第4話 ディアナ・オルブライト
ディアナは、これまで幾度となく夢を見た。
幾度となく、過去の傷に苛まれた。
混沌。混沌。混沌。
略奪。破壊。乱獲。死闘。戦争。奸計。凌辱。弾圧。殺戮。飢餓。厄災。
数多の死と、嘆きの記憶。
自分のものではない記憶。
ディアナ・オルブライトは自分の年齢を知らない。
ディアナ・オルブライトは自分の過去を知らない。
ディアナ・オルブライトは自分の傷痕を知らない。
どの記憶が「自分」なのか、彼女にはわからない。
***
「ん……」
とうに慣れた悪夢から目覚め、ディアナは辺りを見回した。
ランドルフの姿はないが、鋭敏な嗅覚は「彼」の存在を遠くない位置に探り当てる。
のそのそと起き上がり、ディアナは人の姿に戻った。
狼の姿の方が楽ではあるが、仕事をする際はこの姿にならなくてはならない。
「ああ、そうか」
思い出したように着替えを手に取り、身に着ける。
狼として領主の館に飼われていた時期が長いせいか、ディアナは時折、人間としての作法がわからなくなる。
何より、「人」として過ごすのは疲れやすい。……余計なことを、たくさん考えなくてはいけなくなる。
「あ」
「おっと」
ランドルフを迎えに行こうと扉を開くと、件の相手と鉢合わせした。
どうやら、ノックをしようか迷っていたらしい。
「……あー、その、なんだ。お前さん、ウサギの丸焼きは好きか?」
「好みかどうかは定かではないが、問題なく食せる」
「そ、そうかい。まあ、嫌いじゃねぇなら何よりだ」
「……? 君は、日々の糧に栄養補給以外の意味を求めるのか。変わっているな」
「いやあ、変わってはねぇだろう……」
不思議そうなディアナに対し、ランドルフは気まずそうに頬を掻く。
問答に埒が明かないとばかりに、こんがりと焼けたウサギの脚をディアナの目の前に差し出した。
「……とりあえず、これを食え。疲れてんだろう」
ディアナはきょとんと目を見開き、ウサギの脚とランドルフの髭面を見比べる。
「疲労していると言うのなら、君だって」
「俺は頭を食った。後はクソして寝りゃあ充分だ」
「……そうか」
ディアナはウサギの脚を受け取ると、そのままパタンと扉を閉じた。
「……えっ?」
驚くランドルフに対し、扉の向こうから少しだけ上擦った声が飛んでくる。
「き、君は、食事の光景を他人に見られても平気なのか。変わっているな」
「…………。マジかよ……」
ランドルフは出会いの一件から、ディアナに羞恥の概念がないのだとばかり思っていた。……が、それはどうやら思い違いだったらしい。
厄介な依頼人だ……とばかりに天を仰いだランドルフに、扉の向こうから、再び声が届く。
「その……ありがとう」
「あ?」
「食糧を提供するのは、もてなしの基本だと認識している。そのことについて、礼を述べた」
「……おう」
ギィ、と扉が開く。綺麗に軟骨までこそげ落ちた骨を後ろ手に隠し、ディアナは真っ赤な顔を覗かせた。
「……食事の音は、聞こえなかったか」
ランドルフの脳天に、雷が落ちたかの衝撃が走る。褐色の瞳が、たった一つの感情をはっきりと映し出していた。
かわいい。
その日、ランドルフは幾度目かの恋に落ちた。
***
その頃。領主の館では領主と側近たちの合議が行われていた。
「……状況はいかがですかな。フィーバス様」
年老いた側近の視線の先には、穏やかな笑みを浮かべた領主が優美に座していた。
亜麻色の髪を綺麗に後ろへ撫でつけた男。歳の頃は、壮年に差し掛かった頃だろうか。目元にシワらしきものは見えるものの、その表情は若々しく、若者だと言われれば誰もが納得してしまいかねない。
「うーん、そうだなあ」
亜麻色の髪の領主は、報告書類を一言一句丁寧に指先でなぞっていく。
「これで、魔獣は一匹いなくなった。『ブラックベリー・フォレスト』の開発も少しは進めやすくなる……んだけど……」
細められた瞳が、すっと見開かれる。
深い蒼の瞳は、昏く輝きながらも果てのない野心を映し出していた。
「まだまだ、一件落着とはいかないよねぇ」
軽いようでいて、真意の見えない声。
部下たちは緊張に身を強ばらせながら、次の言葉を待った。
「また、騎士さんに来てもらおうか。今度は……」
腹の底の見えない微笑が、燭台の灯りに煌々と照らされる。
「狩人くんも一緒に、ね」