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ミネルヴァ大陸戦記  作者: 一条 千種
第29章 別離のとき
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第29章-② 揺らぎ揺らぎ続け

 (産まれた子は、僕とスミンの……)

 ローズデールの港町は活気にあふれている。日中、宿の一室でじっとしていると、外から様々な音が部屋の隙間から侵入してくる。馬車の走行音、金槌(かなづち)で釘を叩く音、木を切る音、船の出入港の警笛、そしてそれらと混ざって、雑多な人々が発するがやがやとした声。

 それらを耳の奥に取り込みながら、ただ、サミュエルの脳内では処理されず、右から左へと流れてしまっているようでもある。何かを考えているようで、考えられてはいない。

「旅をやめる」

 と言ったのは、嘘ではない。少なくともその瞬間、彼は本気で旅をやめたいと思った。旅を続ければ、やがてはスミンとの対決という事態を招く。それこそが、この旅の目的だからである。彼は単に教国から逃げ出したのではない。光の術者として、この戦乱の元凶ともいえる闇の術者スミンを討つ、そのためにこそ、ここまで苦しい旅路を乗り越えてきた。

 だが、スミンとは何者か。今や、彼の子を産み、母親として子らを育てている。彼は、自分の子の、母親を殺そうとしている。

 これはおぞましいことであった。顔も見ぬ我が子に対して、彼は情愛を持ってはいない。むしろ気味が悪いくらいだ。スミンは彼の男性としての器だけを用い、そこから子種を吸い取って、新たな生き物を芽吹(めぶ)かせた。しかし、彼の子は子である。その母親を、自分は殺すのか。

 それを思うと、とても旅を続ける気にはなれなかった。

 (旅をやめて、これからどうする)

 その答えさえ、彼は用意していなかった。考えようとしても、頭が働かない。

 ほとんど、虚脱状態に近い。

 さて、ここで彼にとって不思議な存在がある。アリサである。

 ミコトらが出ていったあと、アリサは身動きもせず、息さえも殺して、じっとサミュエルのことを見つめている気配であった。先ほどは、サミュエルのことが好きだの、あるいは人生をともにしたいだのと言っていた。

 不思議で仕方がない。

「あの」

「はい」

 サミュエルが声をかけてくれるのを待っていたのであろう、素直な反応が返ってきた。

「どうして、僕と一緒に行くと言ったんですか」

「サミュエルさんのことが好きだからです」

「好き……」

「サミュエルさんが旅を続けるなら、私もどこまでもついていきます。旅をやめるなら、私と一緒に暮らしましょう」

「僕の、どこが好きなんですか?」

「理由はないです。ただ、無性(むしょう)にいとおしいだけ」

 そのようなことを言われたことのないサミュエルは、戸惑うほかなかった。

「旅を続けたくないなら、私はそれでも構いません。俗世から離れて、静かに慎ましく暮らしましょう」

 俗世から離れ、静かに慎ましく。

 それはまさに、彼がクイーンと出会う前、姉と二人でずっとそのように暮らしてきた、術者としての姿だ。術者は、世俗に染まらず、脈々と血を受け継いでいく。それだけでいい。

 彼はふと、往時を思い起こした。彼の場合、思い出とは映像ではない。音であり、声であり、においであり、感触や、温度や、空気の流れであった。最も印象深いのが、姉であり、クイーンであり、そしてミコトであった。彼に大きな影響を与えた人たちが、脳裏をぐるぐると駆けめぐる。

 駆けめぐるうち、彼は居ても立っても居られなくなった。杖を手に、宿を出る。

 後ろから、アリサが追いかけてくる。

 気配を訪ね歩き、やがて求める人に行き着いた。

「ミコトさん」

「サミュエルさん?」

 ミコトはちょうど、長い旅路に備えて食料の調達をしているところであった。アオバとサギリもいる。

「どうしたのです、わざわざ」

「僕、旅を続けます」

 人目を避けるように、ミコトはサミュエルを人通りの少ない路地へと導いた。

「本気ですか、サミュエルさん。あなたの考える通り、スミンが産んだ子は十中八九、あなたの子ですよ」

「覚悟を決めました、もう迷いません。僕の姉は、決して術を使ってはならないという(おきて)に従い、その掟のために亡くなりました。スミンに操られ、人形にされて暗殺者になった僕を、女王様は憎むどころか、助けてくれた。それにミコトさんが、ずっとそばにいて、旅を続ける勇気をくれた。あとは、僕がスミンを倒すという決意を固めるだけです。僕はもう迷いません」

「本当に、迷いませんか?」

「はい、約束します」

「信じますよ、その言葉」

 ミコトはサミュエルやアリサの分も準備を済ませ、ミョウコウとも合流して、翌朝にはこの地を発して、アンティータムを目指すこととした。アンティータムは術者レティが生まれた町で、彼女が最後に(のこ)した氷晶を探し求めるべく、その手掛かりとなりうる地である。

 位置関係としては、ローズデールから南へ南へと下った先にある。

「明日の朝、みんなで一緒に()ちましょう」

 ミコトのいたわり深い声に、サミュエルは素直に(うなず)いた。

 ミコトはサミュエルの言葉を信じると言い、わだかまりを解いて微笑を浮かべたが、実のところ、完全に信じきったわけではない。すでに半年以上、この盲目の青年とぴったりくっついて旅をしてきて、彼女なりにサミュエルという人物を理解しているつもりである。

 彼は、それこそ天地を(くつがえ)しかねないほどの、人智を超えた力を持ちながら、その人格はきわめて繊細で、物事に感じやすい。戦いどころか、争いごとは特に苦手である。そうした性質の持ち主が、今後も意志が揺らぐことはないとどうして断言できるだろう。人間という器に収まった性格というものは、確固たる決意をしたからといって、そっくり性格までが変わるわけではない。サミュエルは今後も、揺らぎ揺らぎながら、旅を続けることになるであろう。

 ミコトはそう思っている。そして願わくは、揺らぎつつも、最後は今の彼の決意を遂げてほしいと思っている。彼女が、サミュエルとともに旅を続ける所以(ゆえん)である。

 ひとつ、ミコトは気にかかっている。アリサのことだ。

 彼女はサミュエルのことが好きで、旅をやめるなら自分は彼と二人で暮らす、などと言い始めた。サミュエルが旅の続行を決めても、彼女はサミュエルのそばを離れない。サミュエルの決断がどうでも、自分は彼のそばにいる、とでも言いたげである。

 今後、彼女がサミュエルに旅をやめさせる、あるいは決意を鈍らせるような動きをするのではないか。もしそうなら、アリサという少女はミコトにとって、この旅のありようをかき乱す、ややもすれば不都合な、あるいは邪魔な存在になってくるかもしれない。

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