第三次世界大戦に備えるための民族主義
国が諸外国とする外交において、最も重要な要件とは、何でしょうか?
それは、言いがかりをつけるだとか、侮辱して恥をかかせるだとか、弱みにつけこんで脅すだとか、騙して損をさせるだとか、自信を失わせて言いなりにさせることです。
日本人がそれを理解しないなら、日本は滅びます。第二次世界大戦の敗戦国である日本は、第三次世界大戦の敗戦国にもなります。
日本人が、世界に実在する悪意を過小評価して、主観的な安寧を優先するなら、今日の安寧を得る代わりに明日の生存権を失います。ですから、いい子ぶるお人好しは卒業して、早く大人になるべきだと思います。
世界は、今後ますます、慢性的な戦争状態へと没落していきます。
共有されるルールに基づいた世界秩序は、過去の幻想として失われていき、軍事的な実力が発言権の程度でもあることが、よりあからさまになります。
そこにおいて前景に現れるのは、むき出しの自国第一主義、さらには民族主義です。
逆に言えば、従来の国際関係は、民族主義に基づいたものではありませんでした。
自由と民主主義を普遍的な価値観として共有する思想によって、国際関係は行われてきました。
自由と民主主義とはすなわち、平等な人権を標榜するものです。
しかし、平等な人権を理想として掲げてみたところで、現実には格差があります。
強い国は、弱い国の幸せを平等に考えて行動しようとはしません。なぜなら、強い国の政策を左右する庶民にとって、自分達の痛みは目の前にある一方、弱い国の人々の痛みは遠く聞こえづらいからです。
結局、平等な人権なるものが実現した歴史はないのです。普遍的な価値としてそれを言う勢力は実際には、一級市民の外側に広がる二級市民を搾取して見て見ぬふりをしてきました。例えば、家畜の苦しみや途上国の苦しみは、恣意的に平等主義の外側に置かれてきました。
自分が尊重されたい程度には他人の人権も尊重しろと、人間に言い聞かせることは、無理があります。
なぜなら、他者の利益を犠牲に自分の利益を増加して罰を受けない事態は、日常的にありふれているからです。平等な人権を侵害するすべての行為に相応の罰をくだす神は、いません。
ですから、自由と民主主義や平等な人権は、ヨーロッパのキリスト教と深い関係を持って生じた思想にすぎず、実は普遍性が限られています。
その一方、民族主義は、動物的に極めて自然な本能であり、物事の見方です。
自由と民主主義の盟主である米国で実際に起こったことは、どうしようもないほどの格差の拡大です。
そこにおいて、社会的な地位の低い境遇に生まれたならば、尊厳もひどく奪われ、人生に絶望するしかありません。米国の社会は、過半数の人々のいかりが、1%の人々の実力によって押さえつけられている社会です。
弱者の弱者としての苦しみをあざ笑うことがまかり通る社会が、もたらされた現実です。
そこにおいて立ち現れているのは、資本主義そのものの本質的で不可分な非倫理性です。資本主義的な社会構造というものが、1%の人々のためのものでしかないという現実です。
それが明らかにしているのは、従来掲げられてきた自由と民主主義という価値観が、現実問題を倫理的に是正するためには無力だということです。有効ではなく信任に値しないということです。
人間という動物は生得的に利己的であって、平等な尊厳を建て前としていくら強く謳ったところで、実際には、強者は弱者にまさるぶんだけ弱者の尊厳を否定し、利益の分配を付け替えます。
言葉の上でのみ、主観の中でのみ、解決を図ったところで、苦しめられいかる人々を自己責任だと洗脳してほほえませることはできません。
リベラリズムは今や、弱者にとっては権力を侮辱して楽しめるが解決はもたらさない狂った宗教であり、強者や大国にとっては経済的利益を確保しつつ善人を自覚するための虚構の物語です。
資本主義は弱者に対して上から目線で施しを与えますが、尊厳は与えません。その文化では、経済的な弱者はみじめな存在だと定義されます。恋愛を体験したり家族を築いて子孫を残せない人々は、自己責任に分類されます。
