第26話「フィーバス・オルブライト」
「う……うう……」
傷ついた腕を押さえ、フィーバス……いや、サイラスは、森の中をさまよっていた。
「ディアナ……さま……」
サイラスには森を歩く知識などない。
服は破れ、足を傷め……ボロボロになりながらも、魔術を駆使してどうにか先へと進んだ。
「こんな……はず、では……」
サイラスの目的はただ一つ。
オルブライト家の復興。……嘘ばかりついて生きてきたが、その目的だけは真実だった。
そのために「オルブライト家」嫡男を名乗り、領主の座に着いた。森で狼として生きていたディアナを見つけ出し、「妹」としてブラックベリー・フォレストの古城へ迎え入れた。
やがて特異な眼と不死の肉体を持つ牧師の噂を聞きつけ、ディアナの報告や直接の訪問によって、彼が本来の「オルブライト家嫡男」であることを確信した。
全てが順調だった。
後はデイヴィッド……マーニの記憶を取り戻させ、領主の座を明け渡し、その後は側近としてオルブライトの繁栄に尽力するつもりだった。
神の力を受け継ぐ者は必ずしも二人生まれるとは限らないが、基本は「神の眼」を持つ者が領主となり、「獣の力」を持つ者がその右腕として支えるのが習わしだった。……そう、古い書物には書かれてある。
けれど、デイヴィッドは憎しみに心を蝕まれ、「魔獣」であるルーナに連れて行かれた。ルーナの目的はまだはっきりしないが……このまま放置しておけば、ブラックベリー・フォレストに災禍が訪れるのは明白だった。
次第に体力も尽き、目が霞んでくる。体力も精神力も尽きれば、魔術の発動は不可能になる。
それでもサイラスは力を振り絞り、夜闇に呑まれていく森を進んだ。
「ああ……そういえば……」
消えかけの光の玉が、自分以外の魔力を感知して方角を指し示す。
「ディアナ様と出会ったのも……こんな夜だった……」
サイラスは精も根も尽き果てながらも、這うようにして先に進んだ。
遠い記憶が、走馬灯のように蘇る──
***
サイラスはスチュアート家に産まれたが、スチュアート家に情は微塵もない。
父はオルブライトの残党を血眼で探し、手にした実権を盤石なものにしようとしていた。
叔父であるブレンダンも同じ考えであり、兄弟姉妹も甥や姪も、スチュアート家の未来のため厳しく育てられた。
過酷な躾によって、歪んだ者、心が折れた者も少なくない。
サイラスも、そのうちの一人だった。
父に怒鳴られ、母に詰られる日々に耐えかね、気付けば家を飛び出していた。
行く宛などどこにもなく、貴族として育ったサイラスには森で生き抜く知識などない。知識があったとして、まだ子どもだったサイラスにまともな運用は見込めない。
それでも、家で心が殺されていく苦痛の方が耐えられなかった。
たとえ明日死んでも、生きながらにして死んでいく苦痛よりはましだ。……そう、思った。
傷だらけになって森をさまよう中、やがて日は暮れた。
サイラスはいよいよ死を覚悟し、その場に倒れこんだ。
喉が渇き、全身が痛み、指先一つ、まともに動かせない。
……「死」によってあの家から逃れられるなら、それでもいい気がした。
まだ未来ある少年の身でありながら、サイラスは、自らの死を受け入れそうになっていた。
そんな折。ガサゴソと茂みが音を立て、一匹の獣が顔を出す。
「ひ……っ」
その瞬間、確かな恐怖が背筋を駆け抜けた。
死を覚悟していたはずなのに、獣の牙に噛み砕かれ、臓物を引き出され、生きたまま喰われる自分を想像し……
「た、助けて……」
サイラス少年はさあっと青ざめ、ガタガタと震えた。
それでも、彼にはただただ震えることしかできない。……少年にはもはや、何も残されていなかった。
助けを乞う声に、ピタリと獣の動きが止まる。
まさか、言葉が通じたのか……? と、サイラスは恐る恐る様子を伺う。
本来ならば有り得ない想定は、壊れかけた心を守るためのものだったのだろう。
刹那。雲から顔を出した月の光が、二人……いや、一人と一匹の姿を照らした。
