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ミネルヴァ大陸戦記  作者: 一条 千種
第2章 教国内戦始末記
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第2章-⑤ 名人芸

 場は、国都アルジャントゥイユの北方70km、マジョルカバレーへと移る。

 ここはグアダラハラ山脈と呼ばれる急峻な山系を南北に縦断する地形となっていて、この谷をアルジャントゥイユと北方のレガリア帝国を接続するピレネー街道が走っている。

 太古はこの谷に河川が流れていた痕跡があるが、現在では水源が枯渇したのか、水はなく、砂利だらけの乾いた谷になっている。

 マジョルカバレーの長さは南北約14kmで、谷の両側はほとんどが切り立ったような崖となっており、場所によっては馬車同士がすれ違うのもやっとという狭さである。

 このため、交易路として極めて重要なルートであるにも関わらず、いくつかの大規模な山賊団が(とりで)を構えている。山賊としては、神出鬼没に現れて隊商を襲撃することができるし、逃げ道も容易に(ふさ)げるから一網打尽であった。隊商の側も心得ていて、傭兵を雇い入れ護衛隊形を組むが、この地形では襲われるよりも襲う方に地の利がある。

 ロンバルディア教国ではこれら山賊どもにずいぶんと手を焼いてきた。危険なマジョルカバレーを通らざるをえないために、ここを交易路として通過する隊商は安全保障費用が大きくなり、外国との交易に支障が出る。迂回路も整備されてはいるのだが、グアダラハラ山脈の難所を避けた経路であるために、遠回りであることはこの上ない。

 討伐軍を差し向けたことも数限りない。その度に、山賊団は連携してゲリラ戦を展開するために大いに悩まされ、悪い時は撃退されるか、あるいは山から山へ跳梁(ちょうりょう)する敵を追い切れず不首尾に終わるかどちらかであった。

 わずか1,200の傭兵団を連れてこのマジョルカバレーに到着し、つぶさに地形を観察して、ドン・ジョヴァンニはたいしたものだと思った。少数の兵でも、この回廊状の地形を利し、一部を街道上で防戦させ、残りを崖に登らしめて伏せておけば、どれほど多くの兵で攻め寄せようと容易に守備できるであろう。少数の遊撃部隊にとっては、まさに理想的な戦場と言える。

「ここに目をつけるとは、なかなか用兵の分かった王女様だ、気に入った」

 ドン・ジョヴァンニは意気揚々として、まず先客の山賊団の料理にかかった。彼らを早々に追い出すことが、この戦いの下準備となる。

 最初に、水源を探した。山上に砦を構える山賊どもは、どこかから水を調達しているに違いない。山内に小川が流れているのを偵知した彼は、分隊を連れて川の周辺を見回り、すぐに給水に来ていた山賊の一味を捕えた。

 彼自身の前歴が山賊であるだけに、その生態は知り尽くしている。

 捕虜の喉にオクシアナ合衆国製のスティレットと呼ばれる短剣をあてがいながら、彼は山賊団の砦へと乗り込んだ。色めき立つ山賊どもを抑えつつ、

「おっと、勘違いするなよ。今日はとびきり美味しい話を持ってきた。この金をくれてやるから、お前ら手を貸せ」

 そう言って放り投げた銭袋には、金貨がたんまりと入っている。彼がプリンセスからせしめた「準備費用」である。この地域の山賊らは食うには困らぬだけの稼ぎがあったが、それでも目の飛び出るほどの大金である。

「俺はエスメラルダ王女に手を貸している。俺に従って働けば、さらに大金を下さるという約束だ。しかも、これまで山賊稼ぎをして領内を荒らしていた罪も免除する。働き次第では、正規軍の十人長や百人長にも取り立てられるぞ」

 山賊は、その多くが生活にあぶれた無法者の集まりである。しかも今は傭兵団の長といっても気分は山賊の親玉であるドン・ジョヴァンニの説得だったから、効果はてきめんであった。この地に盤踞(ばんきょ)していた400人あまりの山賊のうち、約半数は彼の手下となり、残りはなお疑ったため、金だけ与えて追い払った。

