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ミネルヴァ大陸戦記  作者: 一条 千種
第5章 天啓
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第5章-③ 命を選ぶ

 オクシアナ合衆国代表団との公式及び非公式の会見に、首相格とも言えるマルケス議長は出席しなかった。

 彼はその日、消化器の急激な不調からくる衰弱から、レユニオンパレス内の官舎で()せっており、政務に参画できる状態ではなかった。既に老境と言っていい年齢に加えて、数日にわたって食事が喉を通らず、心配したクイーンが見舞いに来たほかは一切の面会も謝絶し、みるみる衰えてこのまま悪化すればさらに数日内に危篤に陥るだろうとも見られていた。

 クイーンは、アルジャントゥイユ市街に名医アブドが滞在していることをロマン神官長から聞き、近衛兵をして彼を探させた。アブドはスンダルバンス同盟の出身で、神医と(うた)われ、この半世紀ほど大陸全土を巡って治療した患者は数知れない。風の噂ではちょうど国都を訪れているということで、渡りに船と誰もが思った。マルケス議長は政府の重鎮で、新体制が発足したばかりのこの時期に失うわけにはいかないのである。

 アブドは年齢は既に80を超えているだろうが、実際のところは誰も正確なところを知らない。本人さえ自分の年齢を知らないとも言われていた。褐色がかった肌に、白い髪と白い髭は伸び放題だが、背筋はまるで壮年期のように直線的である。まるで神仙かなにかのように柔和で平穏な性格で、振舞いも低姿勢であり、クイーンからの急な呼び出しにも二つ返事で応じた。

「アブド先生、お会いできて光栄です。ご高名は我が国にも響き渡っています」

 クイーンからの挨拶もそこそこに、彼はさっそく患者の脈をとり、呼吸の音を聞き、数日来の容態について問診した。迷うことなく、薬箱からいくつかの薬品を選んで調合し、病床のマルケスに与えた。

 しかし、半日経過しても病状はよくならない。

「おかしいですな」

 再び診察したが、回復しない理由は分からない。とにかく処方した薬を与え続けるしかないとの判断が下された。

 政府関係者らは多少失望しないでもなかったが、少なくともクイーンはおくびにも出さず、アブドに丁重に謝辞を述べて、近衛に城下へと送らせた。神医アブドは、王侯や富豪の主治医になり財を得ることを好まず、自ら極貧の生活を送りながら治療費の払えない貧民を救うことに生涯を捧げていることを知っていたからである。

 クイーンの憂慮は晴れなかったが、その翌日、より重大で衝撃的な事件が起こった。

 8月30日である。

 日中の政務を終え、クイーンは夕食を義妹のコンスタンサ王女とともに楽しんでいた。コンスタンサは第一王女としての正式な冊立(さくりつ)はされず、いわば宙ぶらりんの身分だが、敬称として王女と呼ばれ、かつ王族としての礼遇は受けている。一時、暗殺の対象となったり、叛乱の動きについて警告しなかった罪の意識でひどい気鬱に陥っていたが、最近では気分も晴れやかな日が多いようである。宮殿に住まい、クイーンと対話する時間も増えたことで、親密さを増したことを喜んでもいた。以前は第三王女として地方に領地と城を与えられ、一種の自治領を成していたために互いに交流することもほとんどなかったが、今は義姉妹として常に気にかけてくれる存在を感じることで、精神的な安定を得られているようでもある。

 二人は乗馬や香水、チェスなど、共通の趣味も多かったので、話も尽きない。

 その会食の席へ、近衛兵団副団長代理のヴァネッサが文字通りに駆け込んできて、緊急の件であると訴えた。ヴァネッサの表情は緊張のため青ざめ、クイーンはせっかくの食事を中断し、すぐに部屋を出た。

 廊下に出て、耳打ちで報告を聞いたクイーンも、さっと表情を変え、即座にエミリアとアンナも呼ぶよう女官に命令した。

 ヴァネッサとともに早足で向かった先は、サミュエルに与えられたゲストルームである。そこには既に幾人かの女官と宮廷医が集まっていて、床に倒れている者を看護している。倒れているのは、サミュエルとルースだ。

