第25章-⑥ 闇、狂奔す
ようやく敵の攻め手が緩み、戦いもいよいよたけなわかという時、背後の水龍門で火の手が上がって、王宮の守備責任者である御林軍のトクト将軍は顔面を蒼白にして叫んだ。
「陛下をお守りする。前衛部隊のみ残し、全軍続けッ!」
将校の一人が命令に疑問を呈する。
「将軍、雲龍門の守りをどうするのです」
「ここの守りは前衛部隊のみでよい。陛下さえお守りすることかなえば、あとはどうとでもなる」
「承知いたしましたッ!」
この場合の陛下とは、皇帝クゥンのことではなく、皇妃スミンのことである。陛下という言葉がスミンのことを指すというのは、もはや王国の朝廷にあっては全員の共通認識として醸成されつつある。
叛乱軍は、まず南の雲龍門を攻撃し、しかるのち北の水龍門から突撃した。いわゆる声東撃西(東に声して西を撃つ。陽動作戦の一種)の計である。御林軍はまんまと罠にかかった格好になる。
トクトはただちに後宮に向かいスミンを救い出そうとしたが、叛乱軍の勢いは彼の予想以上で、城外から援軍が駆けつけるまで鎮圧は難しそうだと思われた。彼は御林軍を指揮して久しいが、これほど大規模かつ組織的な叛乱は経験したことがない。
「とにかく目の前の敵を噛み破れ。陛下のもとへ、陛下のもとへ!」
一方、スミンは後宮の隠し部屋へと逃れたが、すでに後宮は叛乱軍が制圧し、あちこちで逃げ遅れた女官の悲鳴が聞こえる。
彼女にとっては思いもよらないことに、今回の叛乱はどうやらこれまでとはまったく違っていて、彼女の政治的あるいは肉体的危機を意味しているらしかった。彼女自身が権力者である以上、彼女と彼女の子らに殺意を持っている者がいることは承知していたが、それはあくまでごく一部の発狂した連中のみであり、ほとんどは我が意向に随順するはずだと信じていた。要は彼女の政治センスが致命的に低いことがそのような認識の誤りを招いているわけだが、少なくとも今のこの事態は意外と言うほかない。
彼女は皇帝、女官、乳母らとともに息を詰めて叛乱軍の捜索をやり過ごすべく静まっていた。
が、乳児が泣くのを止めようがない。暗く、埃っぽく、狭い空間に人が身を寄せ合ってじっとしているというこの不快きわまりない環境に、彼らが生理的反応として泣き出すのは当然でもあった。せっかく身を潜めても、居場所を自ら知らせてしまっているようなものである。
結果、叛乱軍は隠し部屋からスミンを含めた全員を引き出すことに成功した。
スミンと乳児たち以外は当然ながら叛乱兵に取り囲まれたことで震え上がっている。女官も、乳母も、皇帝も、口々に悪逆非道の責任をスミンに押しつけ、自らの罪の小ささを主張し、命乞いをした。
これも、彼女にとっては思いがけないことではあった。命がかかると、人はこうも変節し、主人を裏切ることさえいとわなくなるものらしい。女官や乳母ごときは無論、皇帝でさえスミンの庇護と擁立がなければ、路傍に放り出されても致し方のない身なのである。恩知らず、飼い犬に手を噛まれるとはこのことだと、スミンは思った。
しかし、スミン自身は絶体絶命の状況にも動じず、妙に落ち着いている。双子の乳児を細く白い腕に抱いて、すっかり観念しているように、叛乱兵や女官らにも思われた。ただ彼女はこの程度で生への執着を放棄するほど、あきらめがいい方ではない。彼女は自身と乳児たちの安全を確保するため、ある決断を腹中に秘していた。最後の手段だが、もはや厭っている状況ではない。彼女としては、このようなところで犬死にすることなど到底、許容しがたい話だ。
叛乱兵の一人がいよいよ彼女の喉に槍をつけようとした時。
その場にいたのは、恐らく20人か、あるいは30人ほどであったか。
突如として、スミンを包むように透明な紫色の球体が出現したかと思うと、それはたちまち膨張して、あたりの者どもを次々に呑み込み始めた。呑まれた女官、乳母、皇帝、叛乱兵たちは瞬時に消滅し、跡形を残さない。
彼らは、どこか別の次元へでも飛ばされたのであろうか。それとも結界の強烈な作用のなかで蒸発したのであろうか。これは、結界を生ぜしめた当事者であるスミン自身にも分からない。分かるのは、彼女にとっての邪魔者を、彼女の力によって完全に抹消しえたということである。
