第12章-③ キティホークの死闘(第一幕)
つい先日まで「作戦本部の犬」とまで揶揄された男が、今は前線で大権を掌握している。
この場合の犬とは無論、悪意のある表現で、取り立てて武勲や功績に恵まれないながら、軍部内の縁故を利用し、上官やヘルムス総統に媚びへつらい、老練の宿将たちを差し置いて栄達している様を、憎悪と侮蔑を込めてそのように言語化するのである。
前の国防軍作戦本部次長、今は第二軍集団司令官のレーウ大将に向けられた、無残なほどのあだ名がそれである。
だが、レーウはもともとは前線諸将たちが憎むほどの奸人ではなかった。彼は確かに前線で槍先の功名を争うよりも後方で補給や戦略の企画立案などをこなしている時間が多く、軍上層部に強力な縁故を持っているのも事実であったが、それは臆病者だからでも、出世欲にまみれた俗物だからでもない。彼自身が軍官僚としての才能に恵まれ、かつたまたま、叔父が前国防軍最高司令官であった、というだけである。また上官やヘルムス総統に対して阿諛追従しているように見えるのも、彼が生真面目で上司に対し従属的であるという性格上の特質によるものであって、当人は出世のために人に媚びているなどという感覚はない。諸将からそう見えるのは、彼が同僚や部下に対して付き合いやリップサービスといったことをしないためであったろう。上司だけでなく、同格の者や部下にもその敬愛や信頼を得るべく気遣いのできる人間であったなら、こうも彼らの反感を買うことはなかったに違いない。任務に対して忠実であろうとした結果、彼への羨望や嫉妬が、深刻な反発を招くようになったということであろう。
しかも彼の前任者は、歴戦の将軍で帝国軍最高の名将であると誰もが認めるメッサーシュミット大将であった。その後任として、前線のいろはをようやく知るかどうかという程度の男が、実戦指揮官らと同格の中将から大将に昇進し、上官として赴任してくるとなれば、諸将が快くその人事を受け入れるはずもない。
クイーンは彼を無能であると断じたが、その判断のもととなった情報には、前線の将兵のレーウに対する悪意が多分に含まれている。彼を嫌う者たちから集めた情報であるから、自然、その対象となる人物について浮き上がる指揮官像も、過度に歪曲され貶められた評価になる。
レーウが切れ者であれば、自分に対するそうした評価を逆手にとって、クイーンを術中に陥れることも可能であったろうが、彼はそこまで戦場の虚実に精通してはいなかった。
この時期、この状況でこの役割を与えられたというのが、彼の不幸と言うべきであろう。
もっとも、彼はどこまでも任務を成功させることについては誠実で、戦いにあたっては勝利のため様々に手を尽くした。
帝国軍右翼部隊に対してラドワーン軍が突進を開始したのを見て、彼は左翼の第四軍に前進を命じるべく、紫色の狼煙を上げさせた。紫色の狼煙はすなわち、左翼前進せよの合図である。
幕僚から右手に狼煙が上がったむね報告を受けたリヒテンシュタイン中将は、虎のようにくわっと目を開いて怒鳴った。
「生意気な小僧め、言われんでも前進するわ!」
リヒテンシュタインはレーウとは最も対照的と言っていい人物で、前線勤務一筋、いかにも戦場の猛者といった男で、勇敢であり、粗野であり、そして直情径行であった。特に今は戦いを前にして気が立っている。レーウに対する嫌悪を隠そうともしなかった。
第四軍は早足で前進を開始した。その行軍には多少の乱れがあったが、指揮官の敢闘精神に感化されたか、兵気はさかんで、ひとたび戦闘に突入すれば、たちまち全員が槍先を揃えて喚きかかろうという態勢である。
それに対して、教国軍第二師団は、静をもって動を、柔をもって剛を制する構えで、兵馬にいたるまで徹底した防御姿勢である。弓兵は馬防柵にとりつき、歩兵はその隙間を埋め、騎兵は戦機に備えて後方に待機している。第四軍に対して数で劣る以上、戦線を縮小して、少しでも時間を稼ごうということであろう。
両軍は、正面から激突した。帝国第四軍はまるで石壁のような重厚さで迫り、その厚みと勢いとで一挙に教国軍を押し流そうとした。ごく正統的な攻勢だが、そこに圧倒的なほどの迫力と殺気を持たせうる点、武断的な猛将として勇名の高いリヒテンシュタイン中将ならではの攻めと言えるであろう。