現実の庶民は、尊厳を望んでいます。しかし、同じ人々が、他者には敬意を払いません。清掃員や警備員には敬意が払われません。お金を払う側が偉いのだという価値観が、広く受け入れられています。
そして実際、都市化した現代の社会において、他人の尊厳を尊重したり親切に接しても損をするだけで利益にはなりません。他者に敬意を払おうとする人々ほど社会のためには尊いのに、金銭的な権威の陰で、そんな優しさには少しの価値も認められません。
自由と民主主義のパラダイム、すなわち人権と平等の理念が現実に実現してきたのは、どこまでも物質主義的で自己中心的な拝金的資本主義社会です。虐げられる弱者が互いの尊厳を侮辱し合い、自分よりみじめな者を探し出して自尊心を慰める社会です。
自分が信じる価値観のためのルールを他者に力で強制することによって社会状態の倫理水準を維持しようとする発想が、キリスト教的な信念に基づいたものなのであって、無理があります。
なぜなら、人間は本能に従って利己的に動作する動物であって、言うことを聞かせられるのは、実力に格差があるときだけです。こういう価値観を持つべきだから、こういう価値観を持って、うまく洗脳されて私のために好都合な存在でいてくれ、と言うことは、無理があります。
すなわち、近代経済学が思い描く個人主義的な人間モデルと、それに基づく社会モデルには、無理があります。
消費する金銭の量が人生の幸福の程度だとか、得られる収入の量がその個人の尊厳だとか、最低限のお金をあげるから最低限の満足はしてくれだとか言うことには無理があります。環境の格差を自己責任に言い換えることで、尊厳の格差にも満足を求めることには、無理があります。
資本主義が経済的な弱者に小さな自尊心でいることを求めることは、力に基づく暴力でしかありません。それを普遍的な価値だと論理的に示すことはできません。
1%の人々のための宗教は、その人達にとっては気持ちいいし、お金で使われる限りにおいて労働者は価値観への共有を示しますが、実際には本人以外には迷惑でしかありません。したがって、1%の人々の主観と現実の国際社会は亀裂を生じます。
平等な人権を尊ぶべきことを謳っても、現実の社会は弱者を消費しつづけます。親や学校や会社や国や大国が教える言葉に従順にいい子でいつづけても、利用されて損をして報われません。
平等な人権など、言葉として存在するだけで、現実には存在しません。現実の人間社会は、利益の奪い合いであり、尊厳の奪い合いです。
赤の他人の痛みに対する共感など、人間という動物にはありえません。際限なく広がる思いやりや博愛など、現実に存在しえません。
人間が動物を見て、かわいいだとかかわいそうだとか思うのは、相手が血縁的に近傍にあるからです。
したがって、血縁的な距離に応じた遺伝子の生存本能として民族主義をスケーラブルに捉えるならば、民族主義には極めて強力かつ妥当な説明力が伴っています。
民族主義という概念によって、人間の欲求と行動と幸福はすべて矛盾なく自然に記述できます。
民族主義という概念に基づくなら、倫理や正義や社会的な価値について、最も矛盾なく議論することができます。
民族主義こそが、人類の行動原理の正体なのです。
ですから、様々な理念によって一時的な揺らぎがあっても、世界は何度でも民族主義に回帰します。生き残りたいだとか、増えたいだとか、自分の遺伝子を後世に残したいという原理に回帰します。それが、自然選択が遺伝子に埋め込んだ結論だからです。そして、その本能には、自然選択よりも遡った理由や意味なんて何もありません。
人類は、何かの価値に向かって進歩しているわけではないし、いつかは結局、絶滅します。
人間の男女が恋をしたり、親が子を愛して幸せを望むのは、生き残りたいという遺伝子の叫びです。
社会で暮らして遭遇する他人の苦楽に共感して親切に待遇するのは、近傍な血統を生存させたいという遺伝子の叫びです。
そこには、何の綺麗事もありません。遺伝子にとっての私利私欲しかありません。
逆に言えば、我が子を守るために自分の命を投げ出すとか、友人や社会のために命を投げ出すことは、民族主義の観点から見て、人間の不自然な行動ではありません。
