第11章-④ 氷晶が告げる
ヴァネッサが近衛兵団長職に復帰したのは、それから12日後のことである。
時間がかかったのは、ヴァネッサの馬は非力で、彼女と老婆を乗せて歩くには一日に20km弱がやっとだったからである。
老婆は、名をヴァイオレットと名乗った。老婆には似つかわしくない愛らしい名前だが、この老婆も生まれたときから老婆だったわけではないだろうから、これはいささか酷というものかもしれない。それに老婆自身、
「ヴァイオレットじゃ長いだろう」
と言って、自分をレティと呼ぶように、と言った。だから、これからはこの老婆をレティと呼んで、その足取りを追うのがよいであろう。
旅の道中、レティはヴァネッサに問われるまま、自らの力や、クイーンやサミュエルに会う目的について語った。まず、自分は氷の力を持つ術者だと言った。
「あっさり信じたようだね。アンタも術者の実在を知っていた」
「何故分かるのです」
「アタシと女王を結ぶ鍵を持った者が、近々このあたりを通る。氷晶のお告げがあってね。だから、ちょいと迷惑だろうと思いはしたが、あの連中を使ったのさ」
「つまりクイーンとの伝手として私を利用するために、奴らに協力するふりをしたと?」
馬上、背中から押し殺したような笑いが伝い漏れてくる。その笑いが肯定を意味するのだとすれば、彼女もあの死んだウェクスラーも、この老婆の掌の上で、例の氷晶のように転がされていたことになる。
(まったく術者というのは)
得体が知れぬ、と好意や不気味さや腹立たしさの入り混じった複雑で不可解な感情を覚えた。
「それで、クイーンに拝謁したいというのは?」
「この戦乱の元凶について、氷晶のお告げを伝えるためさ」
「まず、氷晶のお告げとは?」
「アタシは氷の術者。この氷晶が、真実や行き先を、アタシに示すんだよ。光の術者が、教国の女王とともにいる。その若者に会い、世界に安定と均衡を取り戻せとね」
途方もない話だが、ヴァネッサはそれが嘘とも法螺とも疑わなかった。彼女はサミュエルが光の力の加護を持つ術者であることを知っていたし、ウェクスラーをかすかな吐息をもって一瞬で命のない肉塊に変えてしまった瞬間を目撃していたので、信ずるに足る、というよりは信ずるほかはなかった。
「事情は分かりました。ところで、戦乱の元凶とは誰のことですか」
「王国の事実上の支配者、皇妃のスミンのことだよ」
「噂には聞いています。傾国の美女として知られ、オユトルゴイ王国の皇帝を影から操り、民を虐げ、戦いを好んでいると」
「お告げによれば、そいつは闇の術者らしい。闇の術者は世界から消し去らねばならない邪悪な存在。だがその思念は並外れて、対抗できるのは光の術者しかいない。だからアタシはそのサミュエルっていう術者に会わないといけないんだよ」
これはまた伝えるべきことが増えた、とヴァネッサはそう思った。帝国軍に捕らえられ、馬賊の手に落ち、危難に遭ったが、逆にその都度、驚くべき情報を手に入れている。
(戦乱の発端である王国の事実上の支配者として闇の術者が君臨し、それをあのサミュエルが制すると?おとぎ話でもあるまいに)
だがレティの愛称を持つこの老婆の予言は、百発百中である。帝国領には、まだ教国軍の敗残兵を狩るための掃討部隊や賞金稼ぎなどが徘徊しているが、レティの指示通りに動けば必ず難を避けることができた。
その12日目、ヴァネッサは帝国軍と対峙する教国軍の陣営に無事たどり着いた。
まずレイナート将軍率いる第三師団の陣に至り、そこから案内人が出て、近衛兵団へと誘導された。
「ヴァネッサ!」
陣頭までクイーンは走って出迎え、互いに号泣し、抱擁して、喜び、祝福し合った。デュッセルドルフで近衛兵団が粉々に粉砕されて以来、およそ2ヶ月ぶりの再会ということになる。ヴァネッサの黒いチョハは、土と埃にすっかり汚れ、近衛兵団長であることを示す赤色の腕章もちぎれてなくなっている。幾度か死地を経験したが、ともかくも五体満足で戻ることができた。振り返ってみれば、奇跡のような思いがする。終盤では、レティの助けがあった。
ヴァネッサはレティを紹介しようとしたが、ここは陣頭なので何はともあれ、とのエミリアの提案で、この四人のみは本営の中央に設営した帳幕へと入った。
席上、ヴァネッサは自分の身の上に起きたことについて手短に述べ、そのうちのいくつかで、クイーンは驚きや心配の表情を見せた。ヴァネッサも近衛兵団の損害を聞き、愕然とするとともに、適切に指揮することができなかったために、むざむざ多くの部下を死なせたことに悲嘆した。
そして重大な情報として、帝国軍のマルセル・ユンカース大尉について知らせた。ユンカース大尉はヴァネッサの身柄を密かに解放し、水面下ではヘルムス総統の暗殺を企てている男である。
彼の与党がどれくらいの人数、どれくらいの勢力なのかは分からない。暗殺計画の内容、時期も不明である。一年先、二年先かもしれないし、あっさり失敗する程度のものかもしれない。
しかし、絶対的な統制下に置かれているかのように見える帝国軍国防軍のなかにも、ヘルムス総統に叛意を持つ一派の存在することは、クイーンに確かに希望を持たせた。状況が許せば、内密にそのユンカース大尉なる者と交通して、内外で帝国を大きく揺さぶることができるかもしれない。
