第29章-⑤ 決別
(ようやく、マシューの居場所が分かった)
意気揚々と宿へと戻ったミコトは、瞬間、息が止まるほどの衝撃を受けた。顔がかっと熱くなり、唇が震えた。
彼女には、サミュエルとアリサが抱き合って口づけを交わし、愛し合っている姿を見せつけられたような気がした。
ミコトにはそれが、もはや我慢がならない。自分が必死に人探しをしているあいだに、二人がよろしくやっていて、しかもその姿にあてられるなど、これほど愚かしい話はないだろう。
彼女はそのままずかずかと部屋へ入り、慌てた様子で体を離す二人を無視して、自分の荷物をまとめ始めた。
サミュエルはすぐに、彼女の感情と意図を察した。
「ミコトさん、待ってください」
「話しかけないでもらえますか」
「誤解なんです、これは」
「分かっています。どうせアリサさんが誘ったのでしょう。でも、サミュエルさんはされるがままだった」
「それは……」
「私、サミュエルさんには愛想が尽きました」
ミコトはかつて、人にこのようなことを言ったことがない。サミュエルも、言われたのは初めてであった。
絶句するサミュエルに、ミコトはさらに冷たい口調で、
「アオバとミョウコウ、サギリは、連れていきます。サミュエルさんはアリサさんと一緒になればいいと思います。旅を続けるもよし、続けぬもよし。お好きにどうぞ」
それから、と思い出したように続ける。
「マットという人が、30年ほど前にこの街の南郊に移住してきて、トウモロコシ農場を営んでいるそうです。マシューのことをマットと呼ぶことがあるそうですから、その人かもしれません」
ミコトはそのまま、荷物を背負って部屋を出た。サミュエルは追おうとした。しかし、できない。アリサがまたしても、彼の手首をつかんで離さなかったからである。
宿の急な階段を駆け下りて、ミコトはサミュエルが追いかけてこないことにさらに腹を立てつつ、アオバ、ミョウコウと合流すべく小走りで歩き始めた。サミュエルとはもう、会うこともないであろう。
一方、サミュエルは彼が落ち込んだときによくやるように、部屋の隅で膝を抱いて、自分の世界に閉じこもっているだけである。
夕方、アオバとミョウコウがミコトから事情を聞いたのであろう、部屋に戻ったが、挨拶もなく黙々と荷物を整理するだけである。
無言でいるサミュエルに代わって、やむなくアリサが尋ねた。
「どちらへ行かれるのですか」
アオバも、二人には多少、思うところがあるらしい。いつになく無愛想に答えた。
「私たちが帰ることのできる場所は、この大陸では教国しかありません」
それだけを言い残して、二人も去った。
サミュエルは、ずっと黙っている。彼はあまりに、他者に対しても状況に対しても受動的であり、主体性がなかった。今も、ミコトやアオバたちが去っていくのに、彼女たちをつなぎ止めるために何もしようとしない。まだしも子どものように、自分を置いていかないよう泣き叫ぶ方が、彼自身のためになるというものだが。そして、彼の旅の成功は、すなわち世界を救うことになるにもかかわらず、である。
夜、アリサは空腹を訴えて、彼にもともに食事をとるように勧めた。しかし、彼は顔を自分の膝のなかに埋めて、顔を上げようともしなかった。
アリサは酸味の強いライ麦パンを一つだけ口に入れて、飢餓感を凌いだ。小麦のパンと比べると、ライ麦でつくられたそれは味も食感も悪い。
翌朝になってから、二人はベニントンの南郊に向かい、マットの行方を求めた。
昼、ようやくマットの農場に着いた。ちょうど農作業の休憩をしている数人の男どもがいる。
「こんにちは、こちらにマットさんはいらっしゃいますか」
「なんだ、お嬢さん、俺たちに遊んでほしいのかい?」
「俺たちは高いんだぜ、覚悟しときなよ」
下卑た複数の笑い声が上がり、アリサは閉口した。極寒の田舎集落しか知らないアリサは、こうした連中が本能的に怖い。サミュエルが代わって進み出る。
