第28章-⑦ ワイルドキャット
シュリアが帰ったのは、夜明け前である。
クイーンにはシフとの一部始終を話し、会談の疲れもあるので休んでもらったが、エミリアは自室の明かりをつけたまま、ついに一睡もしなかった。
窓を、猫が爪でひっかくような音がする。
隙間をわずかに開けると、低い声が風に乗ってかすかに聞こえる。
「どうも、大変なことになりました」
「何があった」
「シフが死にましたよ」
「まさか」
エミリアに席を立たれたあと、シフは特に不審な動きもなく、そのまま合衆国代表団が滞在するホテル「ノインキルヘン」へと戻った。しばらく表裏の出入りを木の上から見ていたのだが、やがてフードをかぶった一人の人物が裏手から脱け出し、足早に去るのを目撃した。例の近衛兵であろうとこれを追いかけたが、途中で撒かれてしまった。
気になってノインキルヘンホテルに戻ると、何やら騒がしい。聞き耳を立てていると、ラリー・シフが死んだという内容で間違いがないらしい。
「何があったというのだ」
「そこまで調べるのは難しいですよ。このわずかな時間ではね。今夜、また探りますが」
「政府間でも探りを入れるか、どうするかはクイーンと相談しよう。それで、気になるのはその得体の知れぬフードの人物だが」
「えぇ、この商売をしていて、尾行を撒かれたことは数えるほどしかない。慎重で、すばしこいやつだ」
「昨夜と同じ、近衛兵の者だと思うか」
「間違いなく、ね」
「シフが死んだのと、その近衛兵は関わりがあると思うか」
「ありうるが、確証は一切ありませんね」
「ご苦労だった」
ヴァネッサに調べさせると、非番か否かを問わず、この夜にホテル「ケーニッヒシュトゥール」を出入りした者はざっと数百人はいる。非番の者は市中へ飲みに出かけたり、非番でなくとも、ホテルの周辺をグループ単位で巡邏することもある。つまり容疑者は不特定多数、ということだ。
また、昨晩のように外部から侵入しうる出入口はすべて警備を強化したため、誰にも見つからずホテル内に入ることはできないと考えていい。
(なるほど、慎重ですばしこい。しかも大胆で、それでいて面が割れることがない)
クイーンの起床後、新たに分かった事実を伝えた。相談の上、エミリアは自ら、ホテル「ノインキルヘン」へ赴いて、状況の確認を行うこととした。
シークレットサービスの臨時チーフは、ジェンキンスという壮年の大男である。これが全身に大汗を流して、応対に出た。
「こちらのホテルで騒ぎが起きているとの一報を受け、念のため、状況を伺いに参りました」
「それはご念の入ったこと。ご心配をおかけするようですが、実は警備の担当責任者が何者かに殺されたようで」
「いつです」
「昨晩、ホテルに戻ってからのようで。大統領の身に異変がなかったのは不幸中の幸いですが、どうも何が何だか」
噓を言っているようには思えない。また、嘘を嘘でないような演技ができるほど、器用な男にも思えない。さらに、シフが昨夜、エミリアと会っていたことも知らない様子である。
(合衆国政府は、シフの動向について何も関知していなかったということなのか)
よく分からない。
「立ち入ったことを聞くようですが、殺されたというのはどのように」
「背後から、アイスピックで首を刺されていました」
「なぜ、アイスピックと?」
「刺さったままだったのです」
「つまり返り血を浴びなかった。しかも背後からということは、犯人に気づかなかったか、あるいは面識があり信用している相手、ということになりますね」
「あぁ、おっしゃる通りです。いやぁ、困った、困った」
困った顔をして、ジェンキンスは再びホテルへと引っ込んでいった。
再び、クイーンに報告する。ヴァネッサとジュリエットを交えての密談の場でクイーンは、
「現時点では、合衆国政府がシフ護衛官を通して我が国を探っていること、また近衛兵団に合衆国側へ情報を流していることなど、いずれも確たる証拠はつかめていません。そのため、この件で正規の外交ルートを使い、先方に何かしらを申し立てることはできないでしょう。ただ、近衛兵団内に不穏な疑惑が存在するなら、早めに芽を摘んでおきたいところです。そちらはヴァネッサに任せるとして、我々も合衆国政府の動きを探る必要がありますね」
「では、シュリアを?」
「シュリアさんにはいずれ、同盟領の情勢を探る役目をお願いするので、この件は帰国後に諜報局にお任せしようと思います。気がかりではありますが」
「承知いたしました。まずは足元を固めなければなりませんね」
ちょうど同じ時間、太陽が東の空にその姿を見せ始めた。
廃屋に、人の気配がある。この街には、連合軍の襲来を聞きつけ、家財さえも捨てて逃げていった市民も多く、空き家や廃屋があちこちにある。
それまでの数時間、息を殺して身じろぎひとつしなかったのが、そろそろとフードを脱ぎ捨て、手早く身支度をする。
しばらく歩く。
つい先日、敵対国の軍に占領されたばかりであるというのに、実に穏やかな朝だ。占領都市では、人々が恐怖と絶望に支配され、物情騒然となるものだ。そうならないのは、教国軍と合衆国軍が協力し、民心の安定に努め、民衆の側もそうした軍の働きに安心しているからに違いない。
山猫のような特徴的な歩き方で、ゆっくりと歩く。
やがてホテルの敷地前で、警備の近衛兵に呼び止められた。
「また朝帰りか。今日は朝からクイーンの巡察がある。仮眠の時間はないぞ」
「ありがと、アグネス。内緒にしといて」
「リタ」
と、その者は呼ばれた。
「貸しにしておくからな」
そのままさらに歩き、ホテルのロビーでたむろする旗本連中に合流する。
彼女の視線の先には、エミリアやヴァネッサによって厳しく警護される、クイーンがいる。




