第11章-⑤ ある噂話
ラドワーン王の治めるナジュラーン宮殿には、未だに1,000人を優に超える教国軍負傷兵が滞在している。これらの兵は、負傷者を最も多く抱える第一師団からルフェーブル千人長という者が代表で統括している。
サミュエルが初めてこの宮殿にやってきた時は、まだ治療を要する兵士が数え切れぬほど多かったが、この頃はほとんどが治癒したか、具合も落ち着いている。腕や脚を失い不具となった者も含めて、ではあるが。
医師としての多忙からも解放される時間が増え、彼は宮殿の警備責任者スレイマーンの許可を得て、積極的に市街へ出るようになった。
ナジュラーン市内は戦時下とは思えぬ活況で、防壁に囲まれた市街地は異常なほどの人の密集度である。時々、サミュエルの知らない単語が飛び交って、それはどうやら、この地域独特の食材や料理、衣服や調度品の名前であるらしい。ふらふらと漂っているだけで、エキゾチックな雰囲気が盲人のサミュエルにも充分に味わえる。
その日、彼は昼の空腹を抱えつつ、杖で慎重に雑踏のなかを進んでいると、にわかに荷馬車の馬が暴れ、その混乱のなかで彼は転倒し、杖を折った。自らの目とも言える杖を失い、途方に暮れたが、彼に声をかける親切な者たちがあって、彼は近くの店で新たな杖を買い求めることができた。
この者らは王国から流れてきた若い商人の夫婦で、世話好きでしかも金に余裕があるらしく、彼を伴って近くの料理店へと入った。サミュエルはナジュラーン地方独特の香辛料を使った料理がどうにも好きになれなかったが、わざわざ代金は夫婦が持ってくれるということもあって、表面上は喜んだ。
だが彼は料理の味よりも、彼らの口にした風聞の方により大きな注意を払わざるをえなかった。
曰く、
「王国の皇妃スミンは、古の術者である」
というのである。
これはまったくの偶然というほかないが、噂を口にする者たちに何らかの根拠や証拠があったわけではなく、単なる憶測に過ぎない。王国の皇妃スミンは、ただの一瞬で男を精神的奴隷にしてしまう恐るべき色香の持ち主である。もたらした厄災は王国の歴史上において類がなく、洪水、旱魃、蝗害などの様々な天災が起こるとともに全土で飢饉が発生したが、それらに対して一切の救済をせず、重税を搾り取り、一方で宮殿は天上の世界のように贅美を尽くしている。かつて行政機関として機能した十常侍は一掃され、軍が力を増し、官僚も将軍もみなスミンの走狗となって外征と弾圧に狂奔している。
まさに傾国の美女という言葉通りの邪悪な魔女であり、これはその昔、世界を破滅させるほどの力を持ったという術者の仕業にも通ずる。
確かにそのように想像力を膨らましていく先には、スミンが術者であるという結論には一定の蓋然性があるようにも思える。人々は、とかく理解の及ばぬ奇跡や災いに巡り会ったとき、それを神秘主義と紐付けては、神や預言者、あるいは天使や悪魔の存在として説明したがる。術者も、そうした人々にとっては神秘の源泉なのである。
もっとも、この噂はある種の深刻さを伴った風説ではなく、所詮、面白半分のゴシップの類として多くの者からは扱われている。当然といえば当然で、術者というのはこの時代、おとぎ話の要素でしかない。要するに座談に妙味を加えたり、物語を脚色するために使われる素材であって、わずかの現実味もない。
が、極めて少数の人々に限っては、この噂に現実性を感じうる。特に術者自身にとっては聞き捨てにできない話であった。この戦乱における諸悪の根源とさえ言えるスミンが術者と聞けば、さもありなんという思いがある。術者の力をよく知る彼ならば、国をひとつ手に入れるなど、相応の知恵と野心があれば可能であろうというのも分かる。分かるだけに、理性よりは感覚、というより本能のような部分で、この噂を単なる噂であると片付けるわけにはゆかないのであった。
(王国に行ってみよう)
唐突に、だが確信をもって、彼は決意した。
彼は真実を知るため、王国に行き、スミンの正体を明らかにせねばならなかった。もし、万が一にでも、スミンが闇の術者であったとしたら、彼は光の術者として彼女と対決せねばならない。
