秘密文書
熱が下がった日の朝。
オカンから「今日もう一日、水汲みなんかはしなくていいから休んでおきな」と言われた俺は、早速木の皮と木炭を使って考えを纏める為、夢で見た内容を書き出していた。
夢の中では当たり前にあった紙や鉛筆は、俺の村にはない。
更に言えば、村人の半数以上はまともに文字なんか書けないんじゃないかな。
字を学ぶなら教会や学校に行かなければいけないが、そこに通えるのは寄付や学費を払える金持ちだけ。
だから必要になれば御礼を渡して、読める人に読んで貰ったり、代筆して貰うのが普通だった。
だけど夢の中での半生を覚えている俺には、誰に教えられずとも文字が分かった。
ここの主流言語であるドイツ語は勿論、夢ではお馴染みだった日本語に英語、それにロシア語やフランス語もだ。
夢の中では、図書館にある山のような本はただで読めた。古本屋を回れば、朝食一食分よりお安い金額で本を手に入れることもできる。
やる気さえあれば、何だって勉強できたんだ。いい所だったよなぁ……まぁ、夢なんだけど。
夢のことなのに懐しいような不思議な気分になりながら、俺は木の皮に日本語の文字を殴り書いていった。
オトンとオカンは文字を書けないが、これなら万が一にも誰かに読まれることはないから。
とその時、仕事の休憩がてら、俺の様子を見に来たオカンが、俺が書き綴る木の皮をヒョイと覗き込んできた。
「リオン。何してるんだい?」
「暗号文の秘密文書作ってる」
「なんだいそれは。密偵ごっこでもしてんのかい? まぁいい、大人しくしてるんだよ」
「はーい」
ほら誤魔化せた。
オカンは俺が書き綴ったものを目にしながら、案の定何も言うことなくまた仕事に戻っていった。
俺は上手くやり過ごせたことにホっと小さく息を吐いて、書き綴ったものを読み返した。
それは、舞台の“ジゼル”の大まかなストーリーだった。
※※※※※※※※※※※※※※※
〈第1幕〉
ジゼルは心臓が弱いが、ダンスが大好きな可憐な村娘が、ある山間の村に住んでいた。
夜明け前の薄暗がりを、高貴な服を着た青年が農夫の小屋を訪れる。若きアルブレヒト伯爵である。アルブレヒトは従者のウィルフォードに剣とマントを預け、農夫の様な薄汚れた服に着替えた。
ウィルフォードは「そんなマネはお辞めください!」と涙目で訴えるが、アルブレヒトは「ここにな、可愛い娘が住んでいるんだ」と笑うだけだった。
なんとアルブレヒトは、可愛らしいジゼルに目を付け、名前と身分を偽って、農夫のロイスとしてジゼルの家の隣に引っ越してきたふりをしているのだった。
アルブレヒトが農夫小屋に入り従者ウィルフォードも去る。
そしてすっかり日が昇った頃、若い森番ヒラリオンがジゼルをの家を訪れた。
ジゼルに喜んでもらいたくて、仕留めた雉をプレゼントしに来たのだ。
雉子を受け取ったベルタ(ジゼルの母)は大喜び。
だが当のジゼルが喜んだのは、雉子ではなく恋人ロイスの登場だった。
ジゼルはロイスに首ったけ。
その日もデイジーの花弁で、ロイスが自分のことを愛してるかどうかを占って戯れていた。
だが途中、その占いが“愛してない”で終わることに気付き、ジゼルは花を投げ捨てる。
ロイスはあたふたと花を拾い、花弁を一枚千切り捨てて誤魔化し、ジゼルに返した。「よく見て。ちゃんと愛してるで終わるじゃないか」
そして幸せそうに踊りだす二人……。
ヒラリオンはそんな二人の様子に苛立ち「自分もジゼルを愛している!」と訴えるも、結局ヒラリオンは二人に責め立てられるように追い返されてしまう。
ヒラリオンはロイスに対する苛立ちをつのらせていった……。
※※※※※※※※※※※※※※※
これが舞台“ジゼル”第1幕の前半パートだ。
俺はその内容を見て、うーんと首を傾げる。
「……ヒラリオン、やっぱ殺されるほど悪い事してないよなぁ」
……いや、罪なんて考えるだけ無駄だな。
だってどんな善人だって病気や交通事故で死ぬことがあるのだから。
だがまぁ、あえてこの段階でのヒラリオンのミスをあげるとすれば、それはきっとジゼルに“恋”をしたことだろう。
鬱陶しく思われていることを認めず、好きでい続けたこと。
成立されている恋人達にとって、忠告や困難など更に燃え上がる為のスパイスでしかないのに。
―――だから俺はまず1つの対策として、ジゼルに“恋”をしないことを大きく掲げた。
何も一生誰も好きにならないとかいう枯れたことを言うつもりはない。
ただ、俺は絶対に“ジゼル”を好きにならない。絶対にだ。
