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ミネルヴァ大陸戦記  作者: 一条 千種
第26章 巨星は墜ち
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第26章-② 沈みゆく日輪

 帝国軍の前線指揮官たちのなかで、最後までヘルムスの身を案じ、その生存と捲土重来(けんどちょうらい)に力を尽くしたのが第一軍司令官のメッテルニヒ中将であったことは疑いの余地のない事実である。彼はヘルムスが亡命の決意を表明してくれさえすれば、自分が殿軍(しんがり)となって死ぬ覚悟を決めていた。もとはヘルムスの私設護衛隊の隊長であり、町の無頼漢(ぶらいかん)という程度の器量と才覚しか持ち合わせていない彼に目をかけ国防軍中将、軍司令官筆頭の地位まで引き上げてくれたのは、すべてはベルンハルト・ヘルムスという稀代(きたい)の政治家の徳による。

 それだけに、彼としてはどうしても早期の帝都脱出、帝国脱出をヘルムスに決断してほしかった。

 だが悪いことに、この亡命案に最も強硬に反対したのは、ヘルムス自身であった。理由は実に明快である。

「まだ勝てる」

 これには、メッテルニヒは無論のこと、ほかの高官も内心で愕然とした。我が総統はついに錯乱した、と全員が思った。

 絶句するメッテルニヒに代わって、ヒンケル大将が尋ねた。

「我が総統、どのような勝算がおありですか」

「シュマイザーの第六軍が無傷で残っている。彼がシェラン川を背に背水の陣を敷けば、兵も死力を尽くして戦う。敵は所詮(しょせん)、寄せ集めだ。勢いを止めれば、すぐに瓦解(がかい)する」

「しかし、報告ではベーム中将が発した戦線離脱及び降伏の許可により、第六軍でも相当の離反者が出ている模様です。しかも背水の陣は、敵の背後に伏兵を敷くなどの成算があってこそ意味がある戦法でして」

 ヒンケルが言葉を選びつつヘルムスの認識違いを正すと、室内は不気味な静寂に包まれた。直後にはヘルムスの怒号が降ってくるであろう。

 予想通り、数瞬の溜めのあと、ヘルムスは卓上の地図をつかみ、発狂したように叫び始めた。

「ベールの裏切り者め、奴のような裏切り者が、国を敵に売り渡そうとしている。私がどれほど精励し、努力しようと、国を守るべき国防軍がすべてを台無しにする。このような事態になるなら、開戦前に裏切り者を残らず、容赦なく粛清しておくべきだった。シュトレーゼマン、メッサーシュミット、リヒテンシュタイン、ベーム。誰も彼もが裏切り者だ、裏切り者、裏切り者、裏切り者ッ!」

 白いつばきを飛ばし、火を吐くようなすさまじい熱量と勢いでまくし立てる。メッテルニヒを含む側近たちは歯の根を震わしつつこの怒声に耐え、耐えつつ、心中ではヘルムスの行動の無意味さを悲劇的な思いで(なが)めている。今この時に必要なのは、過去への呪いではなく、現在を直視し、未来のために選択することである。ヘルムスが期待するような連合軍に対抗しうる戦力など、もはや帝国のどこにもない。なるほどベームの行動はヘルムスからすれば許しがたい造反であろう。だが今それを(ののし)っても事態の好転に役立つわけではない。時間を浪費するだけではないか。

 そう思ってはいても、彼らが修正を入れるだけの猶予(ゆうよ)を、ヘルムスは与えない。

 1時間ほどが経過し、ヘルムスの喉も(しわが)れてきた頃。

「第五軍と帝都防衛隊が白旗を掲げ、連合軍への降伏を宣言した」

 この急報に接して、側近らは亡命の機を完全に逸したことを悟った。帝都防衛の責務を負う両部隊が仰ぐ旗を替えた以上、帝都は事実上、陥落したも同然である。第一軍はなお健在ではあるが、どこまで部隊として統率を維持できるかは疑問である。さらに後背の味方が降伏したことを知った帝国軍主力も絶望し、彼らの防御線も突破されて、帝都には早々に教国と合衆国の連合軍が突入してくるであろう。

 決定的であった。

 ヘルムスはもう怒気を発する気力さえないのか、あるいは失望が怒りを上回ったのか、静かに全員に退室を命じた。方針に関する伝達事項は、ない。メッテルニヒはやむなく、軍を率いて帝都中心部へと戻り、降伏した第五軍及び帝都防衛隊を排除すべく戦闘を開始した。数的には第一軍の方が優位だが、事態を悲観した将兵のなかに脱走を図る者が続出し、指揮系統が乱れ、シェラン川東における戦いもほぼ絶望的であったため、メッテルニヒはついに組織的抗戦をあきらめ、少数の幹部らと再び鷹の巣(ファルケンネスト)へと戻った。

