衝動①
視界の隅に、赤が映った。
窓の外に目をやると、すぐそこにある花壇が、緑と赤で染まっていた。
赤いホウセンカの花が、長い葉の間に見え隠れしながら、誇らしげに揺れている。
つい先日、長い梅雨を終えたばかりの空からは、夏らしい輝く日差しが注いでいる。
「……以上で、今回のテーマに関する講義は終わりです。次回までの課題として、レポートを提出してください。概要は……」
教室の中では、マイクを持った教授が、黒板に、課題の字数や提出日を書き出し始めた。
チョークの削られる硬い音と、教授の柔らかい声が、どこか遠くで響く。
また小さく風がそよいだ。
梅雨の名残か、土の匂いを含んだ風が、開け放たれた窓から教室の中を通りぬける。
窓の外では、小さな赤が、緑の狭間で、こちらを誘うように、揺れて。
窓の外で揺れるその赤と緑に、私は、目を奪われた。
今年の春から、大学生になった。
遠い田舎から出てきたので、同郷の友達はいない。
都心から少しばかり離れたこの大学では、構内の所々で、大きな木々が茂り、花壇にはたくさんの花が植わっている。
一人きりで都会に出てきた私の心は、たったそれだけのことで、大いに慰められた。
ここ2、3ヶ月で、ようやく、隣同士で座って授業を受ける、友だちといえそうな知り合いもできた。
連絡先を交換して、ランチを一緒に食べたり、課題を相談したり。この都会の片隅に、どうにか、自分の居場所を見つけられた気がする。
もっとも、せっかくの友達も、履修する講義が被らなければ、一人きりで黒板と向かい合うほかはない。
現に今も、私の隣の席には、乱雑に自分の荷物が置かれていた。
園田教授の講義は、履修希望者が少ないのか、他の講義と比べて空席が目立つ。
教授が動きを止めるたび、教室は、静寂に支配された。
他の講義ではお馴染みの、学生の囁き声も、カバンをゴソゴソと探る音も聞こえない。
マイクを通る教授の声が、唯一、教室の空気を震わせる。
けれど私は、園田教授のこの講義の時間を、案外気に入っていた。正確には、窓からホウセンカの花壇を眺めることのできる、この時間を。
春には、均された土が広がるだけだった花壇から、あるとき一斉に芽が顔を出し、背比べのように競って立ち上がり、蕾をつけ、花を咲かせた。
週に一度の講義の時間、同じ席で、花の成長を窓越しに眺めるのが、私の密かな楽しみになった。
だから、一人きりのこの時間も、この席も。
大切な私の居場所の一つだった。
小学生の頃、学校の授業で、でホウセンカを育てたことがある。
花が咲けば、赤い花弁を摘んで石でこすり、水に入れ、色水を作った。
花が落ちて実がつけば、指でつまんで、はじけさせた。
ホウセンカの実は、触ると同時に、パッと裂け、小さな種が弾き出される。
その様子が面白くて、楽しくて、毎日毎日花壇を覗いては、はじけそうな実を探して回った。
あの花壇も、そのうち、種を孕んで膨れた実でいっぱいになるだろうか。
風がそよぐ。
赤と緑が揺れ、湿った匂いが運ばれてくる。
季節が変わり、降り注ぐ日差しは容赦がない。
空調の効いた教室で、相変わらず隣の席に自分の荷物を放ったまま、締め切った窓に目を向けた。
夏空の下の花壇には、相変わらず、ホウセンカの赤と緑が誇っている。
もっとも、梅雨が明けたばかりのあの頃と比べて、土の上に落ちて転がった赤も目立つ。
そろそろ、花が実をつけ始めたのかもしれない。
教室では、教授が前期試験の範囲についてアナウンスをしていた。
チョークがぶつかる硬い音が響く。
教授が黒板に書き出した教科書の該当ページを、私はあわてて、ノートに書き取った。
授業の後、私は、あの窓から見える花壇を目指して外に出た。
もしかしたら、はじける実があるかもしれない。
子どもの頃の記憶とともに、そんな期待をしながら、容赦なく照りつける日差しの中を歩いた、けれど。
いざ近くで花壇を覗くと、茎からぶら下がった緑色の実はまだ小さい。
指で挟んだら、そのまま潰れてしまいそうだった。
背の高い茎から伸びる葉の間で、ホウセンカの赤い花弁と、出来立ての緑色の実が、日の光を浴びている。
花壇の脇にしゃがみ込み、花にそっと指先で触れる。
幾重にも重なる、鈴のような赤と緑が、くすぐったそうに、ふるりと揺れた。
