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ミネルヴァ大陸戦記  作者: 一条 千種
第26章 巨星は墜ち
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第26章-③ 落日と暁闇

 ベルンハルト・ヘルムスという男の評価は、後世においては恐るべき独裁者、ということでほぼ一致している。だがその前提評価には、さまざまなディテールが付属していて、歴史家によって多少、色彩のぶれがある。

 例えば、腐敗し弱体化したレガリア帝国を短期間のうちに改革し、経済力を高め、軍事力を増強して小国の地位から脱却させた大いなる政治力の持ち主、という一面をクローズアップして評価したがる者もいれば、長期的には国力を衰微させ、国民から活力を奪い、帝国を教国の衛星国家へと零落(れいらく)させた無能な全体主義者、と厳しく批判する者もいる。家庭人としては女性や動物に優しく、絵画や犬を好むごく小市民的肖像であったとして好感をもって観察する者もいるし、一方で恐怖の独裁政治によって民衆を弾圧し、政治犯や捕虜を虐待し、虐殺し、外交的には教国軍を領内に誘い込んで奇襲するなど史上最も悪辣(あくらつ)な犯罪者、と断罪する者も多い。

 だがいずれにしても、ヘルムスがミネルヴァ暦14世紀後半を彩る歴史上の巨人であることに疑いを持つ者はいまい。その事績のほとんどは非難や憎悪の対象としてではあっても、である。

 彼はミネルヴァ暦1398年4月14日夕、鷹の巣(ファルケンネスト)(つど)った政府や軍部の高官を前に、正式に軍需相モルゲンシュテルンを臨時首相に命じ、のちの政治的判断のすべてを(ゆだ)ねるむね明言した。この際、連合軍への降伏可否を含めた一切の指示はなかった。このあたりの意図は、よく分からない。つまり降伏しろとも降伏するなとも言っていないし、残った兵や民間人、そのほか諸々の処置について彼の口から指図がましい言葉は皆無であった。見方によっては、彼は結局、自らの身の上のことしか考えておらず、残された者に対する責任などは感じてもいないし、どうでもよかったと思っていたのかもしれない。あるいは自分が命令や指示を残すことでのちの足かせとしたくなかったのかもしれない。もっとも、後者に関してはずいぶんと本人に対して好意的に解釈しすぎているきらいがありそうだ。

 任命ののち、彼はこのほど正式に彼と結婚したマルガレーテ、愛犬のマルティン、モルゲンシュテルン一家、デューリング一家と食事をともにし、最後の団欒(だんらん)の時間を持った。ヘルムスもマルガレーテも、死を前にして取り乱したり暗鬱とした様子もなく、むしろ穏やかで、和やかな印象であったという。

 食事のあと、ヘルムスはハーゲン博士とともに彼の主治医を務めたモーリス博士を呼び、ここで毒薬を受け取った。経口すれば数十秒で死に至る劇薬であると説明があったが、疑い深いヘルムスは、愛犬のマルティンにこれを飲ませ、たちまち中毒死したことを確認して、夫婦ともに服毒自殺することを決意した。

 彼らは総統私室に入り、20分後、モーリス博士が親衛隊長クリンスマン大佐らとともに入室して、夫妻の死を確認した。クリンスマンは数名の部下とともに夫妻を地上に運び出し、遺骸を焼き、遺骨はクリンスマン自身が袋に包んで森のなかに埋めた。

 とされているが、この証言には異説も多い。ひとつには、クリンスマンの証言に基づき、のちのレガリア臨時政府が遺骨を求めて森に分け入り、あちこちを掘り返して回ったが、ついに探し当てることができなかった。つまりヘルムスの死に関する証拠がない。またクリンスマン自身も臨時政府による追及に対し、ヘルムスの死の様子を語る以外では黙秘を貫き、食事も拒否し、1ヶ月ほどで栄養失調のために死去している。ヘルムスの生前、誰よりも彼に忠実だった男である。その証言に信頼性を置くことは難しい。

 かくして、ヘルムスの死には謎が残ることとなった。この謎が、のちのちまでヘルムス総統生存説をくすぶらせる原因にもなっている。ヘルムスは実は生きていて、第三国であるバブルイスク連邦に逃げ落ち、そこで連邦政府の庇護を受け、再起を企図している、という言説は、特にヘルムスの支配力を恐れる旧レガリア帝国領でさかんに唱えられた。連合軍に負けたからといってヘルムスがすんなり死んだとは思えない。死後もそうした恐怖を振りまくほどに、ヘルムスが恐れられていた、と見ることもできるだろう。

