第25章-④ 母として
スミンの懐妊は、王国にあっては最重要の機密事項であった。
自分の胎内に新たな命が息づいていることを知って以来、スミンはまるで人格が変わったように穏やかになり、愛人たちとの肉欲も断ったが、為政者としては相変わらずの苛烈さであった。例えば、宮殿内でスミンの懐妊についての噂話がされていたのをたまたま通りかかって耳にし、噂をした女官だけでなく、それを聞いた女官、さらに責任者の女官長補ともども、即座に斬首に処した。スミンはこの頃から、自らの保身についてやや極端なほど、敏感になっている。
もともとスミンは、術者である自分と、その血を受け継ぐ者が王国、さらにはこの大陸全土の支配者として君臨するという夢想を描いて、それを本気で実現しようとしていた。彼女が単なる王国の一庶民であれば、それは愚にもつかぬ絵空事に過ぎなかったであろう。だが彼女は闇の術者で、その毒牙にかかった者は自らの人格を失い、永久にスミンの奴隷として動く、いわば傀儡となる。彼女はこの力を利用し、この国の皇帝を惑わし、溺れさせ、さらに子を孕まぬと分かるや、皇帝を殺害し、その息子を位につけて自ら皇妃となった。皇帝の妃となったのは、皇帝の子を自分が産めば、王国の正統な統治者たることを主張できるために諸事、都合がよいからである。やがて我が子が成人したら、皇帝の座を与え、かつ術者であることを公表し、名実ともに術者が支配する国にしたい。
が、皇帝とのあいだには容易に子宝に恵まれなかった。一度、神医と称されるアブドという民間医師に診断を仰いだところ、原因はスミンの産道にあるとの答えであった。彼女はこの宣告が気に入らず、立腹のあまりアブドを手ずから刺し殺してしまっている。
人数や回数を増やせば懐妊の機会も得られるだろうと考えたスミンは、皇帝の弟たちにまで手を出した。彼らは当時まだ10代の前半で、色欲に用いるには若すぎる、というより幼かったが、スミンは半ば強いて、彼らの子種を吸い取ろうとした。こうした傍若無人の振舞いは、王国の民衆にも大きな衝撃を与え、義憤を呼んだ。
彼女はそれでも受胎の知らせを聞くことができず、皇族の血筋という建前さえ放棄して、若く文武に秀でた男を多く愛人として抱えるようになった。彼女のそうした暮らしぶりについては、ほとんどが民衆に対しても筒抜けになっている。
スミンの最も新しい愛人は、異国からやってきた盲人である。ただの盲人ではなく、術者でもある。後者についてはスミンしか知りえないことだが、彼女にとってはよほど重要な事実である。彼女はほとんど狂ったようにしてこの男との交わりに勤しみ、そして今までの不妊が嘘のように、懐妊の喜びに恵まれた。
彼女はその盲目の愛人を道具として利用することを思い立ち、体よく手元から追い払うとともに、一方で懐妊の事実は徹底的に秘した。すべて、我が子を守りたいとの一心からである。せっかく宿った命、流れるようなことは絶対に避けねばならないし、彼女自身、身重ともなれば護身の不安も大きい。
その成果と言うべきか、スミンの身辺に関する情報は大小を問わず、ほぼ完全に王宮内にて秘匿された。前述したように、不用意に情報を漏らす者、あるいは情報交換をするだけでも厳罰に処されると知って、機密の扱いに関しては誰もが厳格にならざるをえなかった。
事実が公表されたのは、出産のあとである。
これは、難産であった。術者として大いなる力を持つスミンでさえ、出産は命がけである。しかも胎児は双子で、女児の出産のあと、男児を完全に取り上げるまでに7時間もかかったとされる。男児は首にへその緒が絡まっていたため、頭は見えているがなかなか出産に至らず、助産婦も母子の生命を危うんだほどであった。この時代、難産は胎児はおろか、母体にとっても直接、死の危険を伴っている。
ただ、そこはスミンの執念とでも言うべきか、ついに男児を産み落とすことに成功した。おくるみに丁重に包まれ、実ににぎやかに泣きわめく我が子を前に、スミンは自らの野心がまさに重要な局面を迎えたことを確信した。確信するとともに、喜びと安堵のあまり、死んだように気を失った。
数日、スミンは療養し、体力を取り戻してからは、母と為政者の兼業が始まった。母としては、双子の姉弟に無償の愛を注ぎ、為政者としては、我が子にいかに強い国を残せるかに思考を傾けた。
双子には、彼女の信頼する者を乳母としてつけた。王国に限らず、多くの国では高貴な女性は自ら母乳を与えるようなことはまずしない。
