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ミネルヴァ大陸戦記  作者: 一条 千種
第6章 傾国の美女
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第6章-① 異変

 大陸の南東部に、オユトルゴイ王国という国がある。

 かつて「術士奇譚」の舞台となった地域で、太古から文明の栄えた肥沃の地である。

 アルトゥ・ムング・エルスの術者三姉妹も、梟雄(きょうゆう)セトゥゲルも、ロンバルディア教国の遠祖であるバルも、この国で生まれ育った。

 ただし、王朝は何度か代わっている。オユトルゴイ王国という国家自体は比較的新しく、130年ほど前に成立したに過ぎない。

 この国は黄色人種が人口のほとんどすべてを占めており、特に支配階級はみな黄色人である。

 ミネルヴァ暦1383年に第10代皇帝ベグテルが没すると、その長子イェスンゲが皇帝として立った。

 イェスンゲは容貌魁偉(かいい)、高さも横幅も厚みも群を抜く偉丈夫で、英雄の風格を備えていたが、実際の能力たるや凡庸そのものであった。性格は温厚かつ生真面目で、善良なことこの上ないが、善人であるというのは支配者の徳にはならない。官僚からも将軍からも、侮蔑まではされないが、敬慕されるわけでもなかった。

 彼には妃と三人の太子がいたが、どれも人畜無害なだけで、毒にも薬にもならないような凡物ばかりを集めた家庭であった。

 父帝ベグテルは、イェスンゲを後継者とする際、大いに危ぶんだが、ほかに有力な候補がいるわけでもなかった。長子たる彼に比べれば、次男は愚鈍に過ぎ、三男は狂躁に過ぎ、四男にいたっては神経を病んだ単なる病人でしかなかった。凡物だが穏和なだけまだ救いがあると見た。有能な臣下を登用し、内は民を安んじ、外は国境を固め、公平な法と税制を敷き、教育と貿易に力を入れれば、充分に帝位を務め上げることができるであろう。

 実際、ベグテルはそのように言い残して逝去し、イェスンゲは父の訓示を金科玉条として、勤勉に働き、最低限の治績を上げることに成功した。

 転機が訪れたのは、イェスンゲが即位して10年後、ミネルヴァ暦1393年のことである。

 春の3月、領内の巡察に出ていた皇帝イェスンゲは、季節外れの暑さに耐えかね、馬車のすだれを上げるように命じた。馬車は六頭立てだが、乗っているのは体重220kgの巨人であるため、どの馬も滝のような汗を流している。

 皇帝巡察の物珍しさから集まってきた民衆は、皇帝の姿を見るなり一様に恐ろしげな目をした。

 まずその常軌を逸した巨体である。身の丈は190cm以上あり、それだけでもこの人種のなかでは並外れた長身だが、脂肪が全身を覆っているために、持ち主でさえその体躯(たいく)をまともに動かすことができない。また狭い額から鼻にかけての三角形以外は、黒く太い髪と髭が顔を埋め尽くしており、赤く分厚い唇がのぞいているのが異様な印象を人に与えた。

 この容姿を英雄と見る者も多いが、一種の怪物であると評する者も多い。特にそれが女である場合、下される評価はほぼ例外なく後者であった。彼の素顔を見た女は、恐怖におののいて顔の神経を引きつらせるか、ひどいと逃げ出してしまう。

 皇太后たる彼の母も、長じて我が子の容貌が獣のような醜い変化を見せるにつけ、自らの胎内から出てきた生き物であるという認識を受け入れられなくなり、後宮の北殿に閉じこもって、息子と顔を合わせようともしない。

 それほどの化け物じみた姿である。

 イェスンゲは群衆が逃げ散るのに慣れているが、やがて馬車を進めるにつれて、ひとりの若い女を見出した。女は奇妙なことに、彼の姿を見ても逃げるどころか、澄み渡った目とやわらかい表情で、数秒ほど、彼の視線を受け止めた。

 彼はその女がひどく気にかかり、すぐ近侍の者に言いつけて、内密に後宮に呼び寄せることとした。

 近臣はみな顔を見合わせて不思議がった。皇帝が女に関して、能動的に何かを命じるというのは、初めてではなかったろうか。皇妃を(めと)ったのも先帝の計らい、その皇妃に子種を植え付けたのも女御(にょうご)の講授によるもの、そして妾を持たぬのも皇妃の指図によるものであったからだ。

