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ミネルヴァ大陸戦記  作者: 一条 千種
第30章 龍虎雌伏せし
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第30章-① 聖王の凱旋

 ノルン共和国の歴史は、ミネルヴァ暦1398年5月6日より始まっている。

 この前日、ノインキルヘン会談の終了とともに共和国の建国とその国家体制の概要が発表され、ロンバルディア教国並びにオクシアナ合衆国もその成立を承認するむね声明が出された。同時に三ヶ国間には軍事同盟が締結されている。

 もっとも、会談で決まっていないことも多い。例えば軍の体制についてで、これは共和国政府が独自に判断して決定するのではなく、実際には教国のクイーン・エスメラルダの意向が強く反映されている。

 具体的には、まず旧帝国軍最後の国防軍最高司令部総長を代理として務めていたヒンケル大将を更迭(こうてつ)し、教国軍の将でこの国からの亡命者でもあるレイナートをこの職に()えた。

 この人事には、合衆国大統領ブラッドリーも愕然とするあまり、卒倒して車椅子から転げ落ちたという。レイナートは旧帝国からの亡命後、教国軍に志願し、クイーンの即位後は師団長として多くの戦場で活躍した名将である。彼を帝国軍の最上級武官として共和国に送り返すこととなれば、それはいわば教国の息のかかった者であり、共和国軍は実質的に教国軍に吸収されたも同然とさえ言えるであろう。

 クイーンの辛辣(しんらつ)かつ巧妙な打ち手と言える。

 共和国軍の人事については、教国にとって重大な利害がある。軍の高官にヘルムスの恩を受けた者が残っているようだと、のちのち軍閥(ぐんばつ)化して、最悪、再び教国に敵対するようなことになりかねない。教国にとっては、口出ししておきたいところである。

 そこで、軍のトップにレイナートを置く案が浮上した。教国にとって信用でき、巨大な組織を管理し統御するだけの能力と人格に恵まれ、政治面や軍事面における洞察力や大局観を持ち、そして共和国人と教国人、双方との人脈もある。そうした観点で、レイナートはまさに適任と言えた。

 ノインキルヘン会談の会談直後、クイーンはレイナートを呼び、共和国軍の最高司令官職についての打診を行った。

「レイナート将軍、あなたにしか、この職をお任せすることはできません」

 そうまで言われたレイナートに、否やのあろうはずもない。光栄であり、望外の喜びであった。ヘルムス政権による支配体制を打倒すべく、亡命者として国外へと逃れ、教国の将軍として戦い、今や生まれ変わった共和国軍を統括する身として舞い戻る。彼にとってはこれ以上の成功、そして名誉はないであろう。

 ただ、レイナートは別に感激する様子もなく、いつものように淡々と、それでも礼を尽くして謝辞を述べた。

 共和国政府としても、クイーンの肝煎(きもい)りということであれば拒否はできないし、いずれにせよ教国の属国になったような気分でいるから、この人事を決定事項として受け取った。それに、レイナートであればもとは同じ共和国の人間であるから、心理的な抵抗も少ない。

 レイナートは着任して早々、軍組織の再編と人事に着手した。

 彼は当座の目標として、旧帝国軍における四個軍規模の部隊を設置し、半分を国内の防衛に、残る半分を教国軍に随伴する国外派遣用の部隊として運用することとした。前者にはワッセン、ベッカーという旧帝国軍で勇名を知られた若い少将を中将に昇進させて軍司令官とした。国外派遣軍の司令官には旧帝国軍の実戦指揮官であったリヒテンシュタイン、ツヴァイクを任命している。

 国内防衛の点では早期に他国から侵略される可能性はきわめて低いものの、教国軍や合衆国軍と歩調を合わせるためにも国外派遣軍の整備は早急に進めなければならない。司令官には経験豊富な二将を置くことで問題ないが、逃げ散った旧帝国兵に呼び掛けて帰参を促し、組織づくりをした上で、必要な装備を配布し、訓練を施す。どれほど急いでも、半年から一年はかかるであろう。

 また国防軍最高司令部の次長としてミュラー中将、兵站(へいたん)部長としてウェーバー少将をそれぞれ抜擢(ばってき)し、自らの片腕として動かせるように取り計らっている。

 そして、教国軍の帝国領攻略作戦に多大な功を示したユンカースは国防軍最高司令部の作戦参謀、同じくローゼンハイムは国防軍最高司令部総長の、つまりはレイナートの副官として復帰することとなった。

