早くあれに触れなければ。
そうでなければ、今にも私は。
あふれる熱と衝動で、体が限界まで膨らみ、そして。
乾いた音を立て、弾け飛んでしまいそうだ。
翌日、弾け出しそうな衝動に突き動かされて、私は、園田教授の研究室の前に立った。
何を言われても、絶対にあの花を手に入れる。
あの花が、私を呼んでいる。
あの花は、私のものだ。
誰にも渡さない。
研究室のドアをノックしようと手を上げたとき、中から話し声が聞こえた。
講義の時と同じ、園田教授の柔らかな低い声が、漏れ聞こえてくる。
「では、明日。15時にここへ連れてきてください。」
明日、15時。何のことだろう。
周りに誰もいないのを確認して、ドアに耳を近づけた。
「デスクの上に、土の入った鉢植えと、私のホウセンカを、並べて置いておきます。
土の入った鉢植えに、ホウセンカを植え替えて、持って行ってください。
ですが、これだけは、約束です。
植え替えは、彼が一人で行うこと。
あなたは研究室の外で、植え替えが終わるのを待っておいでなさい。
絶対に、手を出してはいけません。
いいですか、何があっても、絶対に、触れてはいけません。」
分かりました、と女性の声が答えた。
「15時に、私は立ち会うことができませんが、研究室の鍵を開けておきます。
何か間違いがあってはいけないので、15時ちょうどに、お願いします。
詳しいことは、今はお話しできません。
ですが、全てが終わったあとで届くように、あなたに手紙を送ります。
必ず、一人で読んでください。
今は、何も聞かずに。
とにかく、明日、15時です。」
はい、とまた声が聞こえ、足音がこちらに近づいて来る。
とっさに研究室のドアから離れ、教授棟の入り口まで離れた。
ガチャリと研究室のドアが閉まる音がして、中から出てきたのは。
レイだった。
研究室から離れて歩き去っていく、レイの背中から、目が離せなかった。
もし、今レイがこちらに振り向いても、レイは、私に気付かないかもしれない。
心の底から湧き上がる憎しみに抗うことなく、感情のままに、その背中を睨みつけた。
きっと私の顔は、ひどく歪んでいるはずだ。
許せない。
レイがどんな手を使って、あの花のことを知り、教授と話をつけたのかは分からない。
そんなことは、どうでもいい。
ドクン。ドクン。ドクン。
心臓が激しく鼓動し、血が身体中を駆け巡る。
あの花を手にするのは、
あれに触れるのは、
私でなければいけない。
他の誰でもない、私でなければ。