第28章-⑤ 会談 最終日
会談最終日の早朝。
エミリアはクイーンの起床前に、すでに着替えを終え、ホテル「ケーニッヒシュトゥール」の裏庭にその姿を現している。彼女の向かった木の根元には、何やら薄汚れた麻袋が転がっている。
人であった。
「変わった動きはあったか」
「なかなか尻尾を出しません。悪だくみをしていることを示す会話、物証などはなく。ただ一つ気になることが」
「言え」
「近衛兵団内部に、合衆国側へ情報を流している者がいるかもしれません」
エミリアは思わず麻袋の方へと視線を移した。声はするが、人間の気配はない。袋の中で丸まっている男は、人間らしい生体機能のほとんどを停止させて、喉と舌だけを震わせているのかもしれない。
「なぜ、そう思う」
「夜遅く、シフ護衛官の周辺を洗っている最中、ノインキルヘンホテルから足早に出ていく者がありまして、尾行いたしました。こういう稼業をしているなかで身につけた勘というか、においがするのです」
「それで」
「このホテルへと入っていきました。しかも正面からではなく、警備の網をかいくぐって裏庭へ回り、この木から2階に飛び移っていった」
「警備の網については、ヴァネッサに伝えておこう。それで、なぜそれが近衛兵団の者だと言える?」
「ひとつは、建物の構造、近衛兵団の警備状況などを完璧に把握していた様子であること。それから、その者がホテルに入ってから今まで、この裏口から近衛兵以外で出た者はいないこと」
「裏口だけでなく、エントランス側も含めて、このホテルには近衛兵以外は一切立ち入りを許可していない」
「まさにそこが根拠です」
「その口ぶりだと素性は分からないようだな。性別や、姿は?」
「頭から膝までフードをかぶっていたので、人相はまったく分かりません。背は、男にしては小さいが、女なら高くもなく低くもなく、というところで」
「それでは数が多すぎる。昨晩、当直ではなかった者で、背丈がその程度ということになると、100人や200人は下らないだろう」
「あとは、この木を登って、ホテルの2階に飛び移れるだけの身体能力を持つ者、ということです。それから分かるのは、そいつは両手を使っていた。つまりあなたは内通者ではない」
「面白いことを言うやつだ。もういい、部屋で休め」
「私はコウモリです。贅沢なホテルの部屋よりも、こうしてボロ布にくるまれて、土の上に転がっていた方が落ち着いて休める」
「好きにするといい」
エミリアはクイーンとの朝食の場で特別に願い出て、ヴァネッサと三人の密談を持った。
「シュリアにシフを探らせていたところ、思わぬ事態が発覚しました」
シュリアから得た情報をそのまま伝えると、ヴァネッサはすぐに顔を蒼白にし、椅子から下りて片膝をついた。
「クイーン、宸襟を悩ませ奉り、恐懼してお詫び申し上げます。すべては近衛兵団を監督する私の失態でございます」
「ヴァネッサ、そんなにかしこまって謝ることではありませんよ。まだ前後の情報がすべて判明したわけではないのですから、まずは今後について話し合いましょう」
クイーンは自らヴァネッサを抱え上げて、そのように励ました。
近衛兵に他国へ情報を流している者がいるとすれば、少なくともクイーン即位後の近衛兵団にあっては前例のない不祥事である。何より、クイーンのすぐそばに異心を持っている者がいるというのが深刻だ。裏切り者は、絶対に出してはならない組織であるのに、である。
「ひとまず、シュリアさんには合衆国代表団が滞在しているうちに調査を続けてもらいましょう」
「そのように指示しておきました」
「それではヴァネッサは、近衛兵団内の内偵を開始してください。近衛兵団であなたが最も信頼するのは誰ですか」
「副兵団長のジュリエットです」
「では、まずジュリエットにだけ状況を話し、二人で協力して調査を進めてください」
「承知しました、直ちに」
エミリアと二人きりになって、クイーンはシフの食事の誘いを受けるべきだという考えを示した。情報漏れの懸念があり、背後に合衆国政府ないしその関係者の暗躍があるとすれば、その真意など、個人的な食事の場を通して知ることができるかもしれない。
クイーンは、今度は笑ってはいなかった。
ホテル「ノイエキルヘン」へ移動し、会談の詰めを行う。
共和国の早期経済再建についての意見交換から。
「共和国は、軍事的には大きな打撃を受けたが、経済的にはさほどの影響はなかったように思います。賠償責任がなく、財政再建は健全に進むと考えられることから、両国からの経済支援は特段、必要ないと考えますがいかがですか」
「大きな認識のずれはないものと考えますが、一点、戦役中に発生した破壊や略奪などの補償は必要でしょう。作戦行動の範囲内において、例えば田畑が荒らされて収穫が減った、家屋などの建物に被害を受けた、あるいは軍によって物資を強制的に徴発された、もしくは暴行や強姦などの犯罪行為があった場合は、しかるべく対処することが、遺恨を取り払うために不可欠です。我が軍においては、帝都ヴェルダンディへの攻撃を含め、都度、民衆に対して個別の補償を実施ないし約束をしております。合衆国軍においても同様の対応をなさることがよろしいかと存じます」
その点はお約束しましょう、とブラッドリーは鷹揚に頷いてみせたが、内心では苛立っている。帝国領攻略作戦において、合衆国軍は戦場ではさほどの働きを見せなかったが、風紀が乱れ、そのために帝都ヴェルダンディでは教国軍に数倍する規模で破壊、略奪、暴行などの不正事案が発生したと報告を受けている。これは軍が組織的に行ったものではなく、単に司令部が無能で、全体の規律が緩んでいたために自然発生したものでしかないが、教国軍がこういった件に厳しく対処している一方、合衆国軍では軍法会議の手続きに時間がかかり、こうした対比の効果もあって、特に戦後になって合衆国軍の評判を下げる結果につながった。軍の評判は大統領の評判であり、責任でもある。
この席では、半ばその責任を追及されるような話の流れになったため、ブラッドリーは砂を歯で噛み砕くような不快感を味わわされている。
ブラッドリーは大統領3期目、政治家としては円熟期で、海千山千の古狸だが、今回は終始、クイーンの前に外交交渉の場で苦杯を舐め続けている。考えてみると、今回の会談を通して合衆国が得たものといえば、共和国の民主化という方向性それだけであったかもしれない。
そのほか、三ヶ国間の経済協力などに関する認識を合わせ、午後に調印となった。これまでに議論した内容を細かく確認しつつ整理し、最後に各国代表団の長がサインをする。共和国代表モルゲンシュテルン首相、教国代表がクイーン、最後に合衆国代表のブラッドリーがサインして、無事に調印となった。ここまでの会談をノインキルヘン会談、三者間で合意し締結した内容をノインキルヘン協定、さらに締結内容に基づき三ヶ国間で結ばれた同盟関係をノインキルヘン体制と呼ぶこともある。
いずれにしても、5日間にわたる濃密な外交交渉はようやく終幕した。各国の代表団メンバーはこの夜、いずれも気を失うようにしてベッドに倒れ込んだという。
ただ、まだ気が抜けない者もいる。
(さて、仕事だな)
エミリアはこのまま、ヴェルダンディ市内のレストランで、シフと食事をする予定になっている。
クイーンの命令で、エミリアの周囲にはシュリアを張り込ませ、万が一にも彼女の身に危険が及ぶようなことがあればこれを救い出す手はずになっている。無論、エミリア自身にも油断はない。腰の剣だけでなく、懐中と手首にも短剣を忍ばせている。
男性に食事に誘われたというだけで、これほど殺気立った準備をする女もないであろう。