一方で、近代的な個人主義が語ってきたことは、個人という存在は自分自身の物質的な利益を最大化するために振る舞うものであり、それを逸脱した倫理主義は不自然でいかがわしいというものです。全体主義から個人主義へと個人を解放していくことが、正義ある人間文化の進歩だということです。
しかし、現実の国際状況においては、国家主義や民族主義を喪失させられた勢力ほど外部からの悪意に脆弱になって、敗退し隷属させられていきます。民族主義を分解してきた自由と民主主義の普遍的な理念は、信任に値しません。ですから、世界中の弱者がその偽善を放棄していきます。国際的に共有されている価値観なるものは、消えてなくなり、力だけが意味を持っていきます。ルールや禁忌のないヤクザ的な国際状況になるため、遅滞なく適応する必要があります。
現代は、米中冷戦の時代です。
米中はともに多民族国家ですが、自由主義と格差によって分断されている米国に対し、言語を統一するなどして民族国家を捏造しつつある強権的な中国には強みがあります。
国外からの人口をあまりにも多く入れてしまった欧米諸国は、民族主義的なリーダーのもとに統合することができません。目の前の経済的な利益やそれを背景とした偽善のために移民を多く入れたそれらの国では、従来の主権者が膨大な損失を未来永劫支払いつづけます。
国家は国際社会における軍事力の単位であることから確かに、民族よりもはるかに、集団的な利益のための行動の単位です。
生活するための地理的な拠点や国籍の移転が事実上限られているなら、確かに、ある国のある人はその国の他の人々の利益に適った行動をします。しかし、利害の共有についてそのように前提条件が伴うことの意味は、大きいです。
なぜなら、もう一方の血縁という要素は、決して動かない客観的な事実だからです。ですから人は、自分の子供に障害があったりブサイクであったりしても、有能で美しい他人の子よりも贔屓して生き残らせます。
結局、国の庶民がその国の為政者や権力者達を、庶民の利益に適うように、法律によって拘束することはできません。莫大な利益と巨大な罰を用意して投票制度で常に脅迫したとしても、莫大な利益を得る一方で巨大な罰は回避しようというインセンティブが働くだけです。庶民の富は盗まれ、太ったハゲタカ達をより太らせます。
結局、社会の中枢の人々には内発的なモラルが求められますが、内発的なモラルなるものは、民族主義、すなわち血縁的な近さに基づいてしか起こりません。
したがって、民族主義が崩壊した国では、庶民は権力者のために搾取されます。民族主義の色濃い国であっても権力者は庶民を搾取しますが、結局は庶民は、立場に恵まれた人々の民族主義的な本能以外には頼るものを持ちません。民主主義という理念は、良心の代替にはなりません。
法律のもとに平等で開かれた国家よりも、ヤクザ的な近縁関係で精神的にも思想的にも癒着した国々のほうが、生き残ります。
そのような実情から今後の日本にとって最も大切なのは、尊王攘夷です。
つまり、外国人に日本の国土を踏ませないことと、外国の宗教を日本で教えさせないことです。
攘夷とはつまり、単一民族国家としての血液の純潔を可能な限り守ることです。
そのためには、国外から人口を流入させないことと、混血しないことが大切です。
そのためには、国外から流入する人口や混血した人々に後悔させる状況を作り出して崩さないことが大切です。
これは一見、冷淡に聞こえるかもしれません。しかし、国際的な流動性を抑えて、それぞれの文化圏における利害共有によってモラルを発達させ、異なる文化が互いを尊重するほうが、人類全体にとってはよほど幸せな結果になります。
尊王とはつまり、国家神道を保つことでキリスト教やイスラム教の流入を防ぐことです。
キリスト教やイスラム教は、悪い宗教です。なぜなら、宗教に基づく平等な建て前を謳って、民族主義という真実への認知を蝕むからです。キリスト教が言う博愛や平等が実際にもたらしたのは、資本主義による奴隷制度と、終わることのない戦争経済です。今日まで最も多く人間を殺してきたのは欧米のキリスト教勢力です。経典こそを真実だと信じたがる一神教は、原理的に異教徒を人間に数えません。