次に、ヴァネッサはようやくレティをクイーンに紹介した。
レティは最前から母性に満ちた微笑をこの若く偉大な女王に向けていて、クイーンも改めて、彼女の近衛兵団長の命の恩人と言える老婆に向き合った。二人は初対面で互いに好意を持ったのか、にこにこと微笑みを交わしている。
「私はロンバルディア教国の女王エスメラルダです」
「アタシはヴァイオレット。レティでいいよ」
「ヴァネッサを救っていただいたこと、あなたが術者であること、伺っています。お会いできて光栄です」
「こちらこそ、お嬢さん」
おい、という目で、エミリアが目配せをして、レティの隣に座るヴァネッサが静かにたしなめた。
「クイーンの御前です。言葉を慎んでいただくように」
「ヴァネッサ、構いません。私も彼女と親しくお話がしたいです」
「話の分かるお嬢さんでよかった」
「早速ですが、レティさんは術者なのですね?」
「あぁ、術者だよ。アタシは火の術者ムングの末裔さ」
ということは、血統としてはサミュエルと近しいことになる。術士奇譚において死んだとされたムングの子孫が、ここにもいた。
名乗っただけでは不足があろうと思ったか、レティはおもむろに掌を差し出すと、たちまち帳幕のなかは凍えるような寒さになって、やがて掌中に握り拳大の丸い氷塊が現れた。
クイーンがやや呆然としつつその氷晶に触れると、間違いなくそれは氷である。
クイーンとエミリアは、顔を見合わせ、確信を持った。
「納得いたしました。あなたが術者であることに、私たちは疑いを持ちません」
「お嬢さんは、アタシのほかにも術者を知っているね?」
「サミュエル・ドゥシャンという、光の術者です。ゆえあって、私の主治医としてそばにいてくださいます」
「今は近くにいないようだね」
「同盟領のナジュラーン宮殿に留めてあります。しかし、何故そうもお分かりなのです?」
その点は質問したクイーンだけでなくエミリアも気になるところであった。いくら術者といっても、この老婆は事情に通じ過ぎている。会ったこともない光の術者の存在だけでなく、クイーンがその者を知っているということまで予知していた。さらに言えば、ヴァネッサを救ったのも、クイーンを経由してサミュエルと接触を持つためであったという。その千里眼は、まるで神の目のようである。
レティは愉快そうにくすくすと笑っている。
「氷の術者は、単に氷を操るだけじゃなくて、特殊な能力を持っていてね。いわゆるご神託というやつさ。預言とも言うね」
「預言?」
「氷の結晶に、お告げが示される。アタシら氷の術者に流れる思念は、威厳。威厳をもって、お告げをほかの術者に伝える。それが氷の術者にだけ与えられた特別な役割というわけ」
「それで、サミュエルさんに会いたいというわけですね」
「あぁ、闇の術者を討ち、世界に均衡を取り戻すためには、光の術者の力に頼るしかない」
「闇の術者……」
「王国の皇妃スミンのことだよ」
これにはクイーンもエミリアも鉄球で脳天を砕かれたような思いがした。王国は近年、チャン・レアンがさかんに兵馬を用いて侵略を行い、暴虐の限りを尽くしてはいるが、その本国もそれはすさまじい荒廃ぶりで、その黒幕に皇妃のスミンがいるというのは周知の事実である。傾国の美女ゆえに誰しも骨抜きになり、皇帝などは有名無実、実際はスミンの独裁体制である。
なるほど、確かにスミンが現れてから、世界は均衡を失い、戦乱が巻き起こってそれが一挙に加熱している。まず温厚で善良な君主として知られた皇帝イェスンゲが突如として暴君に変質したかと思うとほどなく怪死し、スミンが義理の息子である新皇帝の皇妃におさまった。そして狼将チャン・レアンが大都督としてブリストル公国に乱入し、またたく間に全土を併呑した。やがて同盟領に食指を伸ばし、イシャーン王と提携してその攻略を開始した。そしてレガリア帝国とも秘密裏に手を結んで、今や戦雲は大陸五ヶ国にまたがりたなびいている。すべてはスミンが世に現れて以降の異変であるとも言える。
なるほど闇の術者の異能によるところとしても、何ら不思議はない。
得心したクイーンは、すぐにレティをナジュラーン宮殿に向かわせることとし、その案内役として、旗本のダフネを呼んだ。そして術者に関する件は伏せたまま、大切な客人であるから、信頼するあなたにナジュラーンまで無事に送り届けてほしい、と申し渡した。
レティには、言葉遣いだけでなく、態度も少し図々しいところがある。
「できれば、馬車を用意してもらえるかね。何日も馬の背に揺られると、年寄りは内臓が疲れる」
無論、クイーンは嫌な顔を少しも見せず、その要望を了とした。嫌な顔どころか、クイーンはこの老術者のどこをどう気に入ったか、実に朗らかな表情を浮かべている。
(悪い人物ではなさそうだが)
と、エミリアはそのような印象を持った。彼女も、サミュエルや神医アブドといった者たちを知ることで、術者という存在に心理的な恐怖や抵抗が薄らいでいるのかもしれない。今や、ごく自然な感覚で、術者の存在を受け入れてしまっている。
しかし一方でスミンのような術者もいるとすると、やはり術者は脅威になりえるし、事実として脅威になっているとも言える。
ダフネは自らの功名の機会であるべき戦場を離れ、即日、レティを乗せた馬車とともに再びラドワーン王の本拠地ナジュラーンへと向かった。




