第29章-① 望まぬ父となりて
「王国の皇妃スミンが、双子を出産した。男児の方は、青緑色の瞳を持っている」
という、その話ほど、サミュエルを絶望の底へと叩き落とした報はかつてなかった。サミュエルは明敏な若者だが、たとえそうでなくとも、スミンの子が自分の種であると推察するのは難しくなかったであろう。王国人は由来、黄色人種ばかりで、瞳は黒か、薄くても茶色である。一方、サミュエルの姉は緑系統の瞳であった。サミュエルは色という概念を、体験としては知らないが、概念そのものは知っている。スミンが、彼の子を産んだということだ。
彼はミコト、それからポリャールヌイの集落キツァで道連れに加えたアリサという少女とともに、合衆国領ローズデール港の酒場でその噂を聞いたのだが、顔から血の気が引くとともに、口が利けなくなった。
そして宿に帰ってしばらく、誰にともなく呟いた。
「僕、旅をやめます」
ミコトが、いかに絶望的な気持ちになったことか。
「サミュエルさん、スミンの噂を聞いてのことでしょうか」
「噂?」
アオバは、まだ酒場での噂のことを知らない。ミコトが簡潔に説明すると、彼女もさすがに愕然とした。
無理もないことではある。これまで、必ずしも本人が強く望んだわけではないが、スミンとの因縁、クイーンやミコトらの期待、そして光の術者としての使命、それらから逃れがたく、術者レティの力を追い求める旅を続けてきた。迷い、迷い続けながらも二度にわたってレティの遺産を受け継いだ。やがてはこの旅は、スミンの打倒、ということに当然は帰結するであろう。
だが、ここでスミンが我が子を産んだと知った。
彼の繊細すぎるほどに繊細な心が音を立てて折れてしまうのも、当然ということだ。
ミコトとアオバは、それでもサミュエルに翻意を促した。それこそ前述した旅の意味を噛んで含ませるように諄々と説き、さらにレティやミハイル老人が我が身を犠牲にしてまで、あなたが使命を遂げることを信じた、それを無にしないでほしい、とまで訴えた。
サミュエルは、ただ部屋の隅で長い両足を抱えるように座り、首を振るだけである。ついには、膝の上に額をくっつけて、顔を隠してしまった。
(ここで、ここまできて、旅をやめることになるなんて……)
失意や絶望は、連鎖するものなのかもしれない。ミコトは悲しみと無念に打ちひしがれた表情で、ばたりとそばのベッドに横たわった。これまで何度も、危険や屈辱、そして数えきれない困難を経験した。鬱蒼とした森や、寒風吹きすさぶ極北の大地を踏み越えた。仲間を傷つけられ、自らも死を覚悟し、それでも戦い、切り抜けてきた。里の忍びどもや、連邦の秘密警察から追われ、ようやく所縁なき合衆国の地までたどり着いた。まさにここまできて、これまでの旅のすべてが、水泡に帰すというのか。
サミュエル、ミコトがともに口を閉ざしてしまったことで、アオバとアリサも、気まずそうに押し黙るほかなかった。耳の聞こえないミョウコウも、異変を察したのか、静かにしている。
(これから、どうなるのか……)
恐らくこの場の全員が、心中にその思いを抱いていたであろう。まるで明かりを持たずに永遠に続く闇のなかにたたずんでいるかのような、底知れぬ不安だけがここにはある。
しばらくして、部屋を出たミコトを、アオバが追った。
「ミコト様、どうなさるのですか」
「どうもこうも、サミュエルさんが旅をやめると言う以上は」
「あきらめるのですか」
「嫌だと言っている彼を無理に引っ張って、スミンのところへ連れていくことはできない。何事も彼次第よ。往くも、往かぬも」
「なんとかできないものでしょうか」
「もちろん、私としても旅は続けたいけど……」
サミュエルさんのあの様子では、とため息とともに言うと、アオバもまぶたを伏せた。結局、旅の目的はスミンを倒すことにあったわけだが、その相手が自分の子を産んだと聞けば、誰でも意志が鈍るというものであろう。まして、サミュエルは決して意志の強い人間ではない。光の術者というが、実際のところはガラス細工のように壊れやすい心の持ち主である。
夕食にもサミュエルは手をつけなかった。