 マジョルカバレーは、ドン・ジョヴァンニのものとなった。

「第二師団のガブリエーリ将軍とやらは、恐らく無能な男だろう」

 有能ならば、まずはこのマジョルカバレーを先取して、ピレネー街道を(やく)し、征討軍の頭を叩くであろう。それを、征討軍の本隊が到来すると聞き、亀のようにカスティーリャ要塞に籠城しているらしいのである。これでは自ら戦略上の選択肢を減らしただけではないか。このマジョルカバレーであれば、征討軍の動きに合わせて進むも退くも自由自在。天然の要害にして戦略上の要点であるにも関わらず、みすみす敵に渡すなど、無能者である証左としか思えない。

 彼らはさかんに偵察活動を行うほかは、文字通り鬱蒼(うっそう)たる山々や狭隘(きょうあい)な街道の影に折敷くようにして敵を待った。山地に陣取る本隊は、すぐに手持ちの食料が尽き、森に巣食う虫や鼠のたぐいまで探しては口に入れた。確かに、これほど過酷で忍耐を必要とする仕事は、正規軍よりも彼ら傭兵や山賊の専門分野であろう。

 第二師団は、まるでプリンセスに魔法でもかけられたかのように、その術策の通りに動いた。

 7月6日になってから、第二師団の先遣斥候(せっこう)と思われる小集団がマジョルカバレーに現れた。本隊に先駆けてマジョルカバレーに侵入し、伏兵の存在を確認して師団長に注進を入れるのが役割である。無論、この時点では襲撃しない。第二師団の本軍を引き込んでから一挙に袋叩きにするつもりだ。

 翌々朝、第二師団の兵力が北側出入り口からこの狭い回廊へと続々と流れ込んできた。しかしその集団は、ドン・ジョヴァンニの望見するところ約1,000といったところである。過剰なほどに慎重で知られるガブリエーリ将軍が、兵力を小出しにして伏兵の存在をあぶり出そうとしているものと思われた。これほどの集団の通過を許せば、たとえ本隊を叩いても国都が危うい。1,000人単位の梯団(ていだん)を数次にわたって送り出すことで、伏兵による被害を最小限に食い止めようというのだろう。

「愚かな男だ」

 ドン・ジョヴァンニは躊躇なく、その第一の梯団へ奇襲を仕掛けた。見上げるばかりの高みから巨石、巨木、無数の矢が降り注ぎ、正面からも兵が湧いて槍衾(やりぶすま)の突撃を受けたために、第一梯団は惨憺たる敗退を喫して、多くの死傷兵を残したままもとのマジョルカバレー北口へと逃げ戻っていった。

 第二師団が弱いというより、戦術的に極端な優位性が守備側に与えられたこの地形によるところが大きい。このマジョルカバレーを縦列になって通ろうとする限り、どれほどの大兵力で攻め寄せようと、赤子の手をひねるような容易さで撃退が可能であろう。

 正規軍の将軍が傭兵や山賊と決定的に違うところは、責任とプライドがあるかどうかだ。

 ドン・ジョヴァンニはそのように思っている。それは、例えば多少の苦境でも部隊を踏みとどまらせることができるという統率力にもつながるが、負の側面もある。負けると分かっていて戦いを継続したり、なんとか作戦を成功させようと困難な作戦に固執したり、劣勢な状況下でも撤退という道を選択できなかったりする。

 もし彼が、この状況で叛乱軍に加担し第二師団を率いていたとしたら、戦いの前途に見切りをつけて、早々に手じまいにしたであろう。博打(ばくち)では、負けと分かった時点でさっさと逃げ出すのが重要である。信頼できる部下だけを手元に残して、国境線のカスティーリャ要塞を占拠して、隣国のレガリア帝国に売り渡してもいい。手持ちの資源をいかに高く売るかを考えるのが傭兵稼業である。だが正規軍の将軍ともなると、そこは任務に対し律義にできている。

