第27章-④ 生涯のすべてをかけて
4月27日。
夕べの雨が残る帝都ジルニッツ地区を、近衛兵団の旗本に固められたクイーンが巡察している。ジルニッツ地区は帝都の街区のなかでも最も東に位置し、シェラン川を渡るためのジルニッツ大橋があるのもこの地区である。
ジルニッツ地区は連合軍が東から帝都へと突入した位置関係から、戦火が最も及んだ地域であり、帝都全域が平穏を取り戻しても、なお焼失もしくは損壊した家屋があちこちに見受けられる。
この地区の治安維持を受け持つ教国第一師団の手配りで、焼け出された住民が橋の下や仮設テントに収容されているが、それでも被害の状況は生々しい。子どもたちは裸足で瓦礫の残る通りを駆け回り、腹を空かせては道行く人に金や食い物をねだる。
クイーンはそうした子どもたちに接しては、よく話を聞き、手ずから近衛兵団の物資を与えて、彼らが飢えぬようにした。つい先日まで敵地であった街であるから、近衛兵団も精鋭の旗本を配して厳重な警戒態勢にある。
警護隊のなかには無論だが兵団長たるヴァネッサもいる。
ジルニッツ大橋のたもとで地域住民の陳情を受け付ける即席の集会が開かれているときに、腰に差したサーベルの音を鳴らしながら彼女に近づく男があった。
「さすがに少し、疲れているようだな」
ヴァネッサが振り向くと、壮年の狼のように鋭気をたたえたアンバーの瞳を持つ若い男が立っている。母国に戻って、どこからか軍服を手に入れたらしい。セピア色の細身の軍服が長身に合って、呆れるほどにいい姿だ。胸をときめかせる女は老若問わず多いであろう。
「どう見られているのかは知らんが、疲れている暇はない」
「疲労はよくない。君の美しい顔が損なわれるのは、私にとっても本意ではない」
「私は別に美しくなどない」
これは謙遜でも卑下でもなく、ヴァネッサの本心である。彼女は鏡を見ることがあるが、自分の顔があまり好きではない。醜悪でもないが、美人と言われることもほとんどなかった。クイーンのような女神を思わせる美貌を持つわけでもないし、エミリアのように中性的な強さやしなやかさを感じさせる容姿でもない。背も低く、どちらかというと童顔で、長身のエミリアやジュリエット副兵団長と並ぶと子どものように見える。しかも護衛対象のクイーンよりも一回りは小柄だから、左腕の赤い腕章がなければ、近衛兵団の長とはとても見られない。ただ、負けん気の強さや、クイーンと任務に対する異常なまでの忠実さ、そして文字通り血のにじむ努力の連続が、彼女を兵団長職に不足があるとの声を排除している。
しかし、ユンカースが言う美しさというのは、単なる表面的な造形のことではない。彼は説明を加えた。
「私が言う美しさとは、もっと内面的なものだ。人の心に宿る志、誇り、魂。そうしたものが、君を美しい女性にしている。だが人間、無理をすればどれほど強い心でも翳りが生じることがあるだろう。だから、疲れを溜めない方がいい」
「マルティーニ兵団長が」
「ん?」
唐突にエミリアの名前が出て、ユンカースは少々、当惑した。
「近衛兵として、クイーン、当時はプリンセスの補佐役を当時の兵団長から任じられた際、言われたそうだ。この役目に一日とて休みはなく、片時もおそばを離れてはならない。プリンセスがお休みになるまでお仕えし、プリンセスがお目覚めのときには身支度を終えて帯剣していなければならない。そしてプリンセスのためならば命をも捨てよ、と」
「いい言葉だ」
「私もそう思う。だから、私も無条件でそれを実践する。デュッセルドルフでは、おろそかになっていたがな」
「そうか。ならばこれからもその教えを実践するといい。後悔のないように、納得がいくまでな」
「そのつもりだ」
二人はともに口をつぐんで、目線を住民たちと対話するクイーンへと遣った。戦場にあるときの、全軍の総帥としての緊張感漂う表情とはまったく異なる、いきいきとして、穏やかでいたわり深い様子がその横顔には見られる。
ユンカースはふと、教国の国都アルジャントゥイユで抱いた女の一人から聞いた話を思い出した。
「そういえば、君はクイーンと同じ孤児院の育ちらしいな。クイーンは、幼少時代はどのような方だった」
