第45話 ある村の悲劇
紫煙がオレンジ色の空に立ち上り、吸い込まれるように消えていく。
陽の傾いた空を見上げ、デイヴィッドは昔を思い出していた。
──クソッ……もう、どうにもならねぇのか……
数十年前。ランドルフが、「魔獣」と化した日のことだ。
***
ランドルフが隔離された後、集会は陽の暮れかけた頃合に行われた。
「ああなっちまったら手遅れだ。殺すしかねぇ」
デイヴィッドの言葉に、最初は反対の声すらなく、集会所は重苦しい沈黙に満たされていた。
みな、分かっていたのだ。それが正しい判断だと。
「待って! 諦めるには早いわ!!」
悲痛な声に、聞き覚えがあった。デイヴィッドは目を見開き、彼女の名を口にする。
「……ヘレン」
……ランドルフの、かつての妻だった。
ヘレンはある日、ランドルフに別れを告げて家を出た。……それは、村の誰もが知るところだった。
真実は当人同士にしか分からない上に、事は男女の諍いだ。多少の噂話にはなったものの、彼らと親交の深い者は誰もが話題にすら出さず、触れずにいた。
「仕方ないよ……。『呪い』なんだから」
「でも……でも! さっき見た時、見た目はそのままだった! まだ助けられるはず!」
「ヘレン……意外だな。あんた、ランドルフを嫌いになったとばかり……」
村人達とヘレンの会話を、デイヴィッドは黙って聞いていた。
「確かに……あの人の様子が変で、気持ち悪くなって出てったのは事実よ。夫として見れなくなったのも……妻でいられないって気持ちも変わらない。だけど……だけど、あの人はずっと優しい人だったし、悪い人じゃないのは私がよく分かってる! あんな別れ方で終わりなんて、嫌なのよ……!」
ヘレンは涙ながらに訴え、周りの村人達に動揺が走る。彼女は伴侶としてはランドルフを拒絶したが、ランドルフの人柄に関しては高く評価していた。……とはいえ、その「人柄」が、どれほどの葛藤と努力の末に繕われたものかは、知る由もなかったのだろう。
デイヴィッドは首を横に振り、あくまで穏やかに諭そうと努めた。
「気持ちは分かるが……ありゃ、よっぽどの術者でも呼ばなきゃどうにもならねぇ。そんな奴が、辺鄙な村に都合よく来てくれると思うか? 来たとして、それまでにどんだけの被害が出ると思ってやがる」
デイヴィッドとて、ランドルフを殺したくなどなかった。
……それでも、友人である彼は、友人であるがゆえに理解していた。「もし村人に被害が出れば、ランドルフ自身が苦しむことになる」と……。
「……化け物に何がわかる」
そう呟いたのは、年配の男だった。
……彼はヘレンの父親であり、ランドルフの同業者でもあった。
「惚れた男のために泣く女の気持ちなんざ、てめぇに分かるわけねぇだろうが!」
「ち、ちょっと! そりゃあ言い過ぎだぞピーター!」
「言い過ぎなもんか! こいつの情が薄いのはみんな分かってんだろ!?」
喧騒は次第に大きくなり、場の意見は割れ始める。
デイヴィッドは拳を握り締め、唇を噛み締めた。……冷静であれと、自らに言い聞かせて。
「……お偉いさんの意見を仰ぐ。それでどうだ」
「……! そんなの、『処刑』って言うに決まってるわ!」
「で、でも、牧師さんの言う通りじゃないのか? 俺たちにゃどうにも……」
「無理やり話を進める気か!? そうはさせねぇぞ!!」
集会所はパニックに陥りかけていた。
自らの複雑な感情と他者の激情とが入り乱れ、デイヴィッドの頭痛が次第に酷くなる。
「やかましいッ!!!」
よく通る怒声に、辺りはシーンと静まり返った。
「……結論は保留しようぜ。これじゃ、ろくな話し合いにならねぇ……」
デイヴィッドは、あくまで冷静に話し合おうと努めたつもりだった。
……けれど、一度始まった暴走は収まらなかった。
翌朝早くに行われた集会にて、デイヴィッドは胸を押さえて倒れた。
彼の食事に、ピーターが毒を混ぜたのだ。
「……ッ、かは……っ、ぁ……」
呼吸のできない苦しみとともに、鎖された記憶が激しい頭痛を呼び起こす。
「やだ……ちょっと、誰なの!? こんなの酷い……!」
「だ、大丈夫か牧師さん! しっかりしろ!」
「……トリカブトの毒だ。ヘレン、これでランドルフは助かるぞ……」
「……!! そんな……お父さん……」
当時は、デイヴィッドでさえも知らなかった。
自らが「不死」であると。
「医者は!? 誰かひとっ走り、隣町まで呼んでこい!!」
「ダメだ……トリカブトは……解毒剤も治療法もねぇ……」
「く、苦しそうだぞ! 早く何とかしてやれ!」
朦朧とする意識の中で、デイヴィッドは、慌てふためく村人達の声を聞いていた。