教国第二師団は一度はこの攻撃をはじき返し、二度目の攻勢にも耐えたが、三度目の弩弓隊と長槍隊の連携による波状攻撃を支えきれず、やむなく陣を捨てて後退を開始した。
第四軍は躊躇なく追撃に移った。
「敵は我が軍の攻勢に怯んでいる。前面の敵を左翼から半包囲して、敵の中央部隊に押し込んで突き崩せ!押せ!押せ!」
リヒテンシュタイン中将の激励は万を超える将士の喚声や悲鳴、剣戟音や大地を踏み鳴らす足音も圧して戦場に響き渡った。まさに陣頭の猛将と呼ぶにふさわしい姿である。
彼の率いる帝国第四軍は士気大いに騰がり、死を恐れず猛烈に進んで、教国第二師団が築いていた陣地を奪い取り、そこからさらに休まず侵襲して、後退する第二師団を追尾しつつ、猛獣のように荒れ狂った。
激闘が続き、死屍は累々として積み重なった。それでも、リヒテンシュタインはまったく攻勢を緩めようとはしない。あくまでも真っ向から教国軍を噛み破ろうという勢いだ。どれだけ犠牲が出ようと、部下の将兵を残らず失っても、前進をやめることはない。それほど、彼の敢闘精神は苛烈を極めた。
ナジュラーン宮殿で帝国領への再出撃を議するなかで、旧帝国軍人のレイナート将軍が警告したことがある。
「帝国軍の中枢幹部、特に国防軍の最高司令部や作戦本部は、ヘルムス総統の走狗に過ぎず、無能で軽薄。なれど前線に配置された実戦指揮官、特にメッサーシュミット将軍麾下の将軍はみなその上官の薫陶篤く、いずれも有能です。正面からぶつかるのは下策でしょう」
リヒテンシュタインはレイナートの評する有能な将帥の典型像であると言えるだろう。ただ彼の弱点は、確かに猛将には違いないが、その勇猛や勢いに頼りすぎるところであった。
クイーンは自ら第二師団を率い、あえて自分の姿を見せつけ、いわば囮となって帝国第四軍の攻勢を引き受けつつ、頃合いを見て伝令を走らせた。そして自らは近衛兵団とともに即座に後退を開始した。
帝国第四軍は、教国軍の王旗、すなわちクイーンのいる本営を一途に目指している。果然、追い討ちをかけた。
それは上空を飛翔する鳥から見れば、教国軍の壁を貫こうと揉み進む錐に見えたであろう。
だが、クイーンの本営が下がる一方、第四軍の鋭鋒に分断されたかに見えた第二師団の一部はすれ違うように逆進して、第四軍の側背へと回り込んだ。第四軍に中央を圧迫され、生じた亀裂は今や、U字型に引き伸ばされて、包囲網を形成している。
密集隊形で第二師団の懐へと入り込んだ第四軍であったが、今や四方のうちの三方を囲まれて重圧にさらされており、言うなれば籠の中の鳥も同然であった。
しかし歴戦の将であるリヒテンシュタインは慌てない。左右と前面に大きく広がり、敵に包囲される恐怖が第四軍全体に波及しようとするとき、彼は再び大音声で吼えた。
「包囲を恐れるな!敵より我が軍の方が数が多いのだ!恐れず突破しろ!進め、進め、進め!」
彼の猛虎のような覇気に励まされ、第四軍は「進め、進め!」の大合唱とともに、包囲の圧力をものともせず、槍や剣や弓や盾を手に死に物狂いで走り、ひたすら前を向いて、第二師団を完全突破しようとした。
そして、突破した。
だがそれは、教国軍が彼らに突破されたのではなく、突破させたのであった。
指揮官たるリヒテンシュタインがそうと気付いたのは、第二師団を突き抜けたその先に、幾重もの堅牢な柵が組み上げられていたからである。これは明らかに第四軍の勢いを緩和させる目的で設置されたもので、教国軍ははじめから第四軍の行動線を想定し、懸命に支えてはいるが勢いに押されている、という巧妙な演出でもって第四軍をこの位置まで誘導したことになる。実際、前方の柵に行く手を阻まれ、敵の姿を見失った彼らはそれまで馬車馬のように回転させ続けていた足を止めた。
足を止め、背後を振り返ったときには、第四軍の後陣は突破したはずの第二師団の追撃を受けてまさに崩れようとしていた。そしてこの迫撃の陣頭指揮をとっていたのが、第二師団長カッサーノ将軍であった。
彼は第四軍の集団突撃によって師団に多大な犠牲を払いながらも、温存させておいた1,200人の槍騎兵部隊を自ら率いて、暴風のように駆け抜ける第四軍の後背に食らいつき、猛攻を加えた。普段は箸にも棒にもかからぬ下手な詩を詠むだけの風変わりな男だが、攻勢に出たときのこの男の慓悍さと破壊力は、教国軍屈指である。