スミンはむしろ、自分に秘められた力の偉大さ、あるいは凶悪さとでも言うべき性質に、そら恐ろしさを感じた。術は、ときに術者自身のイメージをも超えて発動することがあるようだ。それはもしかすると、力の暴走という危険をはらんでいるかもしれないが、少なくとも今回は望む結果が得られた。乳児たちは、白いおくるみに抱かれ、彼女の胸のなかで小さな瞳を輝かせている。さしあたり、彼女にとっての危機は回避された。
彼女は再び隠し部屋へと身を隠し、この狭く暗い空間のなかで、人生で初めて乳児たちに自らの母乳を与えた。これまで感じたことのない、それは幸福と喜びであった。我が子を愛するとは、つまりこういうことかもしれない。子どもたちを守るためであれば、母親とはどのような犠牲でも臆することなく払うものなのだ。
しばらくして、ウー・ムォが兵を引き連れ彼女を救いにやってきた。宦官は文官であるし、この男も一見すると線の細い文弱の徒といった印象だが、意外に剛毅な一面があり、このときも満身に返り血を浴び叛乱兵を蹴散らしつつ必死にスミンを探していたもののようであった。
スミンが乳児を抱いて出てゆくと、ウー・ムォは剣を捨て拝跪した。
「陛下、陛下、ご無事でしたか!」
「ウー・ムォよ、大儀」
「お怪我はございませんか」
「大事ない。スヒョンもユミンも無事でいる」
「それはようございました。皇帝はどちらに」
「知らぬ」
「王宮が焼け落ち、皇帝が命を落とそうと、陛下とスヒョン太子、ユミン皇女がご無事ならば社稷は安泰。安全な場所へお連れまいらせますので、どうぞこちらへ」
スミンは勢いを取り戻した御林軍に守られ、宗廟へ逃れた。宗廟とは、先祖の墓である。王国の宗廟は神聖な墓所であると同時に、王宮の近隣に広大な土地を占め、しかも高所にあるため守りやすい。万が一にも王宮に異変があれば、皇族は宗廟に動座することとなっている。スミンのあと、皇帝の末弟アジュだけが難を逃れて合流したが、残る皇族である皇帝の次弟アルチはついに姿を見せなかった。叛乱軍によって殺されたのであろう。皇帝クゥンはスミン自身が消滅せしめているから、現れるはずもない。
皇帝の死は遺体が確認できなかったために証明はされなかったものの、既定の事実として朝廷は受け止めた。叛乱の完全な鎮圧後、皇帝の死と末弟アジュの即位が決定された。
スミンは、当然のように新皇帝の皇妃となった。父子三代にわたってその皇妃となった女など、少なくとも青史には類がない。産まれたばかりの太子スヒョンを帝位に就けてもよかったが、乳飲み子とはいえ皇帝ともなれば公務にあたり、公の場に顔を出す必要もある。生育の過程でそのような負担をかけることはよろしからず、また畏れ多くも弑逆の対象にもなりかねない、とのウー・ムォの進言もあり、今回は見送ることとなった。新皇帝アジュは前皇帝と同じく、すでにスミンの闇の術に冒され、彼女の奴隷のごとき存在だから、彼女が引き続き陛下と呼ばれ、国家の全権を掌握することに何ら差支えはない。
彼女は「水龍門事件」の容疑者を拘束するよう命じた。多くは王宮を守る御林軍と近隣にて待機状態にあった部隊の手によって殺されたが、捕虜がいる。口を割らせ、この叛乱の裏に司徒(行政長官)のグエン・スアン・シンがいることが判明し、彼は逆さ吊りにされ、全身の皮を剥がれて、首を斬られた。スミンはこの者の顔の皮を踏み、肉を食い、血を酒にして飲むことを上級の官吏全員に命じた。スミンとその子に対する忠誠の証を立てるためである。従わぬ者は、容赦なく斬首された。
また事件の共犯、従犯、教唆犯と認定された者及びそれら家族およそ5万人を逮捕させ、王都トゥムル近郊に巨大な穴を掘らせて、生き埋めの刑に処した。当初、彼らは穴掘りに協力すれば厳罰を免れると聞かされこの作業に従事したが、終わったとき、穴に突き落とされたのは彼ら自身であった。のち、この数千トンの土砂の上には新皇帝アジュの即位を言祝ぐための記念碑と石塔が建てられている。
事件において忠勤と才幹を認められたウー・ムォは一躍、御史から司空(司法長官で、副首相格)に引き上げられ、かつスミンの威光と恩寵を笠に着ることで、朝廷においてもはや並ぶ者のない権勢家となった。
彼は朝廷の実権を手に入れたことを喜び、この政権を安定化させるため、国内の引き締めをさらに強めるとともに、外交手段によって外患を除去しようと考えた。
すなわち、バブルイスク連邦との軍事同盟締結を目指したのである。