翌朝になってから、ミコトは再び、サミュエルとの対話を試みた。
「サミュエルさん、旅をやめたいというあなたの気持ちは分かりました。それで、これからどうされるおつもりですか?」
「まだ、よく分かりません。旅をやめても、僕には帰る場所はありません」
そういうことだ。彼が生まれ育った教国にはもう戻れない。彼は教国の女王を襲った逃亡者、ということに公式ではなっている。連邦や王国でも追われる身だし、かといってほかの国で彼が縁ある地もない。これから安住できる住処をどうやってつくるのか。
「私、サミュエルさんと一緒に行きます」
明快、かつ決然として言った者がある。
アリサだ。
「旅をやめても、私はサミュエルさんのそばにいたいです。一緒に住める家を探し、二人で働いて、これからの人生もともにしたいです」
この少女は藪から棒に何を言い出すのだろうか、とミコトもアオバも唖然とした。アリサは要するに、サミュエルの伴侶になりたいと言いたいらしい。
気が狂ったとしか思えない。
「アリサさん」
と、ミコトは丁寧に呼びかけつつ、年端のゆかぬ少女を諭すような口調で、
「サミュエルさんをいたわしく思う気持ちは私も同じだけど、そのようなことを簡単に言うものではないですよ」
「簡単にではなく、覚悟の上で言っています。私は、サミュエルさんが好きです」
思わず口をつぐんだミコトに、アリサが反発するように問うた。
「ミコトさんは、どうされるのですか?」
「私……?」
「私は、サミュエルさんと一緒になります。ミコトさんはこれからどうされるのですか?」
ずいぶんと強引な言い草だが、アリサの言葉をサミュエルも否定しない。ミコトは再び返答に窮した。
サミュエルが本当に旅を断念するなら、彼女がそばにいる理由はもうない。帰るとすれば、妹の待つ教国の都アルジャントゥイユということになる。帰ったとして、だが、彼女を信頼してサミュエルの身を託してくれたクイーンにどう報告すればよいのであろう。スミンが我が子を産んだと聞き、サミュエルは旅をやめると言い出した。彼を合衆国の地に置き捨て、やむなく教国へと戻ってきたと、ありのままに伝えるのか。
クイーンは残念な顔をするだろうが、彼女を責めはしまい。それどころか、姉妹ともども、王宮なり国都なりに場所を与えて厚遇してくれるだろう。あの人は、そういう人だ。
しかし。
ミコトはひどく暗鬱な気持ちになった。サミュエルが歩んできたこの旅に、どれだけの人が、どれだけの強い願いや希望を託してくれていたことであろうか。光の術者へ我が力を継承するために人生を捧げたレティ、サミュエルを擁護し彼を守るために最大限の配慮をしてくれたクイーンやエミリア、ヴァネッサ、王宮からの脱走に協力してくれたダフネら旗本たち、サミュエルらに協力したために秘密警察を敵に回したミハイル、自らの故郷であるアマギの里では、アオバも大きな犠牲を払った。ミョウコウも、里を出てからはずっと忠実にミコトらを守ってくれている。
(ばかばかしい)
むなしい、と思った。
「サミュエルさんが旅を終えられるなら、私の旅も終わります。教国では妹が私の帰りを待っているでしょうから。クイーンにも、サミュエルさんは自分の意志で旅から下りたと、そう報告します」
むなしさと、さらにその奥からむかむかと沸き起こる怒りを隠そうともせず、ミコトは冷たく言い放った。彼女にはもう、サミュエルに同情する気持ちはなかった。彼が放棄しようとしているものは、それだけ大きく、尊いのだ。
クイーン、という言葉にサミュエルも何か思うことがあるのか、わずかに顎を上げたように見えた。
が、ミコトはサミュエルを一顧だにもしない。
彼女はアオバとミョウコウに意志を問い、自分についてくることを確認すると、今日中に旅支度を済ませ、明朝には教国への帰路に就くことを決めた。
「途次で、帝国領での戦況について情報を集めながら帰りましょう。教国領まで帰ることができれば、ひとまず安全でしょうから」
「承知しました、ミコト様」
ミコト、アオバ、ミョウコウはてきぱきと動き、部屋にはサミュエルとアリサだけが残った。




