第6章-④ 大戦の兆し
翌ミネルヴァ暦1394年2月9日。
この日、皇帝イェスンゲの国葬が太子クウンの手で行われ、即日、彼がオユトルゴイ王国第12代皇帝に即位した。
イェスンゲの死は、表向き急性の心臓病ということになっている。しかし市井では、皇妃スミンに殺されたのではないかとのもっぱらの噂である。昨年来、この国では政変が相次いでいるが、その諸悪の根源は傾国の美女スミンであると誰もが知っていた。皇帝の死に関わっていたとして、今さら驚くことでもない。
だが皇帝頓死の事実よりもさらに世間を仰天させたのが、スミンが新皇帝の皇妃となることが発表されたときであった。
「皇妃。皇太后ではないのか」
と、そう疑問に思わぬ者はなかった。太子クウンは前皇帝の長子であり、スミンは前皇帝の妃である。つまりスミンは新皇帝の義理の母である。
「間違いだろう」と皆が思ったが、訂正はついにされなかった。スミンは新皇帝クウンの妻となったのである。
義憤が、王国全土に広がった。新皇帝クウンは、まだ12歳の少年である。義理の息子を傀儡の皇帝とするだけでは飽き足らず、そのような年端のゆかぬ少年をもなぶろうというのか。
ただ、公然と非難する者はない。スミンは「狼将」ことチャン・レアンを驃騎将軍に、「龍将」ことウリヤンハタイを車騎将軍にそれぞれ累進させ、これを左右の双璧として王国の軍権を掌握せしめ、さらにウェイ・ユン、オノザワ、ファン・チ・フンといった勇将たちを昇格させて忠誠を獲得し、その軍事力を背景に強権的な独裁政治を敷いた。
文武百官も、日々、朝議にスミンが現れると揃って平身低頭し、彼女が上機嫌であれば追従笑いをし、腹を立てれば首を縮め、指示があればその英断を称え、最後に彼女が去るときも最敬礼で見送った。
ある日、彼女の専横に悲憤慷慨したひとりの校尉が勇を振るい短刀を忍ばせ、不意にスミンに襲いかかったが、護衛についていたウェイ・ユン将軍に阻まれ、短刀を握った右腕ごと剣で斬り落とされた。校尉はなおも、床に転がった右手首から短刀をもぎ取って立ち向かったが、今度は左手も同様に斬られた。
スミンは校尉を捕らえさせ、城外へ引き立てて民に罪状と刑の執行を知らしめ、車裂きの罰を与えた。
車裂きはこの国において最も酷烈な重刑であり、罪人の四肢をそれぞれ馬車に縛って、一斉に四方へ走らせる。あまりに残忍な刑であることから、この半世紀ほど執行されなかったほどの刑である。
スミンはこれを一種の見世物にし、見晴らしのよい土地に野次馬を大勢呼び集めて、車裂きを執行させた。怖いもの見たさで集まった民衆も、多くはその衝撃的な惨劇に言葉を失い、戦慄したが、当のスミンは小気味よい気分でいるのか、ほくそ笑んでいたという。
家庭におけるスミンの希望はすべて叶えられた。少年皇帝クウンは、即位当時まだ髭が生え始めた程度の時分であったが、スミンが父母を殺害した張本人であることくらいは察している。それだけに憎悪もしており、恐怖もしていたが、スミンは皇妃の立場を利用して床入りを強要し、秘術を施してこの少年をまったくの虜にしてしまった。国務における決定はすべてスミンが代行していたために、この少年皇帝はただ毎日欠かさずスミンに子種を提供するだけの廃人となった。その生態は、まるでひたすら人間に乳を献上するだけの家畜のようでもある。
スミンはしばらく我が世の春を謳歌し、あとは子宝に恵まれるのを待つばかりであったが、同年6月、未曾有の蝗害(バッタの大量発生による農業被害)が王国全土を襲い、飢饉が発生するとともに、政権を揺るがす変事が惹起した。
もともとはウリヤンハタイの従弟が、そうとは知らずにチャン・レアンの一門と道で行き交い、どちらが道を譲るかで争いになり、やがて抜き差しならぬ対立となり、ウリヤンハタイの従弟が先に剣を抜いて、チャン・レアン一門の使用人数人を斬った。
この事件で感情を害したチャン・レアンが、朝議でウリヤンハタイを激しく詰問し、双方とも感情的に罵り合い、ついにウリヤンハタイは激昂して席を立った。
彼は果断速攻の人である。屋敷に戻ると手勢60人あまりに指図して、チャン・レアンの朝廷からの帰路を襲うこととした。
6月29日の黄昏時、網膜の焼けるような夕焼けの光のなか、馬上のチャン・レアン将軍は西日の向こうから飛来した矢を超人的な反応で回避した。彼は瞬時に襲撃を悟り、馬を駆って逃げるどころか逆に潜んでいた刺客へと猛然と突進した。彼の愛馬である絶影に蹴散らされ数人が即死し、また彼の愛用している方天画戟の一薙ぎでさらに数人が死んだ。
狼将チャン・レアンの怒髪は天を衝かんばかりで、刺客はたちまち逃げ散り、当ての外れたウリヤンハタイもやむなく撤退し、そのまま自領のデルゲル方面を目指して遁走した。