将来にもはや希望を持てないという人は多くいますから、無宗教主義は強者のおごりです。宗教は必要とされますから、国外の宗教の流入を防ぐためには日本神道が大切です。
そして、日本人という民族にとっての宗教である日本神道が、その民族的な血筋の継承性の象徴としての王つまり皇室と紐づくことも大切です。
日本民族が日本の王を信任するのは、日本の王もまた日本人だからです。日本の王が信任した日本の政治家を日本の市民もまた信任するのは、王が信任した政治家達も王の血筋に近くやはり日本人だからです。彼らが、先天的な民族主義的な本能のゆえに、庶民の利益を国外の悪意から守ると期待するからです。それが、民族主義という物語であり思想です。社会の中枢の血がどんなに汚されたとしても、可能な限りの純潔を求めつづける以外に、庶民にできることはありません。
王の権威は、世襲制です。なぜなら、王が、民族的な統合の象徴だからです。そして、王の権威は、民主主義的なリベラリズムに常に逆行しています。それはなぜなら、リベラリズムとは、資本主義に好都合な虚構の自尊心を庶民に与えるものだからです。専制は確かに、非道をもたらします。しかし、完全な平等主義は、民族主義を破壊して、個人をむしろ脆弱にします。
民族主義というものは、スケーラブルなものとして考えたとしても、本質的に、全体主義です。
しかし、あらゆる倫理というものは、本質的に全体主義です。
なぜなら、いかなる集団とその部分を考えたときにも、部分の利害と全体の利害は等価ではありえず摩擦するからです。
そして、全体主義は、抑圧的です。
抑圧的な全体主義からの解放を価値と見なすのが、リベラリズムです。
ですから、リベラリズムは、一定の役割をしばしば果たす一方で、単なる自己中心的で幼稚なわがままでしかないこともしばしばです。
権力と見なした対象を否定して侮辱することによって自分を正当化して肯定することは、精神的な気持ちよさを伴います。ですから一見、自由と民主主義や平等な人権は、普遍的な価値に見えます。すると現実の問題はどれも、平等な民主主義をより強化していくことによってこそ解決できるように見えますが、それは錯覚です。
王室や資本家や宗教を全面的に否定することは、共産主義の歴史に見られるように実に簡単ですが、幻に基づく社会の改革は庶民の幸福を地獄の底にまで叩き落とします。共産主義は資本主義とともにリベラリズムであって、人類の思想は共産主義と民族主義の間で揺れつづけます。共産主義は奴隷達の夢でありつづけて叶うことはなく、その愚かさこそが資本主義つまり拝金主義を強化しつづけます。
問われるべきは、個別具体的な抑圧が倫理的に妥当かどうかであり、全体主義的な抑圧が一律に悪なわけではありません。
単一民族国家を指向するためには、日本は有利です。
なぜなら現実に、最も単一民族国家だからです。
その成功の原因は単に、ヨーロッパから遠くなおかつ島国だからです。
尊王攘夷思想は幕末からあって、原爆によって完膚なきまでに叩き潰され、外国人と宗教と思想の膨大な流入を招きましたが、今後もなお、日本人の利益のためには尊王攘夷が唯一の正解である現実は変化しません。日本国憲法の第一条は、尊王攘夷であっていいのです。日本列島は日本民族のものだという、動物的でヤクザ的なテリトリーの議論以上でも以下でもないのです。
人間の愛情とは、血縁について広いか狭いかであって、ジャンプはありません。
世界や国を愛する人がいる一方で、自分の子供の痛みにすら共感しない人もいますが、生まれ持った遺伝子による性格であって、教育や境遇によっては変動しません。
自分自身を本当に愛していない人が、他者を本当に愛することはありません。
他者を誠実に愛しつづける人ほど、自分自身の尊厳を真に愛しているのです。
お金のために身体を売ってしまった人や、私欲のために身体を汚してしまった人は、たとえ自分自身の子供であれ他者を完全に愛することができません。自分の身体や心を完全に美しいものだとは絶対に思えないからです。