 森に分け入ってゆくと、臨時総統大本営を守るべき警備兵や親衛隊の兵卒たちは、以前とはまるで別人のように活気や覇気が失せ、腰が抜けたようにあちこちでたむろしている。ある者はうなだれ、ある者はたばこをくゆらせ、ある者は放心したように仰向けに寝転がり、ある者はめそめそと泣いている。ほとんどは軍司令官たるメッテルニヒに気づいても敬礼や起立すらしなかった。敗戦が彼らの目にも確実になって、失意に打ちひしがれているのであろう。職位柄、メッテルニヒはそうしたくちばしを折られた鷹のように情けない兵卒連中を叱り飛ばしてもよいところであったが、あいにく時間がない。

 施設の入り口を地下へと進み、総統執務室の前まで着くと、親衛隊長クリンスマン大佐が剣と引き換えにドアを開ける。部屋には、軍需大臣のモルゲンシュテルン、宣伝大臣のデューリングだけがいる。

「我が総統、脱出のご用意を」

 開口一番、メッテルニヒはそのように言って、彼の絶対的忠誠の対象に決断を求めた。いや、決断と表現するには遅すぎる。だが、このままここに居座ればヘルムスは連合軍に(とら)われの身となるであろう。ヘルムスは偉大な指導者だ。総統が敵の虜囚となり、(はずかし)めを受け、大衆の面前で断頭台に上がる姿など、メッテルニヒには到底認められない。あくまで生きてもらう。生きてさえいれば、ヘルムスは再びその政治力を発揮して、信奉者を増やし、敵を恐れさせ、帝国の真の支配者として返り咲くことができるはずだ。

 しかしヘルムスは腰を上げようとしない。

「私はヴェルダンディを離れない」

「なぜです、我が総統。たとえ一時的に亡命者の恥辱をかぶろうとも、不屈の信念をもって耐え忍び、命が尽きるそのときまであきらめず闘争を続けるべきではありませんか」

「ブルーノ。敗勢はもはや挽回しがたいが、全将兵は帝都ヴェルダンディを守るため、命を捧げるべきだ。私もその将兵の一人である。これから、私は家族とともに過ごす。日が暮れる前に、私は国家に対する忠誠の証として、自殺する。後事はすべてモルゲンシュテルンに託す。我が帝国に、栄光あれ」

 ヘルムスの声は意外と思えるほどに落ち着いていた。史上最も偉大な独裁者が、その生涯の終わりについて語っている。メッテルニヒにはそれが信じられない思いであり、悪い夢でも見ているような心地であった。

 メッテルニヒはヘルムスの命令に従い、またしても帝都中心へと舞い戻ったが、彼の手元には指揮すべき兵がほとんど残っていなかった。一部はなお律義に第五軍や帝都防衛隊と散発的に戦闘を継続していたが、どうやら連合軍の旗もぼつぼつ見え始めている。連合軍が本格的に帝都へと侵入すれば、打つ手はないだろう。

 帝都を守るため戦え、とヘルムスは言った。

 (だが、これ以上戦ってどうする)

 ヘルムス個人に対する忠誠心の量が過剰に多いために、かえってその死が確定したとともに、彼の気概もすっかり消え失せてしまったのかもしれない。

 (逃げよう、家族を連れて)

 仕えるべき者の消滅とともに、彼も最後は番犬の看板を下ろし人間臭いエゴイストになったと、そう言えるかもしれない。彼はわずかな供回りを連れ、帝都の混乱にまぎれて財務省の金庫を襲撃し、資金をたんまりと持ち出す一方、自らの家族とも合流して夜を待ち、夜陰のなかを北へ北へと逃げた。帝国領北岸から船を乗り継いで、放胆にも合衆国首都ブラックリバーに上陸し、ベニントンからシンシナティ山脈を越えてバブルイスク連邦領へ入り、そこで身分を明かして特別政治亡命者の扱いを受けた。

 当初、連邦政府は彼に充分な待遇を与えた。旧帝国の軍司令官を務めたほどの男である。軍事的才幹はともかく、情報源として活用できるだろうとの見込みがあった。実際には利用価値のある情報は引き出せなかったため、徐々に彼への遇し方は冷淡となり、意義のある活動を歴史に残せぬまま、ミネルヴァ暦1405年に肺炎を(わずら)って死去している。秘密警察によって暗殺されたという説も根強いが、その時期の連邦政府にとってわざわざ彼を隠密裏に殺さねばならぬほどの価値があったとも思えないため、単なる病死であるというのが通説である。

 さて、帝都からの退避を拒否し、ファルケンネストに残ったヘルムス総統の動向についてである。

 彼は自らが築き上げた帝国の前途がついに閉ざされたことを認め、自殺によって人生を終わらせることを決断した。その準備のため、彼はわずかばかりの時間を欲した。

 身辺に、いくつか片付けねばならぬ事柄がある。

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