衝動②
あの時見つけた暗い赤が、しばらく頭を離れなかった。
土の上で、蠢いたはずの、あの、何か。
あれは一体何だったのか。
園田教授の授業の時間、私はいつもの席に座り、花壇で揺れる赤を窓から眺める。
開かれた大学の庭には、小さな子どもの軽やかな声が、暑さに負けずに響いている。
教授の穏やかな声が、外の賑わいと混ざり合う。
混ざり合って、形を変えて。
あの日の教授の言葉となって、頭に響いた。
それに触ってはいけません
教授は、あれが何か、知っているんだろうか。
知っていた上で、触るな、と言うのだろうか。
それから毎日のように、厳しい日差しの下に出て、あの花壇を覗いた。
赤。あか。アカ。
日の光を受けて輝く、明るい赤。土の上に落ちた後でも、その赤は明るさを失わない。
地中に広がる根は、この花壇中に張り巡らされ、大地を抱えているはずだ。
根が養分を吸い上げ、茎を通って、花に送られる。
そうして、明るい赤が、誇らしげに咲き誇る。
しかし、やはり一つだけ。
他の花と色合いが違う。
どんなに明るい日差しの中でも隠すことのできない、その、暗い赤。
同じ花壇で芽を出し、育ったはずなのに。
なぜ、この花だけ、色が違ってしまったのか。
もしかしたら、ここだけ、土が違うのか。
明るく赤い花を咲かせるはずのホウセンカを、暗い、血の赤に染める土。
この花の下には、一体何が眠っているのか。
この花の根は、一体何を吸い上げて、花を暗い赤に染めたのか。
あの時、土の上に見つけた、蠢く暗い、赤。
あれは一体何だったのか。
翌週、園田教授の講義は休校だった。
ひとつ前の時間、別の講義を一緒に受けた友だちが、一緒に前期試験の対策をしようと声をかけてくれたので、そのまま授業終わりに、私たちは学食のテーブルについた。
ランチの時間をずいぶん前に終えた学食は、私たちと同じように、ノートを広げる学生でチラホラと席が埋まっている。
けれど、ランチタイムのあの混雑と喧騒に比べれば、驚くほど穏やかな時間が流れていた。
学食の窓は、大きな欅の木の生えた広場に面している。その周りには、小さなプランターが並べられ、名前を知らない、よく目にする鮮やかな色の花たちで賑わっている。
明るい赤を揺らす、ホウセンカのプランターも混ざっていた。
「ハナちゃん、お待たせ。」
近くの自販機でお茶を調達してきたレイが、私の斜め前の席に腰を下ろす。
机の上には、前の講義で使った教科書やノートが広げられていた。
「何見てたの?外に、何かあった?」
「ううん、ホウセンカを見てただけ。」
「ホウセンカ?あぁ、あの赤い花だっけ。なんか懐かしいね、子どもの頃、小学校で育てた気がする。」
レイが窓の外を見ながら、そう溢す。
彼女の瞳は、どこか遠い場所を眺めているようだった。
「私も、小学校の頃、育てたよ。ホウセンカの種を飛ばすの、好きだったんだよね。」
「私もやったよー、あれ、楽しかったなぁ。」
弾んだ声とは裏腹に、こちらに目線を戻したレイの顔は、どこか、沈んでいた。
「……どうしたの?」
「あのさ、私もしかしたら、大学、やめるかもしれない。」
「え……」
顔を伏せ、開いたノートと見つめたまま、レイは話続ける。
「私、弟がいるんだ。今年、小学校2年生。年の離れた弟だから、可愛くて仕方ないの。
でも、弟は、生まれつき心臓に病気があって。
年に何回か、入院したり退院したりって、繰り返しながら、ここまできたんだけど。」
そこまで話して、レイは、困ったような笑顔をこちらに向けた。
「もう、ダメみたい。」
「え?」
「手の施しようがないんだって。この間、入院先から、退院してきた。」
「…………。」
言葉が出なかった。
それは決して、おめでとうと言えない退院。
最期の時を、穏やかに家族と過ごすための。
「私は弟と違って、おかげさまで病気ひとつしたことがなくて、好きなように生きて来れた。
でも、あと何日、弟と一緒にいられるか分からなくて。
あの子は、小学校も卒業できないまま、いなくなっちゃうかもしれない。
きっと、ホウセンカの実がはじけるとこも、一度も見ないままなんだよ。
それなのに、私ばっかり、こんな風に生きてていいのかなって。」
レイの瞳から、ほおに涙が伝う。
そのまま、開いたノートに、ポツンと、落ちた。
「ごめんね、こんな話して。全然、試験勉強にならないね。」
笑わないでほしいと思うのに。
泣いていいよと、思うのに。
私は曖昧な顔をして、ティッシュを差し出すことしかできなかった。
窓の外では、大きな欅の木影の中、明るい赤のホウセンカが、風にふるりと揺れていた。