だけどその決意も僅か翌日、とても困難な事だと俺は思い知らされることになるのだった。
◇
翌日、オカンの了解を得た俺は、またオトンと薄暗い早朝の森への動向を再開しだした。
その日罠に掛かっていた獲物は野ウサギ三匹と狐一匹。
まずまずの獲得だった。
弓の引き方も教えてもらい、センスがあると褒めてらって調子に乗っていたその帰り道の事だった。
オトンが笑顔でとんでもないことを言い出したのだ。
「ヒラリオン。このうさぎ一匹、シュナイダーさんちに持っていけ」
「……え、シュナイダーさんって、ジゼルのとこ?」
「そうだ」
オトンは何故かめちゃくちゃいい笑顔で頷いた。
「ほら、母子家庭になって大変そうだろ? 助け合わなくちゃな」
「オトンが行けばいいじゃん。俺この後オカンの手伝いあるし」
行きたくない。出来れば二度と関わりたくない。
何とか逃げようと言い募ったが、オトンは引いてくれなかった。
「いやいや。それを言うなら俺はこの後狩猟道具の整備があるからな。……それにほら。あの日お前、ジゼルちゃんと仲良くしてたろ。可愛い子だったよなぁ」
「いや、でもウサギ届けるのに可愛いとか関係ないし」
「いいや、あるぞ。可愛い娘に獲物を届けるのは男の甲斐性だからな!」
「何言ってるんだよオトン……」
俺はオトンと話が噛み合わないことに困惑した。
「兎に角お前が持っていってやれ。一つで駄目なら何度でも持っていけば、いつか振り向いてくれるから」
「嫌だよ……俺行きたくない……」
オトンは勘違いしてる。葬式の日、俺がジゼルと知らずに慰めようとしてた姿を見られてたんだろう。
確かにあの時の俺は悲しみに暮れる美しい女の子に見惚れていたかもしれない。―――だけど今はもう、会いたくないんだよ。
俺は懸命に首を振ってオトンの頼みを拒否した。でも理由は説明できない。だって夢のせいだなんて言っても、オトンには笑われるだけに決まってるから。
俺がなんの言い分もなく拒否していると、やがていい加減苛ついたオトンが声を荒げ俺を怒鳴った。
「いい加減にしろヒラリオン! 何にせよシュナイダーさんちに助けが要る事は間違いないんだ! メシの心配がないお前が行くのは当たり前のことなんだよ。分かったら早く行ってこいっ!」
なんだよそれ、ズルいだろ……。6歳の子供がさ、大人にこんな風に言われちゃ聞くしかないじゃん。
「オトンは俺が死んでもいいの……?」
「シュナイダーさんを何だと思ってるんだ。失礼なこと言ってないでさっさと行ってこい」
いや、別にベルトさんが俺を取って食うと言ってるわけじゃなく……。
そして俺はとうとう諦め、オトンから一羽のうさぎを預かると家へ向かう道とは違う道を一人歩き出した。
色付いた大粒の葡萄が垂れ下がるぶどう畑を横切り仕立て屋さんの家につくと、おばさんは手を大きく広げて歓迎してくれた。
自分のことはベルタと呼んでくれ、なんて上機嫌で俺を家に招き入れる。
そしてお茶と揚げ菓子で俺をもてなしながら、先日の俺が如何に素晴らしい行動を取ったかを延々と聞かせてきた。……そして「今後もジゼルを守ってやってくれ」と。
―――なるほどな。
これは勘違いする。
だってさ。男って生き物は単純で何時だってヒーローになりたいと思ってるんだから。
かわいいヒロインが助けを求めていたら颯爽と助け、感激に打ち震えるヒロインに「なんてことないさ」なんて言い放つ。
そしたらこっちにその気はないのに、向こうは勝手にヒーローに惚れてしまうんだ。
そしてジゼルはか弱く、常に助けを求めてるかわいい美少女。こんな都合のいい子なんてそうそういない。
俺は揚げ菓子を頬張りながら頭を抱えた。
このままじゃためだ。ここに居たら俺はジゼルを好きになってしまうかもしれない。
別の方法を考えないと。
―――ウィリ達から逃げ切る方法を考えるんだ。
名前からの考察シリーズ・パート2です。
アルブレヒト……とは、ドイツ人男性によくある名で“高貴な光”を意味する名前だそうです。
また、偽名で使われているロイスもドイツ人男性によくある名で“有名”を意味する名前とのこと。
ドイツが舞台の作品なので、ドイツ人っぽさを出したかったのではないでしょうか。
というか、名付けられている役名で、ザ・ドイツ人名!というのが、このアルブレヒト(ロイス)とバチルドだけなんですよね。
名付けの段階で、誰がどこに収まるかということを匂わせられている気がします。
因みにベルタはイタリア語で“美人”だそうで。
お読みくださりありがとうございます。