夢現
―――胡蝶の夢。
壮子はある日、自分が蝶になった夢を見た。
蝶は人であった記憶もなく、ただ蝶として木々の隙間を飛び回る。
だがふと目覚めた瞬間、壮子は自分が人間以外の何物でもない事を思い出した。
だが夢はあまりにリアルな夢だった為、一瞬どちらが現実なのか分からなくなりそうになったという逸話が、“胡蝶の夢”という慣用句の始まり。
―――だから俺はその時、紛れもなく夢を見ていたのだ。
人並みの人生。それなりの将来の夢を持ち、人に自慢できる程ではなくとも、自分が確かに納得出来る生き方をしていた。
そうして懸命に生きてきた筈の人生が、まさか全く知らぬ者の夢だなんて、その時一体誰が気付くことができるというのか。
◇
10月も半ばをある日のこと。
その日俺は、多くの人が慌ただしく行き交う大ホール舞台の一角で大道具の配置調整を行っていた。
来週からこのホールでは、海外の有名な劇団による待望のバレエ公演が開幕されることになっている。
演目は“ジゼル”だ。
「ダメダメ。そこの“茂み”! それじゃあダンサーに被るだろ。もう少し左だ」
「はいっ!」
今年23歳を迎えた俺には“舞台演出家になりたい”という学生時代からの夢があった。
とはいえ、親のすすめもあり大学は全く関係のない理系を出ている。
だが大学を出て親元を離れてからは、フリーターのようなことをしながら、その手の勉強を一人コツコツとしていた。
そしてその間に拡げまくった人脈を最大限に使い、最近ではこういった舞台現場の仕事を、勉強の為にと知人から振って貰えるようになってきた。
振ってもらえる内容は様々だったが今回の舞台はなんと、世界を股に掛ける世界最高峰バレエ劇団によるビッグ公演。
本来なら部外者など立ち入り禁止案件の仕事なのだが、ツテを頼りに大道具係の下っ端として舞台裏に入れて貰えたのである。
この世界は実力主義とも言われているが、横の繋がりというものが大きな力を発揮する縦社会としての実態も、今尚根強く残っているのだった。
そして俺は今、この仕事にかつて無いほど力を入れていた。
超人的な肉体を持つ芸術家に、音と光の魔術師が魔法をかけた、世界を圧倒する夢の大舞台。
それが創り上げられてゆく現場を間近で見れるとなれば、もう興奮せずにはいられない。
俺はこの仕事を紹介されてから、寝る時間を惜しんで“ジゼル”の世界を研究した。
それにもしかしたら……いや、普通はありえないんだが多国籍メンバーで構成する劇団の団員様方に、万が一にも声を掛けてことがあるかも……? なんて淡い期待をして、外国語の勉強も始めた。
声を掛けられなかったとしても、彼ら程の大スターの日常の会話が聞き取れるだけでも、勉強を始める理由としては十分だろうと思ったからだ。
そんな訳で俺は仕事の傍ら、物語の時代背景や歴史、ストーリーの考察に加え、フランス語、ロシア語、それにドイツ語の日常会話レベルを必死に頭に詰め込んでいった。
劇団は今日の夕方この国に到着するという。
そして明日はこのホールで、初めてのリハーサルが予定されている。
彼らの海外舞台動画は何度も繰り返し見たけど、それが明日間近で見れると思うと、思わず顔が弛んでしまった。
「おい!」
そんなことを考えながら、いつの間にか自分の世界に入ってしまっていたんだろう。
道具チーフの怒声じみた呼び掛けで、俺はふと我に返った。
「はい、すみません。何でしょう?」
「お前、顔色悪いぞ。大丈夫か?」
「そうですか? 平気ですけど」
俺は首を傾げてそう答えたが、チーフはキッパリと言った。
「お前もう帰れ。明日はもうメンバー入り本番だからな。ゆっくり休んで、その死にそうな顔を明日迄に何とかしてこい」
人の紹介で現場に来させて貰ってる俺が、チーフの判断に文句を言うことなんて出来ない。
俺は各部署に挨拶をし、一人とぼとぼと大ホールを後にした。
俺の住むアパートは、大ホール直ぐの最寄り駅から電車で40分。
俺は駅までの道で自分の顔をペシペシと叩きながらひとりごちた。
「……ちょっと気合い入れて根を詰めすぎたかなぁ」
思い返せばこの仕事を紹介されてからの一月。一日の平均睡眠時間は3時間を切っていたかもしれない。
食事も時短を最重要事項とし、2日に一食は松乃家の牛焼肉定食。後はエナジードリンクや眠気覚ましドリンクばかり飲んでいたような気もする。
軽い胃痛を覚えながら5分ほど歩いた頃、俺はポツリと呟いた。
「あっちぃ。……ホールはエアコンが効いてたんだけどなぁ」
早退したということもあり、まだ時間は正午過ぎ。
10月を迎え涼しくなてきったとはいえ、日陰もないアスファルトの歩道を歩くと汗が噴き出してきた。
その暑さのせいか、胃痛に加え頭痛もしてくる。それを我慢していると目眩までしてきた。
やがてどうにか駅に辿り着く頃には、俺は今にも目の前が暗転しそうな不快感に苛まれていた。
駅舎の日陰に入った俺は、堪らずそのままフラフラとトイレの個室にこもって蹲る。
とにかく休憩したい。呼吸が荒くなる。冷や汗が止まらない。頭が……割れそうに痛い。
「ぅ……ぐぅ……き、もちわりぃ……」
汗が出すぎて今は身体が凍えるように寒い。手足が痺れて痙攣するように震えている。
あまりの体調不良にぼやける視界を凝らしてみれば、手元の直ぐ側にトイレの個室に備え付けられた呼び出しボタンがあることに気付いた。
俺はハッとして、縋る思いでそれに手を伸ばす。
だがボタンに触れる直前、ふと恐ろしい考えが脳裏をよぎった。
―――あれ? これでもし大事にでもなったら、俺明日仕事行けなくね?
俺は伸ばした手を下ろし、歯を食いしばった。
……助けはいらない。きっとすぐ良くなる。少し休めば大丈夫なはずだ。
明日は絶対にいく。なんとしても会いに行く。その為に、俺はここまで来たんだ。
「―――ジ、ゼル………」
俺は朦朧とする意識の最後の力を振り絞ってそう呟くと、そのまま意識を手放した。
―――そんな“夢”を見たんだ。
そして俺は人一人の半生という、長い長い一瞬の夢から目を覚ました。
現実の俺といえば、今年6歳の誕生日を迎えたばかりの子供である。
早く大人になりたいとはたまに思うこともあるけど、知らない街で聞いたこともない仕事をしてるなんて……。
「不思議な……夢だったなぁ……」
いつもと変わらない硬いベッドの中で俺が呆けていると、寝室の外から俺を呼ぶ元気なオトンの声が聞こえてきた。
「おーい、ヒラリオン! 起きてるか? そろそろ起きろよぉー、おいてっちまうぞー!」
「お、おきてるよぉ!」
その声に俺は一気に現実に引き戻される。
オトンに返事を返しながら、慌てて布団を跳ね除けベッドから降りた。
それから俺は大急ぎで準備されていた上着を羽織ってズボンを履く。
そしてブーツに踵を詰め込んだ頃にはもう、夢のことなんてすっかり忘れてしまっていたのだった。
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