尋ねると、ヴァネッサは視線の先の主君への感情のためか、それとも20年前の幼馴染の姿を思い起こしたためか、何とも言えない爽やかな表情を浮かべた。
「特別なお方だった。あの方は、私が初めて会った頃から、あのままだった。本当に、奇跡のような人だ」
ヴァネッサは胸の奥にひときわ光り輝く思い出を、大切に大切に、宝物を包み紙からほどくようにして取り出し、言葉にしてつむいだ。
先々代女王在世の頃から、教国では天然痘が断続的に流行した。その蔓延には波があったが、流行期には大勢の人が死ぬため、教国各地にはその対策の一つとして孤児院が建設された。孤児院の設置目的は、天然痘関連に限らず、身寄りを亡くして路頭に迷う子どもの保護、教育、治安の維持などである。
ヴァネッサは5歳の頃、国都アルジャントゥイユのセントロ・シエーナ孤児院に収容された。彼女の母親は産後の肥立ちが悪く、生後まもなくに衰弱死しており、父親の手で育てられたが、生来の酒好きがたたり病を得てやがて死んだ。近所の者が官憲に報告し、孤児院に保護されることになったのである。
母親は顔も知らず、父親を唯一の肉親として頼りきっていた彼女はショックのあまり、当初、孤児院では人付き合いがうまくできず、なじめなかった。
6歳のとき、両親を天然痘で亡くしたという同い年の少女が新たに入院した。不慮の病で両親を同時に失ったと聞いて、ずいぶん不幸な目に遭ったものだと、ほぼ同じような境遇でありながら、幼きヴァネッサはその少女のために同情した。しかし、少女は意外にも、不幸を背負った表情というものを見せなかった。
(悲しくないのだろうか)
ヴァネッサにはそれが不思議だった。誰でも、親を亡くしたら悲しみや孤独、心細さ、頼りなさで消えてしまいたくもなるだろう。彼女も、父親が病死した際はそうだった。だが、その少女は明るく屈託のない笑顔で、孤児院の子どもたちに臆せず声をかけ、次々と交友関係を築いていった。
まったく不思議なものだ。
孤児院の神官や教師たちはそう思い、6歳のヴァネッサも、同様に感じた。
少女はヴァネッサのところへも挨拶に来た。
「私、エスメラルダっていうの。長いからエイミーって呼んでね」
ヴァネッサがぼそぼそと名乗ると、エスメラルダ少女はその名前が気に入ったらしかった。素敵な名前だ、という。美しく咲き誇る野の花のような名前だ、と。
わずか10分ほどの初対面は、陰気な性格だったヴァネッサにとって、衝撃的な体験だった。エスメラルダ少女はヴァネッサにさまざまなことを尋ね、執拗と言っていいほど、彼女について知りたがった。ヴァネッサが、聞かれるまま、砂や粘土をいじって遊ぶのが好きだと言うと、エスメラルダ少女は自分にも教えてほしい、とねだった。別にどうということはない遊びである。砂や粘土に水分を含ませて成形し、家や城をつくるのだ。子どもならだれでもできるだろう。しかしこのような一見、他愛のないやりとりが、ヴァネッサにとっては新鮮で、心弾むような経験であった。
このとき、ヴァネッサからは一つだけ質問をした。
「お母さんとお父さんが死んじゃって、悲しくないの?」
不自然なほどに明るく希望的な表情ばかり見せる少女が、ヴァネッサには子ども心ながら異様に思われたのであろう。
エスメラルダ少女はこう答えた。
「もちろん、会えないのはとってもつらいわ。でも、二人はお星さまになったんだって。いつかまた会えるのよ。それまで、ずっと私のこと見ててくれるの。だから、私はたくさん笑って、たくさん幸せになって、たくさんのお話をお星さまに持っていきたいの」
教師に呼ばれ、エスメラルダ少女が去ってから、ヴァネッサはふと涙がこぼれ、それはあとからあとから流れて止まらなかった。
人が死ぬと星になるという言説は、ヴァネッサも耳が腫れぼったくなるほどに聞いたことがある。大人はそう言って子どもを慰めるのだが、彼女は信じなかった。自分の親が星になるのなら、夜空に輝く星々のどれが親か、分かりそうなものだ。だが、彼女にはそのどれにも、父親のようなぬくもりや、声やにおいの気配も感じない。大人は子どもに幻想を見せようとする。