 残された総統大本営では、全権代理人たるモルゲンシュテルン臨時首相が早速、無条件降伏を前提に交渉準備を始めた。だが条件付きの降伏を求めるデューリング宣伝相、ケール内務相らとのあいだで議論が紛糾(ふんきゅう)し、同日中には結論が出ず、最終的にモルゲンシュテルンの裁量に一任することが決せられたのは翌日の夕方になってからであった。この間、ヘルムスの腹心で政権の重要メンバーであったデューリング宣伝大臣がヘルムスを追い、妻や子らと無理心中をし、帝都中心部でもパニックに陥った民間人同士が殺し合いを始めたり、統制の乱れた合衆国軍において略奪や強姦が多数発生するなど、降伏宣言が遅れたことによる悲劇がいくつか生まれている。

 降伏文書を携えた正式な使者が教国軍と合衆国軍の本営にそれぞれ達し、同時に戦争の完全終結が両陣営から発せられたのは、4月15日の夜のことである。

 帝都における最大の抵抗勢力は第一軍であったが、そのほとんどは即日、武器を捨てて戦闘を停止した。警察や憲兵隊も、軍が機能を完全に失った以上、反抗することもできず、大本営からの通達に従い、一切の活動を停止し、連合軍の指示を待つこととなった。

 連合軍は帝都の要所を占領するとともに警察権を発動し、帝都の混乱を収束させることを第一の任務として行動するよう命令された。

 翌朝、すなわち4月16日の朝、連合軍は厳戒態勢のなかで夜明けを迎えた。

 この日は朝から、連合軍の主立つ将帥たちと、降伏しあるいは捕虜になった帝国の政府及び軍部の幹部との会見が予定されている。

 場所は教国軍近衛兵団が当面の滞在場所として接収したシュウェリーン教会である。

 教会へと向かう緩やかな上り坂は、朝から多くの幹部どもが陣営を問わず往来している。その全員が、坂を上っていく。彼らはこの朝、教会で開かれる会見に参加するために、帝都の各所から集まってきているのだ。

 一人の将軍が、この坂の途中に腰を据え、ビールを飲みながらそうした連中の顔をいちいち(なが)めている。ずいぶんと悪趣味な将軍もいたものである。いや、外見はとても将軍などというたいそうな風体(ふうてい)ではない。服装はまるで海賊のようで、よく言ってごろつきといった印象である。ただ髭は整い、伸びた髪もすっきりと後ろで束ねて、そこに茶色のフェルトハットをかぶって、なかなか伊達者の海賊である。しかも帽子のブリム(つば、ひさし)部分からのぞく目は案外かわいげがあって、女がときめく男性的な魅力がありそうだ。

 何人かの顔を見送ったあと、彼に声をかけた馬上の勇将がある。赤い鎧を身につけ、今回の帝国領攻略作戦で大いに功名を立てた、「南海の赤い稲妻」こと教国軍のティム・バクスター将軍である。

「ドン・ジョヴァンニ将軍か、ここで何をしている」

「よぉ、ティムか。なぁに、人間という生き物を見ているのさ」

「人間を?」

「ここで人間の顔を見送っていると、色んなやつがいるもんだ。教国や合衆国のやつらは、戦いに勝ったってんで、たいがいが浮かれてたり、興奮した顔色が多い。当然だ、そいつらは未来が開けている、つまりは自分も運も開けていると思っている。冷静だったのは、レイナートくらいだな。やつはただ無言で、会釈して過ぎていったさ。あれはなかなか、たいした男だ。まぁ、帝国はあいつの祖国でもあるから、心を痛めているだけかもしれんがな」