 珍しいことではあったが、同時に近臣らは妙に微笑ましくもあった。言動も思想も中庸の枠を出ず、他人の期待するままに生きてきた皇帝にして、その人とも思えぬ容姿に釣り合うだけの動物的な欲求が多少なりともあったということであろう。

 宦官(かんがん)のひとりが、ひっそりと女を皇帝の寝室へと連れてきた。後宮は皇妃の息のかかった女官らが見回っている。ことさら悪妻というわけではないが、嫉妬心は人一倍なだけに、皇帝も肩身が狭く、家庭では何事も自由にならない。

 二灯の燭台が静かに揺らめき、その光と影のなかに浮かび上がる女の顔には、筆舌に尽くしがたい色香がある。年の頃は成人して間もないであろう。しなやかで光沢のある長い黒髪、ややつり上がった眉と目尻、下まぶたは豊かに膨れ、微笑をたたえた唇は血のような赤い紅が塗られてぞっとするような艶めかしさがある。そして細い首から胸元にかけての肌艶、ひざまずいた腰の曲線美には、女にまるで関心のなかったイェスンゲの心をさえ動かす格別な情趣がある。

 女は、いわば道端で無造作に手折(たお)った花のような他愛ない存在だが、イェスンゲは丁重なほどに紳士的に扱った。

「名を、教えてくれ」

「スミンと申します」

「スミン、よい名だ」

「恐れ入ります。本日はお呼びいただき、ありがとうございます」

 ここまでは、イェスンゲがかつて世話役の女官から聞いた、妾との正しい接し方である。その後、皇妃以外に妾をもうける機会がなかったが、この夜、ようやく役に立った。

 しかし、挨拶のあとにどうすればよいか分からない。

 作法などはなく、女を寝台に抱き上げて好きに振舞えばよいだけではあるのだが、彼には皇妃との義務的な交わりのほか、経験がない。

 やむなく、話を続けた。

「年はいくつか」

「21でございます」

「父母はあるか」

「父母ともに、先年流行り病で亡くなりました。縁者はなく、今は薬を行商して暮らしております」

「そうか。領内は平穏か」

「ことのほか平穏で、すべて陛下のご威光とご恩徳の賜物でございます」

「それは重畳(ちょうじょう)である」

 言い終えて、沈黙した。皇妃やかしずく女官は大勢いるが、それらはすべて立場であり機関であって、異性としての生身の女と接する意味では、彼は実年齢の45歳ではなく、まだ15歳の少年でしかない。

 生まれながらの帝王として他者に配慮や忖度(そんたく)をしたことのない彼は、話題を見つけるための苦労というものを初めて経験したが、それも長時間ではなかった。

 彼のいたたまれない心理を、そわそわとした挙動から察したのであろう、スミンは妖しいほどの落ち着きで床入(とこい)りを促した。

 女は驚くほど大胆で、するすると皇帝の衣服を脱がせ、足元に潜り込んだ。イェスンゲには残念なことに、執拗にまとわりついた胴部の脂肪に邪魔されて、その行為の様子が見えない。

 しかしより深刻なのは、彼が長年の不摂生がたたって糖尿を病み、男性機能をまったく失ってしまっていたことにあったであろう。事実、彼の精神はともかく、肉体は美しい女の痴態にも反応を示すことがない。

 彼女は、この国で最大の権力を誇る巨人が、閨房(けいぼう)にあっては哀れな不具であることを知っても、そのことには直接触れず、彼に寝台に横たわるよう勧めた。そして耳元に唇を近づけ、

「私にお任せください、陛下のすべてを」

 と、そう囁いた。彼の生涯、これほど淫靡(いんび)で艶のある響きを伴った声は記憶にない。舌や声帯や気管が、単なる聴覚情報ではなく、一種の媚薬として声というものを発することができるようにつくられているとすれば、この女はその生きた証と言えるのではないか。

