第25章-① 長旅の末
出会いの夜、ミハイル長老と一行は胸襟を開いて、互いの事情と思うところを語り合った。
ミハイルの血族は、十世代ほど前、ヤノ家から離れ、名前を変えて当時のバブルイスク帝国に移り住んだ。だが異民族であるというので疎外され、自由の地を求め自らポリャールヌイへと流れた。往時は付近に集落らしい集落すらもなく、いわば世捨て人のような生活であったらしいが、やがてこの一帯に豊富な天然資源が埋まっていることが分かり、段階的に開拓団が派遣された。地理に精通しているために、ミハイルの先祖は帝国の官僚からも重宝されたらしい。
さらにマルコフ独裁体制となる前後からは、流刑となった雑多な連中が流入して、キツァの集落が形成された。ミハイルは成り行きで長老の地位におさまった。もっとも行き場のない人々が寄り添って暮らしているだけなので、長老独裁といったものではなく、緩やかな合議制でうまくやっているらしい。集落の寄り合いでも、今週は誰々が狼の親子を仕留めたとか、まもなく川魚の活きがよくなる時期だとか、そういう世間話がほとんどらしい。たまに、食料や資源の取り分など、重要なことも話す。
人間界の、最果てのような場所である。
ミハイル長老の孫娘、アリサは年は16で、この時代の感覚ではすでに適齢期を迎えつつある。彼女の美貌は早くもポリャールヌイの各地に知れ渡っていて、あちこちの集落から縁談の誘いがあるらしい。
(このような極北の僻地でも、どの村の誰は美しいとか、そういう噂が流れるのか)
と、ミコトはそのことが少々おかしかった。案外、人の営みのありようというのは自然環境がどれほど違おうとも、そう大差はないのかもしれない。
娘の両親、ミハイルの息子とその嫁は、病を患って早くに亡くなったという。
「だから、ミハイル殿も愛らしい孫娘を手放そうとなさらないのですか」
アオバがからかうようにして尋ねるほどに、全員がうちとけた。
孫を嫁にやらないのには、理由があるという。
「孫娘には、術者ヴァイオレットより預かった使命がございます」
「使命、なんですそれは」
「それは追々、お話しするとしましょう」
老人は穏やかで品のいい微笑を浮かべつつ、話題を核心へと近づけた。
「それで、ご一同がこのキツァを訪ねられたのは、やはり力を求めてのことですか」
「はい、レティさんはアマギの里にて、光の術者のため力を遺されており、サミュエルさんはそれを引き継がれました。里では、同様にこのキツァにもレティさんの力の名残があると聞き及んでおり」
「事実でございます。確かに彼女が丹精込めて生成した氷晶が、この地にはある」
「では」
「お望みなら、氷晶に触れ、先へ進まれるがよろしかろう」
ミコトとアオバは、喜びに近い感情をもって視線を交差させた。彼女たちの苦労も実ろうというものである。だがさらに視線を移すと、この件の第一の当事者というべき人物はずいぶんと浮かない顔をしている。
この期に及んで、サミュエルはまだ迷っているのだ。ミコトはサミュエルのそうした心の弱さをもどかしく思いつつ、同時にいたわってやりたい気持ちもある。すでにふたりの旅は半年に近い。それだけの期間、多くの危険や窮地をともに経験し、互いを信頼し、慕う心情が醸成されている。
「サミュエルさん、今日は長旅を終えられてお疲れでしょう。ひとまず休んで、明日また考えましょう」
「ありがとうございます、そうします」
「実にも、実にも」
ミハイルがつやのある微笑で、何度か頷いた。
長老宅としてはいささか情けないことながら、客を含めて全員が横になるには狭すぎる。話し合い、サミュエルだけがこの小屋に泊まり、ほか三人と一匹は倉庫に寝ることになった。
集落の各住居が小さいのは実は理由があって、無駄に広くすると外気に触れる面積が広くなり、内部の気温が下がったり、燃料が余分に必要になったりするために、あえて最小限度のつくりにしているらしい。確かに同じように薪を集め暖をとっても、だだっ広い倉庫の方がよほど寒い。