いたたまれぬような気持ちで、彼は礼もそこそこに夫婦に別れを告げ、宮殿へと急いだ。ナジュラーン宮殿を守るスレイマーンは、少々取り乱した様子で王国へ行くと言い張るサミュエルに対し、丁重に、だがはっきりと拒絶した。彼はクイーンから直々、サミュエルをよろしく頼むと依頼されている。彼の個人的な希望で、敵地である王国に単独で行かせるわけにはいかない。
サミュエルはその場は渋々引き下がったが、その日の深夜、夜陰に紛れてナジュラーンを脱出し、馬を盗んで、単身、王国領へと向かった。
彼の行方を求めるダフネとレティがナジュラーンに着いたのは、その7日後である。彼女らにサミュエルの居所を聞かれたスレイマーンは困じ果てて言うに、
「サミュエル殿は先日から姿が見えない。我々も日課のように探し回ってはいるのだが」
「もしや、どこかで迷われているのでしょうか」
「いやさ、姿が見えなくなる直前、突然、王国領へ行きたいと申されてな。無論お止めしたのだが、警備の目を盗み単独で出られたのかもしれん」
「遅かったようだね」
レティが呟いた。その声には、由々しい事態への危機感が微妙に込められているが、無論、ダフネにはその由々しさの理由など分からない。王国領に向かったらしいとは言っても、王国のどのあたりか見当もつかないし、そもそも王国領に向かったということさえ、スレイマーンの推測でしかない。何故、彼がそうも王国へ行きたがっていたのかは不明だが、当て所もない以上、その帰りを待つしかないと思った。
が、レティはぶつぶつと呟いている。
「早まった真似をしたもんだ。どうしたもんかね……」
ダフネはこの老婆の親しみやすい性格と不思議な愛嬌とを好ましく思っていたが、一方で何やら化け物じみた得体の知れない一面も感じている。
まして、次の日にはサミュエルに会いたい、との希望を翻してこのように言い出した。
「お告げが出た。アタシらは海路で教国領へ向かおう。ナジュラーンからの交易路でシェーヌ港に渡って、そこからアルジャントゥイユへ」
釈然としない思いを抱きつつ、スレイマーンに海上輸送の現況について尋ねた。
「教国と我が国の海上交易路は、今のところ帝国海軍の襲撃には遭っていない。念のため護衛の船も船団に同行している。少なくとも陸路よりは安全だろう。女王陛下とその側近くらいであれば、海路で教国領へお送りすることも可能だったが、陛下は指揮すべき兵と離れることはできないと頑なに断られてな」
それはダフネも知っている。もしラドワーン王の持つ海軍に、数万の兵を輸送するだけの海運力と海軍力があれば、教国領に帰還することなど造作もなかったであろう。
何はともあれ、要するに海から教国領に渡ることは可能のようだ。
ダフネはレティの言う通り、スレイマーンに頼み込み、貨客船に乗って教国領へと入った。同盟の南海岸から教国の東海岸にかけては、戦争中というのが嘘のように穏やかな様相である。
シェーヌ港からは馬車でアルジャントゥイユに入り、王宮たるレユニオンパレスに直行した。客人として遇するように、とのクイーンの思し召しがあるためその指示に従っているが、レティは遠慮を知らぬ老人で、面白そうに宮殿のあちこちを見て回っている。
レティの相手は下級の近衛兵に引き継いで、彼女は王宮の留守を守る近衛兵団のフェリシア百人長に復命した。フェリシアはこの年35歳で、近衛兵団の幹部では年嵩の部類である。クイーンの手元からは、前もって伝令が何段かに分けて派出されていたものの、本国では常に情報が不足している。
この時期、第四師団はすでに国都の防衛から離れて、帝国領ブリュールとカスティーリャ要塞方面でそれぞれ作戦行動中であり、代わって神殿騎士団長のランベール将軍が、2,000名ほどの神殿騎士を引き連れて入城している。近衛兵団の留守部隊と合わせ、ざっと4,000名ほどで、国都と王宮を守っていることになる。
フェレイラ議長やロマン神官長をはじめとする枢密院は動いていないため政治中枢としての機能は維持しているが、軍事的には中心地とは言えない。
教国領内に敵の侵入を一歩も許していないこともあって、国都の様子は平時とさほど変わるところがないというのが実情である。
そんななかで、客人のレティだけが、しずしずとお告げに従って動き回っている。