カッサーノは長槍を手に、少数だが精鋭の騎兵とともに、第二師団を突破した第四軍をさらに背後から突破すべく、切り裂くようにして突き進んだ。10倍近い数の敵軍に分け入り、その陣形をかき乱すように荒らし回るカッサーノは、鬼神のようであったという。
やがて敵の群れの奥へ奥へと突き進むカッサーノと、軍の中央に寄って味方の混乱を収拾しようとするリヒテンシュタインとが邂逅した。
奇しくも、と言うべきか、彼らは乱軍のなかで互いの姿を同時に発見し、引き寄せ合うようにして接近した。リヒテンシュタインがその獰猛な口を広げて誰何する。
「貴様、名のある将か。俺は第四軍のリヒテンシュタインだ。名を名乗れ!」
「私は第二師団のカッサーノ師団長である。帝国国防軍の将軍はみな総統の犬と聞いているが、貴様もそうか」
「虚勢を張って減らず口を弄するな。貴様とて、化粧臭い宮殿で、女王の下着をのぞくだけが楽しみのえせ将軍であろう」
限度を超えた侮辱に怒りが爆発したか、カッサーノは槍を向け猛然と敵将に突っ込んだ。体重を乗せて繰り出された渾身の一撃を、リヒテンシュタインは得物のハルバードを軽々と操りあしらう。
雑兵どもを恐れさせ寄せつけない、雄将と雄将の真っ向からの激突であった。両者は堂々と渡り合い、互角の一騎打ちを繰り広げる。
突く。
引く。
振り下ろす。
受け止める。
薙ぎ払う。
躱す。
あらゆる武芸と死力の限りを尽くして彼らは戦う。人馬とも汗みどろになり、疲労が濃くなっていよいよ闘志はさかんである。
勝負がついたのは、この打ち合いが50合を超えた頃であった。
壮年でまだまだ突きに勢いのあるカッサーノに対し、全盛期を過ぎたリヒテンシュタインの腕は徐々に動きが鈍り、押され始めている。
そしてついに、カッサーノの槍先が敵将の左大腿部をかすめた。
傷はなお浅かったが、リヒテンシュタインは咄嗟に落馬して、尻餅をついた。
カッサーノは肉薄し、馬上から串刺しにしようと槍を構える。
その刹那、彼は視界を奪われ、さらに次の瞬間、重い衝撃を頭部に感じた。
リヒテンシュタインが、傷を負って落馬したと見せて、粒の細かいキティホークの土を敵将の目に投げつけたのである。そしてすかさずカッサーノの頭を狙ってハルバードを払った。
この時代の武具は、例えば頭部全体を覆う兜は矢を通さず、剣の斬撃にも耐えられる頑丈なものである。しかし、衝撃をすべて緩和できるわけではない。
カッサーノは頭部に打撃を食らい、兜の内側で脳震盪を起こして、ふらふらと馬から転がり落ちた。その喉元に、とどめに使うスティレットがあてがわれ、一息に彼の息の根を止めた。
「第二師団長カッサーノなる者、ヴィルヘルム・リヒテンシュタインが討ち取った!」
その叫びは戦場に轟き、一度は帝国第四軍の士気を上げた。だが将軍同士の古典的な一騎打ちに興じている間、クイーンの直接指揮下にある第二師団は、周密な計算のもとに築かれた包囲網の内部で、四方から機動的に突撃隊を繰り出し繰り出しして、第四軍の陣を各所で寸断し、各個撃破して、当初は数的に優勢であった第四軍を完全にその制圧下に置いていた。
リヒテンシュタインは敵将の首を手にしたが、その代償として戦況を主導するための時間を失い、やや呆然として周囲を眺め渡した。驚くべきことに、彼の周囲には味方よりも敵の兵が多かった。
彼は馬上に戻り、感覚の鈍くなった手でハルバードを握り、片っ端から教国兵を殺して回ったが、状況は加速度的に悪くなっていく。
彼が軍勢をまとめて後退するとの決断を下したのは、日も落ちかけた時分で、既に戦闘開始から5時間が経過していた。
カッサーノ師団長という高位の将軍を失ったこともあり、クイーンも追撃を断念して、軍を引いた。
この日、帝国第四軍だけで1,300人の死者を出し、3,000人以上の負傷者を出す壊滅的被害を被った。一方の教国第二師団も、死傷率は戦闘開始時の2割に迫っている。
期せずして、帝国の第五軍及び第八軍、教国第三師団とラドワーン軍も、日没前に前面の敵との完全決着を諦め、それぞれ築造した陣地にて野営した。
キティホークの会戦1日目は、教国・ラドワーン連合軍が全体として優勢ながら、帝国軍を圧倒するまでにはいたらず、日没とともに殺戮を主題とする劇の一幕目を下ろした。