 レイナートは前線指揮官として、特に帝国軍との戦いにおいて数多くの武勲を獲得しているが、軍官僚としてもその能力の高さを証明することとなった。彼の統率のもと、諸将は山積する課題に向き合い、最善の施策を検討しては意欲的に取り組んだ。

 クイーンはこうした新生ノルン共和国の前向きな再建の動きを確認して大いに安堵(あんど)し、8月26日に首都ヴェルダンディを発し、9月23日には帝国領に一時的に残留させた第三師団および突撃旅団を除く全軍で国都アルジャントゥイユへと帰還した。

「クイーン、ご無事のご帰還、そして帝国領を見事に平定なされ、臣下一同、祝着(しゅうちゃく)至極(しごく)に存じます」

「長きにわたるご親征、御身(おんみ)を案じておりましたが、大事なくご帰還なされ、臣下ともども、めでたくおぼえます。まずはごゆっくり、お休みください」

 枢密院議長フェレイラ子爵、同副議長兼神官長ロマン女史の出迎えと、国都の民衆たちの鳴りやまぬ歓呼のなかで王宮レユニオンパレスに帰着したクイーンは、遠征に従事した軍とともに存分に休養をとり、疲れがとれてのちようやく国務に復した。

 クイーンの会議のやり方はすべて、意思決定に関わる人々との情報共有から始まる。

 数日、情報の収集と整理を行い、やがて重要な政治的決定の数々を打ち出していった。遠征軍将兵に対する論功行賞、遠征の実施に伴い疲弊した財政の再建、消費した物資や軍備の回復、経済の立て直し、軍組織の改編、同盟のンゼレコレ地方に盤踞(ばんきょ)するラフィークとの外交方針、共和国からの租借地である旧コーンウォリス公国領の統治方針、戦没将兵の遺族への手当て、増え続ける難民対策。

 ありとあらゆる政務が、この偉大な女王の決裁を待っている。彼女は休みなくそれらに対処しつつ、合間にまったく別の次元のことについてもその思考力を傾けざるをえなかった。

 ある朝、愛馬のアミスタに(またが)り、馬場でエミリアとともに乗馬をたしなみながら、クイーンはその件について懸念を口にした。

「エミリア、サミュエルさんのこと、どう思う?」

「クイーンはずっと、ミコト殿から聞いた話を気にかけていらっしゃいます」

「えぇ、そう。このまま放置しておいていいものかどうか」

「放置すれば、サミュエルは旅を続けることを断念し、スミンの脅威は野放しになるかもしれない」

「そういうことよ。私たちに今できることはないかしら」

 クイーンはそう言うと、アミスタに鞭をくれ、全力の走りを見せた。エミリアも同様に乗馬を走らせたが、追いつけない。アミスタが王国から贈られたのはクイーンが15歳の頃で、軍馬としてはもはや壮年期を過ぎているはずだが、アミスタは少なくともエミリアが知る馬のなかでは最も速く、持久力も群を抜いている。人馬とも汗に濡れながら、ようやく馬場の端で待つクイーンとその愛馬のもとへたどり着く。

「我々の手元から、ミコト殿に代えて信頼に足る者を送り、改めてサミュエルを助けますか」

「私もそれは考えた。でも、難しい気がしてる」

「我々と直接かつ公に関わりのある者をサミュエルにつければ、我が国が彼を支援していることになってしまう、と?」

「そう。私たちが術者を味方につけて、その力を使おうとしている、と判断されれば、場合によっては大陸中を敵に回してしまうことになるかもしれない」

 このあたり、サミュエルに関する対応には慎重を期する必要がある。

 一方、ミコトは王宮に戻り、妹のミスズとも再会して、平穏な暮らしを取り戻している。帰国してからの3日間ほどは、ほとんどを眠って過ごした。1年弱にもわたる長旅は、彼女に相当の肉体的・精神的疲労を()いたようであった。無理もない。命の危険を感じたことさえ一度や二度ではなく、特にアマギの里の忍びや秘密警察には手酷い目に()った。少なくともこの大陸で最も安全と言えるであろう王宮レユニオンパレスに帰って、彼女はようやく羽根を伸ばし、緊張の糸を解きほぐすことができた気がする。