「しっかり致死量にしてやったはずだがね……。ワシの勘も、鈍っちまったな……」
霞んだ視界に、斧を持った男が映る。
「ね、ねぇ! 何する気!?」
「……こうなりゃ仕方ねぇ……。楽にしてやるんだよ……!」
悲鳴と怒号が飛び交う中、デイヴィッドの視界は暗転した。
デイヴィッドが次に目を覚ました時、彼の身体はベッドに寝かされていた。
胴体から分かたれたはずの首は綺麗に縫いつけられ、血で汚れたはずのカソックも着替えさせられていた。
傍らの手紙を拾い上げると、積もったホコリがぱらぱらと落ちる。内容を確認して、全てを理解した。
デイヴィッドの毒殺は、ピーターに呼びかけられた者達が示し合わせて行ったことだった。デイヴィッドを死なせたことで、余計にランドルフを救う決心が固まったという。
「人を死なせてしまったからには」と……。
そして、ほとんどがそのランドルフに喰い殺され、帰って来なかった。
再び争いが起こり、村を出ていく者も相次いだ。自分も出て行くし、「手紙を宛てた相手」も早く出ていった方が良い、と。やはり、「牧師さん」は正しかった。助けられず、申し訳ないことをしてしまった。……そう、手紙の主は綴っていた。
「もう、私達には墓を立てる余裕すらありません。……せめて、安らかに眠ってください」……手紙の裏側には別の筆跡で、祈りの言葉が綴られていた。
手紙を握り締め、デイヴィッドは部屋を飛び出した。宿屋だった場所には、他にもいくつもの屍がベッドの上に寝かせられ、すべて、無惨にも朽ち果てていた。
傍らには、デイヴィッドの時と同じように「安らかに眠ってください」と書かれた紙が添えられていた。
デイヴィッドは不思議と、自らの状況に納得していた。
毒物に蝕まれたために、肉体の修復に時間がかかったのか……と、無意識に理解もしていた。
だから、考えないようにした。……鎖した記憶を、鎖したままにしておくために。
村人達に祈りを捧げた後、デイヴィッドは近隣の村に向かった。「一度死んだが神の奇跡によって蘇った」と言い訳し、もっとも反応が好意的だった村に滞在することにした。
最初は半信半疑だった村人たちも、「神の眼」を用いて魔獣の痕跡を視れば、次第に納得して彼を頼った。
ディアナが領主の命令で派遣されてきた時、デイヴィッドの記憶はひどく騒いだ。
その後、領主自身が現れ、デイヴィッドの記憶に重要な手がかりが隠されている、調べさせてくれ、と話すようになる。
「どうにか、思い出せないかな。ほら、幼少期のこととか……『妹』のこととか……」
「……ぅ、ぐっ、ぁ、あぁあっ!!!」
「……これは……酷いね。封印かな……?」
デイヴィッドの身体には、「神獣」の力を持ってしても癒しきれなかった「痕」がいくつも残されている。……その中でも、心に刻まれた痕が、もっとも深く、もっとも大きい。
ディアナがランドルフを人間に戻した際、デイヴィッドが同席できなかったのも、ちょうど体調を崩していたからに他ならない。
……それでも。
自分を殺そうとした村人もいれば、救命しようとした村人もいた。
「死体」となった自分の首を縫い、着替えさせてくれた村人もいた。
苦痛の多い生だとしても、傷がいつまでも痛むのだとしても、デイヴィッドにとって、世界はそこまで悪いものでもない。
セレナに言った通りだ。
デイヴィッドは今、兄として、親友として、牧師として生きられている。
かけがえのない居場所を、デイヴィッドは愛している。
***
「マーニ様」
声をかけられ、振り返る。
彼を「マーニ」と呼ぶのは、もう、一人しかいない。
「……サイラスか。『仕事』はどうした?」
「現場は部下だけでも、僕が指示を出せばどうにか回っているようです」
「ほぉー。いいご身分なこって」
「恐縮です」
「褒めてねぇよ」
ぼんやりと空を見上げ、二人は取り留めのないことを語り合う。
「トリシアは……『一人にしてくれ』と」
「……ま、そういう時間も要るだろ」
「一応、何かあったら飛んでくるように、術はかけてあります」
「一応聞くが……今、オレが『一人にしろ』つったらどうする?」
「…………仕事します」
「冗談だよ。……余計なことを考えちまってたからな。テメェが来て助かった」
サイラスは目をぱちくりと瞬かせ、恐る恐ると言った様子で「だ……大丈夫ですか?」と問う。
「かなり、弱られているのでは……」
「……うるせぇ。やっぱ一人にしろ」
「す、すみません!!」
暮れていく空に、うっすらと月が浮かぶ。
そろそろ、ランドルフ達が目的地に辿り着く頃合だ。




