第12章-① 王宮への引っ越し
アルジャントゥイユの街は美しい。
ミコトがこの街で暮らすようになってから、もう半年以上になる。最初は、貧しくも王国の名門閥族の出身であるという誇りだけを財産に、亡命者としてこの街を訪れた。
その頃は盛夏の7月で、市街にはまぶたの裏にまでしみわたるような鮮やかな緑が散りばめられていて、あちこちで蝉が騒がしく鳴いていた。
アルジャントゥイユは大陸各国の首都のなかで最も低緯度に位置し、夏は気温が上がるが、海からの湿った偏西風を西方のランペドゥーザ山地が受け止め、冷えて乾いた風が穏やかに吹き下ろすため、比較的過ごしやすい天候となっている。
開けた地理に、この恵まれた気候、豊饒で肥沃な土、尽きることない川の流れ、そして四季の移ろいに彩られたこの街を、ミコトは他国人ながら愛するようになっている。
彼女は妹のミスズ、侍女のアオバとともに、教国の外務官僚ボレロの邸宅にて養われている。彼女らの主家であるヤノ家は、オユトルゴイ王国で発生した一連の政変で朝廷に対する叛逆者とみなされて没落し、難を避け、主家の縁故を頼ってボレロの援助を求めたのであった。
以来、ボレロは彼女らを実の娘のごとく接し、何くれとなく世話を焼いてくれている。彼に限ったことではないが、教国人は性格がおおらかで、親切であり、陽気な者が多い。それは晴天の日が多く、太陽の恩恵が多いという土地柄が大きな影響を占めているだろうが、政治的な要因も大きいであろう。
特にクイーン・エスメラルダの即位後は、政道は常に公明正大、法は厳格で税制は明らか、貿易がさかんに行われ、治安が改善し、難民は保護され、教育が丹念に施されて、軍や官吏、民もそのことごとくが安心して自らの仕事に精励して、満ち足りている。このような治政のもとでは、人の心に余裕が生まれて、親切にも陽気にもなるであろう。弾圧の恐怖に怯えながら、誰もが生き馬の目を抜こうと血眼になっている祖国の人々に比べると、よほど気楽に付き合える気がする。
いつまでも無為徒食の身に甘んじるのも申し訳ない、というので、ミコトはボレロの口利きで衣服の仕立ての仕事を始めた。相手は国都の富裕層で、注文受けや納品、素材の入手のためほどほどに外出できるし、作業自体はボレロに新たに買い入れてもらった自宅の縫製作業場でできる。もともとつくろいの好きなミコトにとっては、好都合な仕事であった。
ミコトの手がける衣服だが、ロンバルディア教国では特に、宮廷社会のファッションの中心は女性である。王は女性であり、王族もみな女性である。自然、貴族や富豪含めた社交界でも女性が力を持つし、ファッションに金がかかるのも女性である。ミコトも主に富裕層の女性向けに、ドレスや帽子などを縫製した。
近年の流行はクイーンの好きな寒色系統の色である。また以前はある程度ふくよかな体型が名家の豊かさを象徴するものとされていたが、これも全体的に細身なクイーンの影響で、昨今は空前のダイエットブームである。ドレスは華奢なラインのものが喜ばれた。
3月16日、シルク独特の上品な光沢があるコバルトブルーのドレスを仕立て中のことである。
ボレロ邸に、訪問者があった。
この日、妹のミスズと侍女のアオバは連れ立って昼の散策に出ており、邸内にはミコトと年老いたメイドがひとりいるだけである。
対応したメイドが作業部屋までやってきて、
「ミコトお嬢様、お客様ですよ」
「私に?」
「高貴な出自のお嬢さんがいるだろうと」
「どんな方です」
「老婦人です。私よりも年がいっています」
得体が知れない、と思った。ただミコトの持っている顧客の関係者かもしれないので、邪険にもできない。
玄関まで出ると、確かに老婦人で、ミコトの目を見るなり親しげな笑みを浮かべている。が、面識はない。
「ミコトです。失礼ですが」
「こんにちは。術者の血を引くお嬢さん」
ぎくりとすると、老婆はいよいよそのしわだらけの笑みを深くした。その微笑には敵意や害意はなく、我が娘をいとおしむかのような母性があるが、術者という言葉を耳にしたミコトには、ほとんど化け物じみて見えた。
絶対に秘せられるべき我が出自を、面識のない老婆に知られているなどとなれば、平静ではいられないであろう。
ミコトは使用人に聞かれぬよう、慌てて老婆を庭先へ連れ出し、小声で尋ねた。
「何故そのことを。誰から聞いたのです」
「アタシ自身、術者だからさ。お告げがあってね。アンタに会いに行くように、ってお告げがさ」
「まさか」
「て言うわりには、身に覚えがないわけでもなさそうな様子だね」
思わず言葉を失うと、老婆は今度は声を立てて笑った。どうもなぶられている気がしないでもない。
ミコトは降参したい思いで、ともかくも用件を聞いた。
「アタシもお告げに従っているだけでね。ただアンタに会って、真相を話せと。光の術者、闇の術者のことをね」
「光の術者、闇の術者……?」
ミコトは少々混乱していて、老婆の言うことの意味がまるで分からない。光の術者、闇の術者とは、この老婆は藪から棒に何を言い出すのであろう。
小一時間ほど、老婆の説明を受けたミコトには、世界の放つ光彩や陰影といったものがまったく違って見えた。まず、このレティと名乗る老婆の話では、いつぞやクイーンのそばに控えていたサミュエルなる盲人が光の術者であること、そして王国の皇妃スミンが闇の術者であり、両者はいずれ対決せねばならない宿命のもとにある、という。
そして何より重要なのは、ミコトが何らかのかたちで、その闘争に重要な役割を果たすことになるという。
「私が術者同士の戦いに重要な役割を。どのような?」
「それはアタシにも分からないよ」
「しかし、確かに術者の家系ではありますが、私自身は術者ではありません。先達の術者に導きでも受けない限り……」
言いかけて、あっ、と思わず声を上げた。
「では、私があなたから導きを受け、光の術者に加勢すると?」
「さぁ、アタシにも分からないんだよ。ただ、導きをするようお告げが出ているわけじゃない。よぉく知ってると思うが、誰彼構わず導きを施すのは滅びの鐘を鳴らすことになるからね。まぁこの先どうなるにしても、よくよく覚悟しておくことだね」
「それは」
なんとむごいことを、と思った。お告げを聞き伝えることは氷の術者の専売特許であるらしいが、ずいぶんといい加減なお告げもあったものである。
王国のスミンは、彼女にとってはもとより一門を殺された仇敵のような存在だからこの討伐に協力できるならそれもよしとするだけの戦闘的な敵愾心を彼女は持っている。が、それがいつどのようにして叶うのかは分からないという。
最後、レティはこのように言ってミコトを宮殿へと連れ出した。
「さぁ、一緒に王宮へ行くよ。お告げでアンタに会えと言われた以上、アンタにはアタシのそばにいてもらう。女王が帰ってくるまでは、アタシの小間使いでもやるんだね」
レティは居丈高ではないが、お告げという絶対的で超越的な意思を背景にしているからか強引に事を進めるところがあり、ミコトは彼女の口利きで宮殿に住まうようになった。近衛兵団ではレティをクイーンの特別な客人として遇しており、やや戸惑っているようではあったが、最終的にミコトの滞在を認めてくれた。
クイーンや教国の幹部、近衛兵団の幹部といった人々は、術者の存在を知っているのだろうか。
わけも分からぬままに、ミコトの王宮での生活は始まった。