 ガブリエーリ将軍は、状況の打開を求めて何かしらの行動を起こすだろう。選択肢はさほど多くない。

 一つは、被害を度外視して、マジョルカバレーを強行突破する策。だが可能性は限りなく低い。街道上にも山上にも伏兵が埋めてあると分かっていて、全滅を覚悟で突破を(こころ)みるとも思えない。

 次は、このグアダラハラ山脈に踏み入って、山上のゲリラ部隊を掃討しようとする方策。これも成算が低いため、採用されるとも思えない。山脈は広大で逃げ場所はいくらでもあるし、それこそゲリラ部隊にとっては絶好の地形なので、各所で落とし穴や奇襲や火計を活用して戦えば切り防ぐことは造作もない。山岳戦に慣れない正規軍はじわじわと出血を強いられ、時間を浪費し、ついに兵力を消耗するか、士気を保てなくなるに違いない。

 となると、第三の選択肢こそ、最も採用される可能性が高いと見るべきだ。これはグアダラハラ山脈を大きく西に迂回する進路で、現在ではほとんどの旅行者や隊商が、危険なマジョルカバレーを避けてこの迂回コースを選択している。マジョルカバレーの直進路に比較して、日数としては7日間程度のロスが発生するが、軽騎兵団を編成して長駆進撃すれば、国都アルジャントゥイユまで(さえぎ)る者はない。

「次は別動隊を西回りで派遣し、風を巻くように走って国都を()こうとするだろう。俺が面倒を見てやる」

 ドン・ジョヴァンニは、その別動隊にこそ師団長のガブリエーリ将軍がいると見て、自らマジョルカバレーの戦場を離れ、戦力の半数を引き抜いて、西へ急行した。

 この地域には、かねて第一師団から分派したコクトー千人長の率いる500人が伏兵を敷いている。ドン・ジョヴァンニは、ちょうど同じその森の茂みで兵を埋め、第二師団の騎兵団を待ち受けるべく近づいた。

 ()しくも、と言うべきか、あるいは一流の戦術家は同じ道を辿(たど)るものなのであろうか。

 ドン・ジョヴァンニ隊が森林に足を踏み入れたところ、突如として草が人の高さまで伸び上がったので、仰天した兵が剣を振り上げた。咄嗟(とっさ)にドン・ジョヴァンニがその腕をつかみ剣をひったくらなければ、危うく同士討ちが発生したことであろう。

「このバカ、慌てるな。味方らしい」

 ドン・ジョヴァンニはそのままコクトー将軍の潜む茂みまで案内された。のっけから、険悪な空気が両者のあいだに流れている。

「おいこの素人のガキ。ここいらは俺の領分だ。他人の手柄を盗もうとはどういう了見だ」

 ガキ、と呼ばれたコクトーは37歳で、ドン・ジョヴァンニより9つ若い。だが経験の差はそれ以上で、大陸中を戦い歩き、海千山千のしたたかさを持つドン・ジョヴァンニから見れば、彼はまだひよこも同然である。

 一方で生まれ故郷の名と無双の戦いぶりから「パミエの虎」との異名をとったほどの猪武者だから、コクトー千人長も(ひる)まない。背は少々小柄だが、ぎっしりと筋肉の詰まった(はがね)のような肉体を持っていて、戦場では自分の背丈より長い大斧(だいふ)を自在に振り回す猛将である。

「貴公の領分とは聞き捨てならん。ロンバルディア教国の土地はあまねく国家の領分であり、王家の領分である。我々はその正規軍だ。よそ者に泥棒呼ばわりされるいわれはない」