 医師たちの顔色を見ても、切迫している状況と分かる。

「どういうことですか? 何があったのです?」

 女官長のマルガリータが答えた。

「お食事中、急にお二人が倒れられたようです。女官が食器を引き取りに伺ったところ、お二人は意識も混濁するほどの容態で」

 クイーンはさらに宮廷医長のベルッチに尋ねた。

「先生、二人は助かりますか」

「まだ何とも。しかし食あたりとも思えません。召し上がったのはスペッツァティーノのようですので。それに、食あたりにしては初期症状が出るのが早すぎる」

 スペッツァティーノとは、ロンバルディア教国の地方料理で、肉の煮込み料理である。入念に煮込んだ肉料理で食中毒を起こすことは確かに考えづらい。

 絞り出すように、クイーンが質した。

「まさか、毒ですか……?」

「恐らくは」

 クイーンは愕然として立ち尽くし、視線を泳がせつつ、部屋のテーブルへと行き着いて、そこで停止した。スペッツァティーノが、ほとんど皿の底が見えるほどに減っている。

「もし毒であるとすれば、これだけ重篤な急性症状が出ている場合、治癒は極めて難しいと言わねばなりません」

 ヴァネッサは、自らも心臓が凍結するような感覚を味わいつつ、医師の言葉の意味するところを努めて冷静に受け止めようとするクイーンの横顔を後方からうかがった。目の表情は見えないが、絵に描いたような美しい造形のその唇がかすかに震えるのだけが見えた。

 エミリアとアンナが相次いで駆けつけ、彼女らも思わぬ事態に言葉を失っている。ヴァネッサの説明のなかに毒、という単語が出て、彼女らの驚愕の度はさらに増した。

 べルッチ宮廷医長は、二人ほぼ同時に呼吸困難の症状が始まったのを見ると、危篤であるむね告げた。毒の力は強くもはや手の施しようはないと。

 ここでクイーンはあることに気づき、ヴァネッサに命じた。

「神医のアブド先生が、城下にまだいらっしゃるはずです。すぐに探してきてください」

 ヴァネッサは直ちに数人の近衛兵を連れ、雷電のような素早さで市街へと向かった。

 エミリアも、前近衛兵団長としての目線で事態への対処を図っている。

「アンナ、クイーンの警護と宮殿の警備を強化するように。これが毒によるもので、しかも故意であるとしたら、恐らく犯人はまだ宮中にいる。調べが済むまで王宮の出入りを全面停止するべきだ。それと、料理人と給仕を担当した女官を全て一箇所に集めるんだ」

「はっ、そのようにいたします」

 本来、エミリアは近衛兵団の役職者ではなく、そのためその指揮権も当然持たないが、経験も判断力も優れているために、アンナも彼女に助言を乞うことが多い。そのため、自然とエミリアからアンナに指示を出すこともある。

 アンナは部屋を出て、両膝が崩れそうになるのを(こら)えるのに相応の努力を要した。吐き気がする。だが表情を変えてはならない。今さらながら、自分は恐るべき犯罪の手引きをしてしまったのではないかと思う。下手をすれば大逆犯だ。

 サミュエルの秘密を余人に明かした。マルケス議長は、殺すべきだ、との自分の信条と言葉に従ったのであろう。そして毒が盛られた。ルースは何らかのいきさつで、サミュエルの料理に手をつけてしまったものであろう。

 彼女は自分が犯罪者の片割れに仕立て上げられたことに絶望する思いに(さいな)まれつつ、クイーンの護衛の増員、王宮全体に警備の強化、王宮の出入りの禁止、非番の者の呼集、そして担当の料理人と女官の調査などを順次、命令していった。だがその声は、著しく覇気を欠いた。

 さて、神医アブドの滞在する宿所は分かっている。ヴァネッサは馬を走らせ、アブドをひっさらうようにしてもどり、30分後には患者を診察させることに成功した。宮殿の広さ、市街地までの距離など考慮すれば、離れ(わざ)ともいえる早さである。