国の中枢に民族主義者を多く所有する国の国民ほど、幸せを得ます。
個人主義的な遺伝子以外を淘汰しつづけた国の国民の利益は、外国の強力な全体主義からの悪意によって搾取されつづけます。
ですから、その意味で良い遺伝子が暮らしやすいことが大切です。
それは、一種の優生思想です。しかし、資本主義的な競争社会もまた、すでに猛烈な優生思想です。
拝金主義は、優生思想です。この世界には、拝金主義と民族主義という二つの優生思想が存在して、優生思想から逃げる道はありません。誰もを肯定するという思想は、現実問題から自分の心だけを救う偽善であって、自らの安寧の保身でしかありません。
優生思想だとか、全体主義だとか、民族主義だとか、国家神道だとか、尊王攘夷だとか、絶対悪の代名詞とされるものをここまで肯定してきました。
一方で、自由主義だとか、民主主義だとか、平等主義だとか、人権だとか、絶対善の代名詞とされるものをここまで否定してきました。
なぜそれらが、絶対悪や絶対善として通念されているかというと、この世界の人々は、長い物には巻かれろという発想ばかりで、自分の頭で物事を考える人というのはいないのです。戦争に負けて以降、学校が教えているモラルは、実は権威主義にすぎず、嘘を教えているのです。
ですから、他人の尊厳を尊重する性格は現代ではただただ損で、人々の圧倒的大多数が今では多かれ少なかれ、自分の尊厳を認められることに飢えているのです。何ら物質を必要とせず、ほんの少しの人間愛によって救われる人々が、日本中でも世界中でも毎日飢えて苦しんでいます。地獄絵図と言うべきでしょう。
人間は、他人を笑顔にすることで幸せを感じうる動物です。
とくに、島国の歴史においてモラルの発達した日本人の遺伝子にとってはそうです。
そして、他者の幸せに幸せを感じる行為ほど、尊い行為はありません。
社会とは、助け合うほかないものであり、人は、他人の善意にすがるほかないからです。
人格的な徳こそが、人間の普遍的な価値であり、その不在こそが本当の貧しさです。
この世界には、経済的な格差があり、弱者が存在します。
しかし、強者によって淘汰されていくそれらの遺伝子は、本当に弱者なのでしょうか?
個体として自身が生存することが、遺伝子の利益のために本当に成功なのでしょうか?
実際には、利己主義への堕落が生命にとって成功であるわけはないのです。
世界の実相は民族主義であり、既存の富は、強者の犠牲的な下支えによって保たれています。
個人的な利己主義と、社会的な偽善的価値観は、同時に存在します。
それと対置して、個人的な倫理主義と、社会的な現実主義は、民族主義を介して同時に存在しています。
偽善で覆われた利己主義は、外国由来であって日本的ではありません。
深い良心に基づいた老獪で油断のない現実主義こそ、かねてから日本が得意としてきたお家芸です。
しかしそのためには、民族主義によって世界を捉えなおすことが欠かせません。
ありのままの人間とありのままの世界を見ることが欠かせません。
日本人の子孫を貶めるための謀略的宣伝を、例えば、ますます台頭する中国や韓国は対内的にも対外的にも連日繰り返しています。嘘をつかれても事実は変わらないだとか、尊厳を奪われても実利さえ奪われなければいいと、もし思って今後も涼しい顔をするなら、愚民の愚策の代償は子孫の血によってきっちり清算させられる結果になります。世界に存在するのは残忍で自分勝手な悪意であり、幸せな小国という選択肢は、現実の地上にはありません。
日本が行う政治や外交にとって最も重要な要件は、日本人一人一人が味わう痛みに対する共感です。国際関係という殺し合いの土俵において、日本は獰猛な民族主義を腹中に保つべきだと思います。
日本が日本人の利益のための国でありつづけることが、世界にとって大切な救いになります。
民族主義という封じられた禁忌を掘り起こすのでなければ、日本は滅び、世界の庶民はグローバリズムへの対抗手段を失います。
道は初めから、一つしかないのです。
目先の正義と現実の正義は、かくも異なる。