「マットさんにお会いしたいんです。どちらにいらっしゃいますか?」
「なんだ、盲が何の用だい」
「それは……」
言えるはずもない。二人してもじもじしていると、その様子がいかにも哀れに思われたのか、男どものなかで最も年かさの男が、案内に出た。
連れていかれたのは、農場のはずれの小さな小屋である。畜糞のすさまじいにおいが漏れ入ってくるこの狭い空間で、老人が天井を見上げ横たわっていた。
「俺の親父のマットだ。話しかけてみな」
男に促され、サミュエルが声をかける。
「マットさん、私はサミュエルといいます」
「誰……?」
「サミュエルです。あなたのお姉様の、ヴァイオレットさんのことを聞きたいんです」
「ヴァイオレット……?」
マットは、年は60か、70か、そこらであろう。サミュエルの言葉への反応もひどく鈍く、質問の意図を理解できているのかも疑わしい。いくら疎遠になろうと、自分の姉の名を忘れるはずもないのだが。
マットの息子だという男が、小屋の木戸に寄りかかり腕組みしながら、口を出した。
「親父も耄碌しちまってな。ほとんどしゃべれねぇんだ。たまに正気に戻ることがあるんだが、それも最近じゃめったになくなっちまった。もしどうしても聞きたいことがあるんなら、気長に付き合ってやってくれや」
「あの」
「なんだ」
「あなたは、ヴァイオレットさんのことで、何かご存じではないですか?」
「俺はガキの頃に一度会ったことがあるぐれぇだ。あんたらの方が詳しいんじゃねぇか?」
それだけ言うと、男は出ていった。
サミュエルとアリサは、ようやく見つけたこの手がかりの糸が思ったよりよほど細いことに気づいて思わず失望の沈黙を共有したが、黙っていても事態が好転するわけではない。さしあたり、あの男が言ったように、マットが正気に戻るタイミングを待って、有益な情報が聞き出せることを期待するしかない。
しかし、この日はついに会話のなかで糸口を見出すことができなかった。
日が暮れてから宿に戻ると、アリサはまたしても例の件を蒸し返した。自分を導き、自分と愛し合えば、力は容易に手に入る、とそう言うのである。
「近道だ」
と、そうも言った。術者レティの力を受け継ぐこと自体は無駄ではないだろうが、術者同士の交わりを通じて思念を高めた方が効率も効果もよほどよい。
一理ある。
だが大きな問題があった。サミュエルは、アリサのことを愛してはいない。アリサが祖父ミハイルから聞いた話では、術者同士は互いに愛し合うからこそ、その情念が術者としての思念を高めることにつながるらしいが、愛がなければそれは単なる肉欲でしかない。アリサを術者に導いたとして、サミュエルが彼女を愛していないなら、無為であり、徒労であり、不幸な術者を世に一人生み出すだけのことではないか。
サミュエルは、口に出しては別の理由を述べて、彼女の提案を拒否した。
「アリサさん、術者になるというのはとても大変なことです。人並外れた力を持つということは、必ずその当人を苦しめることにもつながります。それに、アリサさんは術者の血を引くとは言え、何代にもわたって術者を出してはいません。たとえ術者の血統でも、術者になるには途方もない意志や信念の強さが必要になります。気が進まないし、レティさんの力を継承すれば、それで充分かもしれません。いずれにしても今は」
と言うと、アリサは納得したのかしていないのか、ひとまずは頷いた。
「明日もまた、マットさんのところへ行ってみましょう」
話を締めくくって、サミュエルは弁当代わりにしていたライ麦生地のアップルパイにかじりついた。アリサのことは嫌いではないが、一緒にいると気を遣う。
心中で、ひそかにミコトの存在を思った。姉のように、ずっと彼の面倒を見て、ときに彼を励まし、彼の向かうべき先を示し続けてくれていたミコトがいなくて、自分はこの先、旅を続けられるのだろうか。
寂しさと心細さ、喪失感、そして前途に広がる闇の深さを思い、彼の心は寒々しさに打ち震えた。