スミンは国家の全権を掌握しながらも、政務そのものには無関心で、この一件も腕白者同士の他愛もない喧嘩ぐらいにしか考えていなかった。それが、王国の軍権を二分する狼と龍の殺し合いにまで発展していると知って、ようやく自分が介入せねばならないと気付いた。
「トゴン、どうしたらよい」
知恵袋であるトゴン老人を呼び寄せて、物憂げに尋ねた。老人は一本の毛もなくなった頭を少し傾げて、考えた。この男は常に得体の知れないゆがんだ笑みを口元に浮かべていて、悩むときもそうであった。
「両名の対立は深刻で、関係の修復は難しいやに思われますな」
「勅命を出して、仲直りさせられぬか」
「勅命ですか」
難しいだろう、といった表情で、トゴン老人は肩を揺すって笑った。
「あの者らは自尊心が高く、面子を重んじます。勅命を下しても、仲良く手を取り合うとは考えづらいですな」
「勅命は何よりも尊い。それを尊重せず、争いを続けて私を困らせるというのか」
少し、考えが違っている。チャン・レアンとウリヤンハタイはいわば二頭の獅子で、その矜持をかけて争っている。これは勅命などとはまったく別の次元で起きている対立なのだ。特に両名は勇猛な分、思慮に欠けるところがあるため、一層、名誉を重んずる性質が強い。互いに相手を食い殺さぬ限り、ついに遺恨は消えぬであろう。
トゴン老人は進言した。
「こうとなれば、両名の和を望むのではなく、いっそ徹底的にやらせましょう。目下、宮殿を守護しているのはチャン・レアン将軍で、ウリヤンハタイは都を去り本拠地のデルゲル地方へと向かっています。チャン・レアンを大都督に任じ、軍務の大権を授けて仇敵を追わせるのです。勢力の拮抗する両者が真っ向からぶつかるより、国の損失が少なくてすみましょう」
「あの狼に大都督が務まるのか」
「まずまずは」
「それでよかろう。ところでトゴンよ、そなたの労苦に報いるため、朝廷の司空に昇格させたいと思うが、どうか」
「あっ、それは畏れ多いことで」
老人の素直な反応が物珍しく滑稽味を感じたのか、スミンはまるで鈴を奏でるような華やかな笑い声をたてた。わずかに開いた唇に赤い化粧が施され、その奥にのぞく歯がぞっとするほどに白い。
こうして狼将ことチャン・レアンは皇帝クウンのお墨付きによってウリヤンハタイ討伐の軍を起こし、彼の領地であるデルゲル方面へ鉄騎を率いて殺到し、この地方の中心都市であるイリを一日のうちに壊滅させた。
このときのチャン・レアン軍の綱紀の低下は著しく、逃げ遅れた者のうち抵抗する者や老人、子供は皆殺しにされ、また労働に耐えうる者は奴隷として王都へ送還され、さらに若い女は兵どもの妾や性的奴隷として連れ去られるなどした。これらの総数は2万人とも3万人とも言われる。
さて、かつての僚友であるチャン・レアンの猛追から命からがら逃走したウリヤンハタイは、早期の失地回復を諦め、わずかな腹心のみを連れ、隣国のブリストル公国へと亡命した。ブリストル公国はかねてオユトルゴイ王国と国境のヨーク川を挟んで慢性的な戦争状態にある。その上、王国からの亡命者は積極的に受け入れて、それを政治宣伝にも利用している。実際、スミンの暴政を恐れた亡命者や、飢饉によって発生した難民が、近頃は公国へと多く流れていて、難民集落のようなものまでできあがっていた。
ヨーク川の南岸すなわち王国側沿岸には当然、国境の防衛部隊や難民流出阻止のための警備部隊などが展開しているが、これらは金銀を袖の下として渡せば、亡命を黙認してくれるので、ウリヤンハタイは楽々と渡河することができた。
ウリヤンハタイはブリストル公国の首都であるカンタベリーでもてなしを受け、対オユトルゴイ王国の国境防衛隊の副将の一人、という立場を与えられた。彼は主将の立場を望んだが、ウリヤンハタイは実は王国の手先で、埋伏の毒ではないか、と見る向きも多かったので、副将格での起用となった。
彼の亡命と王国への敵対行為に、スミンやチャン・レアンは大いに憤ったが、公国にすぐに手出しはできない。国境を流れるヨーク川は大陸一の大河で、水軍の規模では公国は王国側の倍ほどの規模の船団を保有している。それに飢饉や叛乱が多発して国内が乱れている状況では、早期の大規模な外征は不可能であった。
スミンはそこで、一年間は軍を休めて富国強兵に勤しむこととし、のちブリストル公国への大攻勢をかけることを決定した。同時にチャン・レアンを大都督に任じ、全軍の総帥とするとともに、トゴン老人の献策を容れ、彼をスンダルバンス同盟へと使者に遣わせた。正面からヨーク川を渡りブリストル公国に侵攻するのではなく、両国に隣接するスンダルバンス同盟領を通って側面から公国へと攻め入る、迂回作戦を提案するためである。