「私の唾液には、妙薬が含まれております。口吸いをしてもよろしゅうございますか」

「妙薬。どのような妙薬か」

「陛下が今、思い(わずら)っておられる、その病根が晴れましょう」

 無言でひとつ頷くと、女が忍び寄るように近づいて、やがて視界が暗くなった。接吻(せっぷん)の際はまぶたを閉じるものだ、と体が覚えていた。

 こじ開けられた唇に、火照るように熱い舌と上質な酒のように芳醇な唾液とが侵入してくる。

 彼はそのまろやかな舌触りに酔いしれた。そしてこの上ない法悦とともに、下半身に若々しい精力がみなぎるのを自覚した。

 世界には不可思議なことがある。だが彼は自らの肉体に起きた生理現象への好奇心やその解明意欲よりも、雄渾なほどに復活を遂げた男性器にもたらされるさざなみのような刺激の再開に意識を集中することを選んだ。

 仰向けになっても、相変わらず腹部の贅肉が視界を遮り、美女の奉仕が見られないのが口惜しい。ただそれにしても、この快楽と愉悦のあふれるような感覚はどうであろう。

 彼はやがて女の重みを腰に感じ、瞬間、咆哮(ほうこう)したいほどの感動と快美とを享受した。

 抑制された照明のもと、周期的な律動を奏でる女の肢体は、蝶が舞う姿にも見える。

 (動きたい)

 と思い、難儀しつつ体位を入れ替え、女の体に巻きついている絹服を剥ぎ取ろうとした。しかし、他人はおろか自分の衣服さえ着脱したことがないため、うまくいかない。膂力(りょりょく)に任せて、破いてしまった。

 どうも彼にとって、この夜は初めて経験することが多すぎるようだ。

 象のような鈍重さと屈強さで巨体を揺すると、先ほどまでとは違った情念の炎が着火した。彼が動くごとに女の体も突き動かされるその煽情的な光景は、情欲と支配欲が激しく刺激され、目の前の女への愛欲をいやが上にも高めてゆく。

 やがて彼が味わったことのない頂きへと登り詰め、果てたあと、女は彼の無法な振舞いを許し受け入れようとするように、やや小柄な彼女の優に5倍以上ある男の体重を抱き止めて、さらにしがみつくようにして抱擁した。

 (顔や体だけではない、心も美しい)

 と、根拠もなく彼がそう思ったのは、この時であった。

 男が女を愛するとき、その情愛には多くの場合ある種の盲目的な信仰心が多分に含まれている。自分以外の男に対しては、神聖不可侵な存在であることを望み、当然そうあるべきだと思っている。またその人格は貞淑かつ高潔にして、愛情に深くなければならない。愛すべき対象は自分だけであらねばならないこと、これも言うまでもない。

 皇帝イェスンゲは、彼自身が作り出した偶像に対し、過剰なほどに信心深い男であった。

 彼は翌朝、それまで一日たりともおろそかにしなかった政務を放棄して、自らの寝所に立てこもり、祈りをささげるようなひたむきさでもって愛人を抱いた。

 まるで45年分の(たが)が外れたように、彼は淫楽の奴隷となったようである。

 数日が経ち、彼の秘かな愛人であるスミンが、「後宮はお妃様の目が行き届いて息苦しい」と泣くような調子で言った。

 イェスンゲの印象が凡君から暴君へと大きく変質したきっかけが、このような些細(ささい)な訴えからであったというのは、歴史の嗜虐(しぎゃく)性と言うべきか、それとも男女の痴情の愚かしさと見るべきであろうか。

 あるいは、術者スミンの強力な思念のなせる(わざ)なのか。

 皇帝イェスンゲは、まずこざかしい皇妃とその手足である女官らを後宮から追い出すことに決めた。それまで主体的に強権を発動することのなかった温厚で控えめな皇帝が一転、御林(ぎょりん)軍(近衛軍のこと)を動員し有無を言わせずに妻を宮殿の外へと追い立てたのである。抵抗した女官は勅命の名のもと、鞭で打たれたり、衣服を切り刻まれ辱めを受けたりした。

 皇妃は夫の突然の暴挙に怒るよりも恐怖した。不覚にも、彼女の住まう後宮に得体の知れぬ闖入(ちんにゅう)者があったことを、彼女は知らなかった。

 王都トゥムルの民は、豚が犬に追い立てられるように、皇妃とその女官たちが宮殿から逃げ出すのを見た。そしてそれが、皇帝が愛人の快適さを保証するためにした行いであったと知ったときの民衆の驚きと不安は小さくなかった。

 皇帝は、人変わりしたのであろうか。

 のち「傾国の美女」と呼ばれる術者スミンが、史書に初めて登場したのが、このときからである。

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