しかし、その幻想を無邪気に受け止め、信じ、自分がどう生きるか、その定義に組み込んでいる子どもがいる。その姿が、ヴァネッサには無性に気高く、美しく、いじらしく、はかなげで、涙があふれ息の詰まるほどに胸を打たれた。
このときから、エスメラルダ少女はヴァネッサにとって特別な存在になった。
ヴァネッサは引っ込み思案だったから、エスメラルダ少女にとっては数多くいる友人の一人に過ぎなかったことであろうが、ヴァネッサにとってはそうではない。たまに話す機会が訪れると、壊れやすいガラス細工を扱うような神聖な気持ちで、その時間をいとおしんだ。そばにいないときでさえ、エイミーは何をしているか、どんな表情をしているのか、目で追うことが多かった。
大転機は、彼女らが8歳の頃である。
当時の女王がセントロ・シエーナ孤児院を訪れ、エスメラルダ少女と出会い、養女としたのである。
つまり、教国の王女になる。
ヴァネッサがそのことを知ったあと、エスメラルダ少女が荷造りと別れの挨拶のため孤児院を訪れたのは、ただの一度きりであった。ヴァネッサは失意のあまり、満足に声をかけることができなかった。このとき、エスメラルダ少女は彼女に何事か言葉をかけてくれたはずだが、ヴァネッサは不覚にもその言葉を覚えていない。別れのときでも、エスメラルダ少女はいつもと同じ朗らかな表情であった。その表情は、不思議なほど強くまぶたの裏に焼きついている。
エスメラルダ少女には正式な冊立前とは言え、すでに王族の資格として多くの近衛兵が護衛や世話役としてついている。そのなかには、正式に近衛兵になったばかりのエミリアもいた。
教師に聞くと、近衛兵団は女王や王女に仕える精鋭で、特に旗本と呼ばれる女性のみで構成された集団は、外出時も含め、王族のそばにぴたりとついて離れず、命がけでその身を守る護衛隊なのだという。
(旗本になれば、エイミーにまた会える)
相手は一国の王女、もう会うことはできないだろうと教師たちは言ったが、ヴァネッサはこのときから近衛兵となることを志すようになった。
時が流れ、彼女は17歳で正式に近衛兵の兵卒となった。王宮の外廊下でたまたま行き合ったとき、プリンセス・エスメラルダはすぐに彼女の名前を呼んだ。およそ9年の歳月を経ても、ヴァネッサのことを忘れてはいなかったのである。
プリンセスにお仕えしその身をお守りしたい、そのために近衛兵になったと言うと、プリンセスは無邪気に喜んだ。その姿にはプリンセスとしての並々ならぬ気品が備わり、すでに少女の面影はほとんど残されてはいなかったが、明るく素直で純真な人柄はまったく変わってはいなかった。
ヴァネッサは生来、不器用で、エミリアのような天稟はない。プリンセスとの縁故も、近衛兵団では通用しなかったし、ヴァネッサ自身も利用しようとは絶対にしなかった。すべて自分の努力によって、旗本に加わろうとした。そして旗本となり、やがて千人長、副兵団長、ついには近衛兵団長にまで累進した。エスメラルダ少女との出会いがなかったら、万に一つもこのような道には進んでいまい。
「生涯のすべてをかけて、何かを愛し、信じ、敬うことができるのはそれだけで幸福なことだ。それは人のためでもいい、国家でもいい、あるいは自分の信念や正義のためでもいい。そうしたもののためにこそ、人は一歩ずつを、確かに歩んでゆけるものだ」
「もう少しセンスがよければ、いい詩になるだろうな」
冷たくあしらってはいるが、ヴァネッサの表情は明るい。
「それで、お前は帝国に残るのか」
「そうだな、そうなる。これからどうなるのか、まだまだ五里霧中といった状況ではあるが、この国に尽くすために、私は決起し、事破れてのち教国へ逃れ、そして戻ってきた。鞠躬尽瘁し、この国を立て直す。それが私の生き方だ」
「力を尽くそう、互いに」
ユンカースはかつて、ヴァネッサのこれほど穏やかな声を聞いたことはなかった。
日が赤みを増し、ヴァネッサは交流会を打ち切らせ、名残惜しそうなクイーンを伴って、ホテル「ケーニッヒシュトゥール」へと戻った。