 ミスズは姉が不在にしているあいだ、驚くほどに成長していた。姉との再会に喜ぶ姿を見ても、外見は少女の幼さがすっかり消え、目元には姉であるミコトさえはっとするほどの爽やかな色気がある。人間性も、大人としてのたくましさを得たと表現すればよいのか、元来の臆病で内気な性格が嘘のように、明るく闊達(かったつ)に変わっている。ミコト、アオバという頼れる者がいなくなったことで、自立を要求される環境になったこともあるだろうが、何より彼女に変化を()いたのが、神殿騎士のニコロ・ミラーリアという男の存在である。ミスズは彼に好意を持っているらしい。

 クイーンによる帝国領への親征の際、王宮を守る近衛兵団の多くは本営の要員として外征に参加した。そのため第一次遠征のときと同じく、王宮レユニオンパレスは教国各地から神殿騎士団の兵力が召集されて、臨時の警備任務が与えられた。ミラーリアもそうした神殿騎士の一員で、ミスズによれば生真面目で不器用だが、それだけに少年のように純粋で優しいところがあるらしい。

 彼のことが好きだ、とミスズははっきりとは言わなかったが、彼女よりも多少、女としての経験の豊かなミコトには容易にそうした心の動きが察せられる。ミスズももう21歳だ。彼女にとって魅力ある男性が目に映れば、恋もするであろう。

 ミスズの保護者たるを自覚するミコトは、心配するよりもむしろ安心した。王国が逆賊の手に落ち、山河も人心も荒廃しきっているなか、彼女は祖国に帰って暮らすことを半ば以上、あきらめている。ましてミスズは、すでに夫を亡くしたミコトと違い、この希望と可能性に満ちた新しい祖国で、いかようにも未来を切り開ける身だ。信頼に足る教国の青年と縁づいたら、この地に根を下ろすのもいいだろう。

 ところで、ミスズにはひとつ、不安があるらしい。

 クイーンが近衛兵団とともに帰還した。そうなると、王宮の警備のために集められていた神殿騎士たちは、用済みとして本来の任地に戻されるのではないか、ということである。ミラーリアの所属はアポロニア半島西岸のオルビア地方にあるオルビア神殿である。国都アルジャントゥイユからは女の足でも片道7日間、といった程度で、さほど遠くはないが、これまで毎日のように想い人の顔を見ることができていた身からすれば、地の果てのように遠く感じられる。

 かわいい妹だ、とミコトは話を聞いていて思わず微笑がこぼれた。

「要するに、そのミラーリアさんと引き離されるのがつらいんでしょ?」

「あ、姉上、誤解しないでください!」

「隠さなくたっていいじゃない。私からクイーンにご相談してみましょうか。それか、エミリアさんにでも」

「まさか、こんなことでお忙しい女王陛下やその側近の方をわずらわせるなんて」

「クイーンはこういう話がお好きな方よ。それに、エミリアさんも見た目は厳しいけど、お優しい方だから、頼めばきっと仲立ちをしてくれる。もちろん、ミスズの望むようにするけど」

 ミスズはわかりやすく頬を赤く染めて、もじもじしている。なるほど性格は変わったが、さすがに自分の恋心をおおっぴらにするには抵抗感が強いらしい。

 ミコトは妹の羞恥心(しゅうちしん)をもどかしく思ったが、今はそれさえもがうれしくいとおしい。ともかくも、このような話ができるほどに、平和で穏やかな暮らしを送ることができるのだ。つい先日まで、縁もゆかりもない異国の地で、命を奪われる危険と隣り合わせに生きてきたのと比べると、ここはまるで別天地のようである。

 結局、ミスズは決断を欠き、この件で影響力のある人物に相談することは見送られた。数日もせぬうちに王宮の神殿騎士は解散になるであろうと思っていたが、意外にも彼らは残り続けた。

 それとなく、旗本のクレアに尋ねてみると、人事や編成の都合で、神殿騎士の扱いも保留になっているらしい。

 やがて、教国軍の人事に関する公式発表が出された。

 共和国軍の総帥の座に就いたレイナート将軍は当然ながら教国第三師団長の職から外れ、それまで神殿騎士団長であったジョシュア・ランベール将軍が、代わって第三師団を率いることになる。神殿騎士団は規模を半分程度にまで縮小することとなり、余剰人員はそのまま第三師団に転籍となる。

 ミラーリアも第三師団の十人長として転属となることを、ミスズは彼自身の口から聞いて知ることとなった。

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