「度胸のあるガキだ。なら聞く。俺はエスメラルダ王女から直接の命令を受けている。お前は誰の命令で来た」

「第一師団長ジェレミー・ラマルク将軍だ」

「その命令を、エスメラルダ王女は知っているのか」

 知っている、とは言えないだけに、コクトーは二の句を継げずに黙った。

「独断の命令だろう。だからこそこそとこのあたりをうろついていたというわけか。お前の上官は俺の裏切りを執拗(しつよう)に疑っていたようだからな」

 コクトーの方には、プリンセスに隠れて兵を動かしているという弱みがあるので、ついに押し切られるようにして、一時的にドン・ジョヴァンニの麾下(きか)に入ることを了承した。千人長ともなって傭兵隊長の下で働かねばならないのは不快であったが、一度和解すれば互いにさっぱりとした気質の好漢なので、すぐに本来の敵に備え、再び匍匐(ほふく)して森の土と化した。

 この森に第二師団の騎兵隊が最も接近したのが、7月11日の薄暮(はくぼ)である。第二師団にとって不運なのが、空が急激に暗くなり、その暗さに目が慣れないこの時間帯に伏兵の襲撃を受けたことであった。ドン・ジョヴァンニの遊撃隊とコクトー部隊はその任務の性質上、ほとんどが歩兵で、正面から騎兵とぶつかれば不利だが、不意打ちの強みがある。そして終日行軍を続けて人馬ともに疲労しているところへの襲撃であり、何より夜間は防御する側が状況を容易に把握できないために、混乱が増大する。態勢を立て直して反撃することはおろか、一度崩れれば再集結さえままならない。

 第二師団の騎兵部隊は、側面の森からどっと押し寄せた軽歩兵軍団に対し、最も無防備な状態で戦うことを余儀なくされた。陣形などもない。由来、奇襲をかけようと企図(きと)している者は、奇襲を予期して待ち伏せをされた場合にはよほど狼狽(ろうばい)して、醜態をさらすものである。

 この騎兵隊はドン・ジョヴァンニの読み通り、師団長のガブリエーリ将軍が自ら率いていた。要所であるマジョルカバレーを征討軍に占拠され、戦況の早期打開を図るため、居ても立っても居られないといった心境で、この騎兵隊の指揮をとっていたのである。

 ガブリエーリ将軍としては、悲痛であった。

 かつては「逃げのガブリエーリ」とまで呼ばれ、ラマルク将軍と並ぶ宿将として知られたが、今回の戦いでは先手を取られ続けている。彼の異名は戦下手であることの揶揄(やゆ)ではなく、擬装後退や陽動戦術を得意とする名将としての評であった。

 だが彼の欠点は欲に目がくらみ、切迫した事態ではしばしば消極に過ぎる判断を選択してしまうことにある。今回は前者の欠点をトルドー侯爵夫人に刺激され、うかうかと叛乱の片棒を担ぐ羽目になった。有能なプリンセスと名将揃いの軍に、小才覚しか利かぬ第二王女や侯爵夫人ごときが勝てるわけはないが、レガリア帝国の支援があるという脅し文句と、全軍の大将軍という地位を約束されたことで目が(くも)った。

 そして彼の派兵した暗殺部隊がプリンセスを討ち漏らしたところから、いよいよ雲行きが怪しい。まずはプリンセスが征討軍を組織して、カスティーリャ要塞へ向かうと報じられたので、彼は要塞の門を固く閉じて待ち受ける姿勢をとった。当初、各地方で決起し、それぞれが連携して掎角(きかく)の勢をとり、一方が攻められれば他方が進出して征討軍の背後を脅かすことを続ければ、征討軍を奔命に疲れさせ、勝利しうるとの見込みだった。だが征討軍が北上してカスティーリャ要塞を目指したのは陽動作戦で、慌てて軍を率い南下したものの、天然の要害であるマジョルカバレーを先取されている。

 焦慮のなかで彼が次にとったのは、マジョルカバレーを騎兵集団でもって大きく西側に迂回し、長駆して国都アルジャントゥイユとレユニオンパレスを陥落させる方策であった。征討軍がトルドー侯爵やカロリーナ王女の討伐を優先して動いているとすれば、その動きは当然、迅速を極めているであろう。とすれば、第二師団としてはマジョルカバレーの陽動部隊ごときに日数を費やしているわけにはいかない。逆にこちらが早々に国都と宮殿を奪ってしまえば、充分に今後の展開に期待できるのである。