押し合うようにひしめく緑の葉の下には、花の豪奢さと比べてずいぶん慎ましい、ほっそりとした茎が伸びている。
そして、土の上には、役目を終えた赤い花が、ちらほらと散っていた。
落ちた花を一つ、つまんで、花弁を親指と人差し指でそっと擦る。
つるりとした薄い赤が、指に吸い付いた。
夏のきらめく日差しを浴びて輝く、明るい赤。
子供のころ、この花弁を石で擦って、色をつけようと遊んだことを思い出す。
どんなにたくさん花を集めても、力一杯擦っても、花弁を入れた水は、明るい赤にはならず、濁ったピンクにしかならない。
そしてそのうち、夢中で握っていた石で手のひらに切り傷を作り、血が滲んだ。
そういえば、私はあのとき初めて、血の色が、絵具の赤とは違うのだと、納得したのだった。
血の赤は、ホウセンカの赤とは、違う。
日に当たることもなく、輝くこともなく、流れ落ちるだけの、暗い赤。
子どもの私は、血の滲む手のひらに、ホウセンカの花弁を並べて。
怪我に気づいた母から声をかけられるまで、その赤と赤を、見つめた。
あのときのように、つまんだ花を手のひらに載せる。
明るい赤が、私に手の上でころりと転がった。
きっと夏が盛る頃には、すべての花が落ち、代わりに種を孕んだたわわな実が、風に揺れる。
そして、はぜた実から飛び出す種は、また来年も、この花壇を赤く染めるだろうか。
そんなとりとめのない思考を広げながら、もう一つ、実をつける前に落ちてしまったらしい赤い花弁をつまみ、手のひらに載せた。
二つの明るい赤い花が、私の手の上でふるり揺れる。
はずだった。
しかし、今私の手のひらの上では、異なる赤が揺れている。
日の光を浴びて、一方は明るい、けれどもう一方は、暗い。
後から手に乗せたホウセンカの花弁は、あの日、私の手の平ににじんだ血の色のと同じ、暗い、赤だった。
暗い赤の花弁が落ちていたあたりを見ると、確かに、花壇の真ん中付近にある一つの株だけ、咲いている花の色合いが、他の花と異なっている。
暗い赤、血の赤だ。
心なしか、ほかの花と比べて、土に落ちている花の数も少ない。そして、その株には、一つも実がついていなかった。
もしかすると、ここだけ、土の性質が違うのかもしれない。
そう思って、暗く赤く咲く花の根本に、目を向けた。
何かが、蠢いたように見えた。
暗く赤い、小さな、何かが。
「え?」
なにか、いる?
よく見ようと目を凝らしても、風に揺れる花や葉が邪魔をして、視界が定まらない。
両手で葉を避けようと、花壇の真ん中近くまで両手を伸ばした時、
「何か、見つけましたか。」
講義中に私が外を眺めていた窓から、教授がこちらを見つめていた。
いつもマイクを通して耳にする教授の声を、窓越しに外で聞くのは、どこか奇妙な感じがした。
「いえ、別に……」
園田教授は、窓に手をかけ、少し身を乗り出すようにして、窓と花壇を挟んで立っている私に向き合った。
教室の窓辺に立つ教授の目線と、私の目線とが、同じ高さで真っ直ぐに絡まった。
教壇に向かって階段状に低くなる1階の教室は、1階からの高さから、半地下に潜るようになっている。
長身の教授を見上げることなく、同じ高さで向かい合って言葉を交わすことに、空間が歪んでしまったような違和感を覚えた。
「ホウセンカの花言葉を、知っていますか。」
唐突に、教授が語りかける。
それは、講義の時と変わらない、柔らかな声。
「……知りません。」
「私に触らないで。」
「え?」
「ホウセンカの花言葉です。
ホウセンカの種は、触れただけでも弾けて飛んでいってしまう。その様子から、そんな花言葉が当てられたようですよ。」
教授は、穏やかに微笑んでいる。
「それに触ってはいけません。」
「え、っと……ホウセンカに、ですか。」
「ええ。それ以外に、何か?」
「いえ、何も……。」
ホウセンカに触ってはいけない。
なぜ。
そういう、花言葉だから?
でもそれは、種が弾け飛ぶ様子を、当てたものだ。
そして、花言葉だ。
花壇に植わったホウセンカを、もう一度、みる。
花盛りのホウセンカには、弾け飛びそうな種を抱えた袋は、ひとつも見つからなかった。
掛け違えたボタンのような、ズレを感じる。
なぜ、触ってはいけないのか。
そう聞こうと、顔を上げると。
すでに、教授の姿はなかった。