「帝国の人々はどうだった」

「そりゃあどいつもこいつも、情けない雁首(がんくび)を揃えていやがるさ。陰気、不安、臆病、落胆、絶望、まぁそんなところだな」

「それで、そういう人間の顔色を見てどうする」

「おもしれぇ、と思ってな」

「それだけか」

「あぁ、おもしれぇ、と思ってるだけだ」

「会見に遅れるなよ」

 同僚のなしざまに呆れたのか、バクスターはちらりと後ろを一瞥(いちべつ)し、ドン・ジョヴァンニの人間観察に供される人々を哀れに思いつつ、先へ進んだ。

 そのあとすぐ、合衆国軍の遊撃部隊指揮官の一人、ジェームズ・スチムソン少将が姿を見せた。

「ジム、久しぶりだな」

「ドン・ジョヴァンニ、あんたも今や教国軍の将軍殿か」

 スチムソンはドン・ジョヴァンニのそばの岩にどかりと座り込んで、固く握手を交わした。彼らははるか以前、それぞれ傭兵団を指揮して、勇名を競い合った仲である。

「お前も、合衆国軍少将だってな。()えある合衆国軍が、お前のようなならず者を少将にまで進めて、戦場へ送り出すとはな」

「散々好き勝手やってたあんたが、人のこと言えるか」

 哄笑(こうしょう)を上げつつ罪のない揶揄(やゆ)を応酬してはいるが、二人は親友と言ってもよいほどの仲である。もっとも稼業が稼業なだけに、親友であっても次は戦場で敵同士になるかもしれない。そのときはためらわずに殺し合わねばならないさだめだ。

「合衆国ってのは、民兵の決起から生まれた国だ。これまでも、民兵の力で国を守ってきた。そういう歴史が息づいてる限り、俺たちのような傭兵が合衆国軍の戦場から消えることはないさ」

「たいした演説だ。次は政治家にでもなるか」

「俺に政治屋が務まるかよ。あんたこそ、これからどうするんだ。まさかやくざ者のあんたが、教国に宮仕えして一生を終えるなんてことはあるめぇ」

「さぁ、どうなるか分かんねぇな。なんせ、女王様の頼みだからな」

「教国女王とは、それほどか。血塗(ちぬ)られた前半生のあんたが、宮仕えを引き受けちまうほどに」

「そうかもしれねぇ」

 ドン・ジョヴァンニはやや恥ずかしそうな苦笑を浮かべ、ハットの下の白髪交じりの髪をかき回した。考えてみれば、彼は女王の個人的魅力、それだけに惹かれて宮仕えとやらをしている。なるほど、彼の前半生からすればこれは考えられない話だ。昔の仕事仲間から指摘されると、気恥ずかしくなってくる。

「それはそうと、合衆国軍の内情はどうなんだ」

「どうもこうも、遠征軍を束ねるモンロー大将ってのが、箸にも棒にもかからない無能でな。戦場での判断力欠如はもちろんだし、それ以前に統率力がない。風紀も乱れっぱなしさ」

「傭兵から風紀にケチをつけられるようじゃおしめぇさ」

「いひひ、ちげぇねぇ」

 彼らは再び握手し、別れた。両軍とも、しばらくはこの帝都ヴェルダンディに滞在するだろう。近いうちにまた会う機会もある。

 さらに何人かが通り過ぎて、足腰の機敏そうな長身の男が現れた。

「色男、今日は一人か」

 先ほどまでスチムソンが座っていた岩に、今度はユンカースが腰を下ろした。名うての女たらしという点で共通項のある二人だが、これまで特段の接点はない。

「戦いは終わった。これで、お前の望む結果になったか」

「それはまだ分からない。結果は、むしろこれからにかかっている」

「というと?」

「私が真に望んだのは、帝国の貧困、荒廃、そして人民の不幸の元凶であるヘルムス政権を打倒し、人民自身の手でこの国の行く末を決定させることだ。その意味では、道はまだ半ばまでしか到達していない」

「なるほど、確かにこれからだ。で、お前はその道の残り半分で、どんな役を演じようってんだ」

「それも、実はよく分かっていない。少なくとも当面、我が国は連合軍の管理下に置かれることになる。その管理行政、新政権の骨格を成形していくにあたって、誰が主導権を握るのか。その動き次第で、私はむしろ蚊帳(かや)の外に置かれるかもしれない。少なくとも言えるのは」

 と、ユンカースはまるで舞台俳優のような気障(きざ)な間を置いてから、

「私個人としては、ぜひクイーンにこの国の新たな船出を舵取(かじと)りしていただきたい、ということだ」

 ドン・ジョヴァンニは呵々(かか)と大笑し、ユンカースの背を何度も叩いた。

「おうおう、若いの。お前もすっかりあのお美しい女王様になついたようだな。ま、狼にも犬みてぇなかわいい一面があるってもんよ」

「それを言うなら、あなたこそまさにその言葉があてはまるのではないか」

「言えてらぁ。いや、まったくお前の言う通りときたもんだ」

 愉快そうに笑い、ぬるいビールを飲み干して、ハットをかぶり直した。

「さぁて、それじゃあそろそろ俺も会見とやらにお邪魔するとしようかな。そこでも、面白い演劇が見られそうだからな」

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