 気ばかりが(はや)って、無理な急行軍を重ねてきたところに、薄暮の奇襲であった。

 この奇襲攻撃で、ドン・ジョヴァンニは兵よりも馬を優先して攻撃するよう指令していた。一つは、機動力のある騎兵は、逃げられると戦力を保持したまま再集結する危険性があることと、いま一つはプリンセスからの指示であった。戦う相手はすべて同じ教国の兵であり、むやみに殺してはならないと。

 そのため、長槍で馬の胴を貫き、落馬した兵に大網をかけて街道脇の畑に突き転ばしておいた。網をかけて敵を捕えるのは、彼が海賊稼業をやっていた頃の知恵である。殺すより手間はかかるが、楽に捕縛(ほばく)できる。

 統制の取りにくい夕暮れ時の襲撃で、敵の数も分からず、次々に味方が倒れてゆくなかで、ガブリエーリ将軍は必死に声を張り上げて統率力を発揮しようとした。

 そこへやにわに、巨大な片刃の大斧で薙ぎ払ってきた騎乗の者がある。ガブリエーリは馬上、間一髪で身を縮めかわした。反応できずにいたら、彼の首は胴体から切り離され彼方へすっ飛んでいたことであろう。

 大斧は無言のまま、横薙ぎから即座に空中で回転し、真っ向から叩き割るようにしてガブリエーリ将軍の側頭部へと殺到したが、これもわずかに回避された。

 ガブリエーリは巧みな馬さばきで距離をとって、この恐るべき敵将に対した。

「貴様、パミエの虎か」

「そうだ。この裏切り者の奸賊、俺の大斧を受けてみろ!」

 それからは、コクトー千人長の猪のような突進から逃げ回るばかりである。コクトーの斧はその大きさと重さから、殺人用の兵器としては最大級の破壊力を有していて、これをまともに食らえば、重武装した騎兵を真っ二つにしてその馬までも即死させると言われていた。

 ガブリエーリ将軍は、背後で風を切り(うな)る大斧の殺気を感じながら、泡を食って街道を逆走した。彼の乗馬も、長い遠征と連日の急行軍で疲労困憊(こんぱい)であったが、ただならぬ殺意におののいているのか、脱兎のごとく逃げ出した。

「逃げ足ばかり早い臆病者。逃げのガブリエーリとはそういう意味か」

 嘲弄されながらも、ガブリエーリはひたすらに逃げた。逃げる道中、彼は激しい屈辱と復讐心のなかで、あることをひらめいた。

 (亡命しよう)

 幸い、彼の有するカスティーリャ要塞は北のレガリア帝国に接している。要塞をそっくり帝国にくれてやるという条件で、地位や財産を保障してもらい、彼自身は要塞を明け渡して帝国に逃れればよい。今回の内戦も、もともとはレガリア帝国の叛乱軍への支援があればこそではないか。表立って派兵などはしていないが、彼にとって帝国は潜在的に味方なのである。国境線上にある要塞を無傷で手に入れられるのだから、領土拡大に野心のある帝国側としてもこれほど魅力的な話はあるまい。

 コクトーの追撃を単騎で振り切ったガブリエーリは、やがて三人、五人とばらばらと追いつく味方をかき集めながら、途中で山賊の敗残兵狩りに()いつつ辛くもやり過ごし、マジョルカバレー北側出入り口付近に待機させてあった本軍へと帰着した。

 彼はここで一晩を泥のように眠り、翌朝、陣を引き払ってカスティーリャ要塞へと向かった。

 マジョルカバレーと迂回作戦の失敗で甚大な損害を被ったものの、彼の手持ちの兵力は要塞に残した留守部隊を合すれば6,000以上。堂々たる大軍団である。要塞で征討軍の攻勢を受け止めるうちに、レガリア帝国との交渉をまとめれば、彼は安泰である。祖国を売る罪悪感はあったが、保身のことを思えばこの際、背に腹はかえられない。