ミョウコウがせっせと焚き火の火力を上げる作業をしている横で、ミコトは改めてアオバと話をする機会を持った。
「アオバ、こんなに大変な旅についてきてくれて、本当にありがとう」
「いいえ、むしろ晴れ晴れしいです、私はヤノ家にご奉公している頃はずっと、父の間諜として働いておりました。ただ、ご一門が奸臣の手で一掃されてしまってからは、ミコト様とミスズ様を見捨てるに忍びなく。以降はすべて、私の意志でお二人をお支えし、王国に戻ってからはサミュエル殿の術者としての道に力を貸すのが我がさだめと、そのように思っているだけでございます」
「あなたがいてくれて、本当に心強く思ってる」
「そのお言葉、痛み入ります」
二人は期せずして沈黙し、それぞれに体験した里での出来事を回想した。
ミコトにとって、アマギはうすら寒い印象しかない。よそ者に異様に冷たく、一方で客人と分かれば身内と同様に歓迎する。頭領の意は絶対で、その娘に対する仕打ちや、惣領たる息子の正体について知ってなお、服従することを厭わない。恐らく里の人々には彼らなりの正義なり論理なりがあったのであろうが、いずれにしてもミコトには田舎という特殊な環境が奇形的に発達した結果、あのような不気味な里の雰囲気がつくられたのだという気がする。二度と関わりたくないものだ。
アオバにはさらに複雑な思いがある。ミコトは単なる客人として里を経験しただけであったが、彼女にとって里は生まれ故郷であり、自らが育った場所であり、そこには多くの仲間がいて、そして誰もが彼女に対し、頭領の一人娘に対する敬意を払った。彼女も、知恵があり、用心深く、機転が利き、そして冷徹な判断力と不屈の魂を持った忍びという連中が誇らしい。
だがそれ以上に、あの里は悪夢そのものであった。彼女を母の身代わりとして犯し、子を産ませ、それを惣領として立てた父、そしてそれら事実を知りながらすべてを許容し、彼女の悲痛な思いを黙殺した里の人々。
あの頃、彼女が自ら里を出る決断をしなければ、彼女は父の奴隷として今も里に囚われていたに違いない。里の外の世界を知ることもなく、当然、ミコトやサミュエルとの接点もなかったであろう。今は、追われる身であるとは言え、自由を手にしている。自由など、里では通用しなかった。むしろそのような言葉さえ、里には存在しなかった。しかし里を一歩でも外に出れば、自由がある。どこまでも、ミコトとサミュエルのために尽くそうと思っている。一度はマヤのために殺されかけ、そしてマヤによって拾った命である。
里から、父から自由になったアオバが、彼女自身の意志によって最も成し遂げたいことが、二人のために役立ちたい、ということであった。
「サミュエルさんは、術者の力をこちらでも継承されるでしょうか」
「そのために来たのだから、迷いはしても、そうするはずだけれど」
「何を迷われているのでしょうか」
「彼は、怖いのよ」
「怖い」
「大きな力を得るのが、怖い。術者としての力などない方がよい、と彼自身はそう思ってる」
「よしんば力を得られたとして、そのような迷いや葛藤を抱きつつ、闇の術者スミンを討つことがかないましょうか」
「分からない。けど、私が最後まで支えてゆくつもり」
アオバは眉のあたりのこわばりをやや緩めた。
「ミコト様は、変わられましたね」
「どのように?」
「強くなられました」
それは強くもなるだろう、とミコトは苦笑しつつ思った。王国から教国へ亡命しただけでも強烈な体験ではあるが、特にこの半年間に経験した数々を思えば、人間としてたくましくならぬわけもない。
「今日はもう寝ましょう。明日もあることだから」
倉庫は底冷えのする寒さだが、火を熾し、毛皮の被り物を重ねれば、寝入るには充分な快適さである。
三人はそれぞれ火を背に横になり、まどろむ暇もなく、眠りに身を任せた。
ただ一人、眠れぬ夜を鬱々と過ごす者もいる。
サミュエルである。