双子の目が開くようになって、スミンは息が止まるほどに驚いたことがある。娘の瞳は黒く、息子はアクアマリンのような明るい青緑色の瞳をしている。まぎれもなく、あの盲人の術者サミュエルとの子である。いずれも、母に似て美しく育つであろう。
溺愛した。
彼女は出産とともに、双子の誕生を国内の津々浦々に知らしめ、祝福を要求した。つまり、祝儀である。臨時徴税が実施され、民衆からは悲鳴と怨嗟の声が上がった。すでに莫大な軍事費や、腐敗官僚どもの横領、王宮における贅沢三昧に重税を搾り取られている。王国の民衆はそれこそ家畜も同然の悲惨な生活を送っているというのは本人たちだけでなく国外にも知れ渡っており、これ以上に税を課せられたら、彼らは飢えるしかない。
しかも、産まれた双子が皇帝の種でないことは、どこかから漏れ、公然の秘密として広まっている。民に徳を施さぬ邪悪な独裁者と、どこの馬の骨とも分からぬ愛人の子を、王国の絶対多数の民衆が生きる権利さえも捧げて支えている、というこの状態は、専制の最も不条理で醜悪な一面を具現化したものと言えるだろう。
だがスミンにとっては、彼女と彼女の子の福祉以上に優先すべき事柄はない。不満分子があれば早い段階で弾圧し、少なくとも表立って反抗する者はほとんど出なかった。
出産前後から、彼女はウー・ムォという宦官を知恵袋として重用するようになり、さまざまな政務や謀議に加えるようになった。以前、王国の政治や軍事にその奸才をもって参画したトゴン老人の、いわば後継者、悪く言えば亜流のごとき存在であろう。こういった手合いが悪知恵を絞り出して政道を推し進めるところ、民衆に徳が与えられるわけもない。
スミンの懸念は自国の政治や軍事の状況にはなく、むしろまったく別のところにあった。第一の懸念は、我が子が健康に育つかどうか、という点にある。これは母親であれば誰もが潜在的に抱いている不安であろう。母として子の無事を願うのは、闇の術者で、王国の民衆たちから憎悪を一身に受けるスミンであっても、ほかの母親と変わるところはない。
もう一つの懸念は、サミュエルのことである。教国に潜入させた密偵からの情報では、王宮レユニオンパレスに盲人の術者が現れ、女王を襲ったが、別の術者に阻まれ、逃亡してのちは行方が知れないという。
「そうか、教国の女王は息災か」
教国女王の生死など、実はスミンにとってはどうでもよいことである。サミュエルを利用しての女王暗殺は、成功すればよし、失敗してもそのままサミュエルが死んでくれれば邪魔者が消えてむしろありがたいくらいだと思っていた。実際にはサミュエルは姿を消し、どこかで生きている。彼女にとってはそれが最も気味が悪い。あの盲人が自我を取り戻せば、自分を殺そうとするのではないか。
彼女はその懸念に対して、最も過敏な反応を示した。
「盲人は見かけ次第、その場で殺すべし。かばう者、かくまう者も、同様とする」
このような命令が、王国の治安部隊及び全民衆に向けて布告された。太古、横行した術者狩りの復活である。かつて術者はその偉大な力をもって国を滅ぼし、人々を恐怖に陥れた。人々は自衛のため、術者と疑われる者を虐殺した。アルビノ、赤い髪、身体障害を持つ者などが、なんの証拠もなく疑いをかけられては殺された。その再来である、と王国民は震え上がった。
王国はただでさえ悪政により貧しい民が多く、目の見えない者は近親者によって殺されたり捨てられたりして、生きている者は少ないのだが、余裕のある家庭では養われていたり、後天的に失明したあと、いわゆる按摩業で暮らしている者もいる。そうした盲人どもが片っ端から斬られた。命令は見つけ次第の殺害であり、捕縛ではない。また命令が伝わるなかで拡大解釈がなされ、片目の者や聾者、老衰で視力の落ちた者までもが害を受けた。術者出現の報にここまで極端な対応を見せたのは、この国だけである。それは同時に、スミンの恐怖を暗示している。あの盲目の術者サミュエルを、王国の全民衆で追い立てれば、少なくともそうでない状況より、彼女は安全になるだろう。
かくして、王国の政情は以前に増して悲惨かつ不安定となった。
そうした状況下で、ミネルヴァ暦1398年5月28日、「水龍門事件」が発生する。スミンが実質的に政権を掌握するようになってから、最も大規模な叛乱が、まさに彼女の膝元である王国の宮殿を舞台に発生したのである。