 アブドはサミュエルとルース、それぞれの症状、症状の出た経緯、体温、脈拍、呼吸、瞳孔、咽喉、発汗、心音、呼吸音など確認してから、確かにこれが毒によるものであると結論づけた。

「アブド先生、なんとかお助けいただけませんか」

「しかし、難しいですな」

 少し考えてから、彼は容易ならぬ治療法であるためまず別室で人払いを願いたい、と申し出た。表情をいよいよ険しくしたのち、クイーンは答えた。

「分かりました。エミリア……彼女だけ連れてもよろしいでしょうか。彼女は私自身も同然です」

「彼女に隠していること、隠すべきことはないと?」

「ありません」

「よろしい。ではすぐに説明いたしたい」

「どうぞ」

 隣の貴賓(きひん)室に入り、そのまま立ち話となった。

「陛下。実はあのサミュエルという目の見えぬ若者、術者です」

「えっ、何故分かるのです」

「私自身、術者でございますので」

「先生も術者?」

「はい。術者同士は、多少離れていても、互いの気配を感知できるのです。私の血脈は、術者としての力が枯渇しかけておりますので、彼の肌に触れてようやく分かりましたが。私は土の力の恩恵によりて医師を」

「つまり先生が神医とまで呼ばれるのは、土の術者としての力によるものと?」

「いえ、ほとんどは単に薬に関する知識や経験によるものです。申した通り術者としての神通力はほとんど失われているので、効果や回数も限られています」

「彼らを治せますか?」

「お二人とも若いので、私の力で毒をいくらかでも中和できれば、数日苦しみますが持ち直せるでしょう。ただ、どちらかに術を使えば、私の体力ではそれが限界です」

 矢も盾もたまらぬ、という心情で、エミリアが割って入った。

「それではつまり、先生はどちらかひとりを助けることができる。だがもうひとりは見捨てることになる、と……?」

「その通りです。ご決断いただければ、どちらかはお助けできるでしょう」

 何を言う、とエミリアは怒りに似た感情を覚えた。この老人は、彼女の主君に、救うべき命を選べと迫っている。どちらを助け、どちらを捨てても、選択した者は断腸の思いに押しつぶされるであろう。ましてクイーンは、民衆や兵士の命を軽んじるような人ではない。エミリア自身は同行できなかったが、内乱鎮圧の戦役では、死者の亡骸を目にしては深く胸を痛め、自分の命を奪おうとした叛乱の首謀者の死に際しては落涙して悲嘆に暮れたほどの慈悲深い人なのである。

 それほどの方に、この老人は無情な決断を要求している。不遜ではないか。

 しかし一方で彼女の冷徹な理性の部分が、感情の暴走とは距離をとって、彼女自身に働きかけている。これほどの重大事に決定を下せるのは、クイーンでしかありえない。

 ひとりはクイーンにとって命の恩人でもあり、また世界を正邪いずれにも大きく変える可能性を持った術者である。救世主かもしれないし、破滅の使者かもしれない。生かす理由も殺す理由も、濃厚すぎるほどにあった。

 またひとりは現在の近衛兵団にあって最年少の近衛兵であり、エミリアが重傷を負った際にたったひとりで看護にあたった者だ。当然、エミリアにとっては新兵ながら特別な感情を持っている相手である。エミリアを親友と思っているクイーンは、これを見捨てるという決心はつけがたいであろう。

 アブドは黄褐色の肌を持ち、眼の下の皮膚はこけて老衰の兆しが見られるが、その奥の限りなく黒に近い茶色の瞳には、命の守り人たる医師としての高潔な光がたゆたっている。それはあるいは、術者としての輝きであったかもしれない。

 隣室からは、男女のうめき声、それらを看護する医師や女官たちの声や気配が壁越しにわずかながら伝わってくる。

 それ以外は、室内はひとときの静寂に包まれた。エミリアもアブドも、息を殺して待った。

 やがて、クイーンが自らの選択を口にした。

 ともすれば瓦解しそうになる理性と自制心のひび割れるような痛々しい響きが、その声には込められている。

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