 7月21日、第二師団はその本拠地であるカスティーリャ要塞へと帰還した。この時点で、カロリーナ王女もトルドー侯爵夫妻もプリンセスに対して屈服していることが急報されていたが、ガブリエーリにとってはもはやどうでもよい。彼はこの情報を自分の腹心数人までにとどめて、師団の動揺を防いだ。

 が、情報はいずれ漏れ伝わる。

 (とにかく要塞に入ってしまえばこちらのものだ)

 軍を率いて要塞に近づき、開門を求めた。華やかさもぬくもりも一切感じられないが、血腥(ちなまぐさ)い戦いを終えたあとで帰る軍事拠点は、軍人にとっては我が家のようなものである。

 やがて要塞の城楼に、第二師団の千人長ルーカス・レイナートが現れた。北のレガリア帝国からの亡命者で、頭は切れるが協調性に乏しい難物として知られている。特にガブリエーリ師団長とは、冷戦と言っていい間柄であった。とはいえ、上官の側としてはこの男を、並み居る部下の一人としてしか考えていない。

「師団長、よく戻られた。ご出発の折は、王宮を攻め落とすと息巻いておられたように記憶しているが」

「レイナートか、ゆえあって撤退したのだ。まずは早々に門扉(もんぴ)を開けたまえ」

「この門は開けぬ」

「なに、何を言っているか。冗談もほどほどにせよ!」

「プリンセスからの勅令が届いたのだ。謀叛の首謀者、カロリーナ王女とトルドー侯爵夫妻ははや降伏した。内戦は終わり、このカスティーリャ要塞を除いて、今や教国全土がプリンセスになびいている。要塞の兵はプリンセスの勅令を奉じて王旗のもとへ帰るようにと。我ら要塞の将兵は総意によって、プリンセスに従うことを決めた。第二師団は、みなしごとなったのだ!」

 レイナートの声が響くと、野外にある第二師団にどよめきが起こった。ガブリエーリ将軍も、面相を真っ赤にして叫んだことは言うまでもない。

「貴様、この恥知らずの裏切り者!今に要塞を揉み潰し、捕らえた将兵は全員、耳と鼻を()いで国都に送ってやるぞ!」

「裏切り者は将軍ではないか。小利に目がくらんで大義を忘れ、無用の乱を起こしたことは周知の事実である。この要塞も、将軍に預けられた将兵も、将軍の(わたくし)すべきものではなく、すべて(おおやけ)のものである」

 レイナート千人長はさらに、野外にあって動揺する第二師団の将兵に訴えかけた。

「第二師団の諸君、聞くがよい。ガブリエーリ将軍は叛逆軍の犬であり、国を損なう売国奴である。プリンセスはすでに叛逆者に勝利され、国家の再統合を志しておられる。心ある将兵は武器を捨て、しかるのち軍列に復帰せよ。プリンセスは諸君を罰せぬことを確約されておられる。いたずらに政府の公敵となっては、教国に身の置き所はないと思え!」

 ガブリエーリ将軍は自分の周囲の空気が一変したことを鋭敏に感じ取った。もはや彼の指揮に従う兵の一人も残っていなかった。重苦しい沈黙が続き、そしてどこからか槍が伸びてきたのを夢中で払いのけて、彼はただ一騎で脱走した。

 逐電したのである。

 ガブリエーリの名は、落ちぶれた叛徒の烙印を押されたまま、永久に歴史の表舞台から消えることとなった。

 彼の行方を、プリンセスも()いて追わなかった。皮肉なことだが、彼女にとってはその未来にわたって、脅威になるような男でもなかったのである。捕らえられ裁きにかけられるより、屈辱と汚名に満たされた長すぎる余生を逃亡者として送り()ち果ててゆく方が、はるかに悲惨であることは間違いないであろう。

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