「……子どもか」
真っ白な毛並みに、金色の瞳。
神々しいまでの美しさを持った獣は、間違いなく人の言葉を話した。
「……来い。さすがに、子どもを見捨てるわけにはいかない」
「え……ぁ……え、と……。……う……っ」
ついて行こうとして、少年は痛みに顔をしかめる。森をさまよい、ボロボロになった身体は這うのがやっとだった。
「…………」
白い狼はその様子をじっと見つめていたが、やがて、少年の襟首をくわえて持ち上げた。
「わぁっ!?」
「ついて来い」
無理やり連行され、辿り着いたのは、拓けた空間だった。
中央には、ぼろ小屋がひっそりと佇んでいる。
鍵は壊れており、狼が押すだけで扉は簡単に開いた。
「人間が過ごすのなら、ここがいいだろう。今、水か果物を用意する」
白い狼は部屋の中央にサイラスを放り投げ、そう語った。
ふと、サイラスは部屋の隅にもう一人……いや、もう一匹いることに気がつく。
「……まだ、いたのか。母さん」
母さん。そう呼ばれた狼の体格は、サイラスを連れてきた狼よりもひと回り小さかった。
「私と森で過ごそう。ここに長居するのは、あまり良くない」
その問いに、母狼は力なく首を横に振る。
白かったであろう毛並みは薄汚れ、灰色になっていた。
「待っているのです」
「……兄さん達は、たぶん、帰って来ない」
「それでも、待つのです」
母狼も人の言葉を話したが、その声はどこかたどたどしく、覇気がなかった。
「あの子達の名前がわからなくなっても。いずれスチュアートの手の者が再び現れるのだとしても。……もう、待つしか、ないのです……」
よく見れば、その肉体は骨と皮ほどに痩せ衰えていた。
スチュアート。その名が出たことで、サイラスは全てを悟る。
オルブライトとスチュアートの因縁は、父や叔父から耳にタコが出るほど聞かされていた。
「済まない。母さんは記憶が混乱しているようだ。よく分からないことばかり言うかもしれないが……あまり、気にしないでくれ」
「セレナ……本当に、申し訳ありません」
「……。私はディアナだ、母さん」
憔悴し、娘の名前すら分からなくなり、痩せ衰えた母親。
……直接関係はないにしても、スチュアートに産まれた者として、心を苛まれる光景だということに違いはなかった。
その瞬間から、サイラスは、激しく自らの出自を憎んだ。
自分を苦しめたスチュアート家を憎み、自分を救ったオルブライト家に恩を返そうと誓った。
ディアナは普段から小屋にいるわけではなかったが、傷ついたサイラスに森で取れた果物や木の実をいくつか与え、時に鳥やウサギの肉もくわえて持ってきた。
とはいえサイラスは人間の子ども。さすがに生肉を食べるわけにはいかず、どうにか魔術を駆使して羽や毛皮を剥ぎ、炙って食べた。
母狼は常に部屋の隅でぼんやりとしていたが、特に話しかけてくることもなければ、こちらから声をかけることもなかった。……何となく、声をかけることがはばかられたのだ。
傷が癒え、体力も回復した頃。ディアナはサイラスを人里の近くまで送ってくれた。
「もう、迷い込むな」
それだけ告げて、白い狼は森の奥へと姿を消した。
間違いない。オルブライトの神獣は魔獣などではなく……神の化身だ。
サイラスはそう確信し、そのまま迷わずもう少し大きな街の方へと向かった。
身に付けた「魔術」を駆使して住み込みの働き口を見つけ、働く以外の時間は勉学に勤しみ、15年ほど経った後に領主の城へと舞い戻った。
顔つきや雰囲気を変えるだけで、誰もが自分を「サイラス」だと気付かなかった。……いや、数人気付いたものはいたかもしれないが、みな、厄介事を恐れて黙り込んだ。
……元より、スチュアート家にとって彼はその程度の存在だったのだ。
サイラス・スチュアートの名はとうに捨てていた。「フィーバス・オルブライト」と新たに名を騙り、男は散々練った作戦を独りで実行に移した。
狂気にも近い執念がそこにはあった。
信じる神を、再び表舞台に立たせる、と──




