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ミネルヴァ大陸戦記  作者: 一条 千種
第24章 氷雪に閉ざされし大地
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第24章-⑥ 流刑地ポリャールヌイ

 さて、このあたりで視点をほんの一時的ながらミコトら一行から連邦国内の事情へと移す。

 まずおさえておきたいのは、チェレンコフが甘い妄想に(ひた)っていられるほど、マルコフ議長とイヴァンチェンコ長官の関係は空疎でも表面的でもなかったということであろう。イヴァンチェンコはチェレンコフが身柄を引き取った女と盲人の正体が、教国に現れたという術者に関係しているのではないかという疑念を強めていたが、その後、教国の王宮内に潜入させてあったスパイから定時連絡が戻ってきて、ちょうどそこに術者に関する詳細が記述されていた。女王エスメラルダの主治医で側近のサミュエル・ドゥシャン、特徴は赤い髪の盲人。また、王宮にはほかにも変わった人物が女王の口利きで滞在していて、例えば王国の十常侍(じゅうじょうじ)ヤノ家の一門ミコトとミスズの姉妹。

 そこまで聞けば、イヴァンチェンコにはその主人であるマルコフに報告と提案を躊躇する理由はない。術者とその一味が、チェレンコフ邸にいる。味方にできれば我が連邦が世界に君臨することができよう。ただちに特殊部隊を派遣し、術者を招くべし。

 マルコフはかつてバブルイスク王国と名乗っていた旧体制を革命によって打倒し、連邦を建国してのちはその支配基盤を固めることに半生を費やしてきた。剛腕であり、したたかでもあり、それだけに野心もある。彼が、現在この大陸を覆っている戦乱に沈黙し、中立を保っているのは、関心がないからではなく、単に大規模な軍事動員を行うだけの政治的安定を彼が得られていないからに過ぎない。政府高官のみならず、軍の幹部の多くを粛清し、広大な領土を一元的に管理し統括するだけの軍事指導力を回復できていない。もし、この状況で王国なり合衆国なり、強力な軍事力を持つ他国が侵攻してきたら、連邦は崩壊していたかもしれない。その意味では、こうした強大な隣国が角を突き合わせて紛争に明け暮れているというのは、都合のいい状態ではあった。

 そこにきて、術者の力を手に入れることができればどうなるであろう。その誘惑はマルコフにとっても、彼の懐刀であるイヴァンチェンコにとっても強烈であった。軍事面において万全でなくとも、かつて一国をたった一人の術者が滅ぼしたとされるように、その力を手に入れることは十万の兵を手に入れるのとひとしい、いやあるいはそれ以上の意味と価値を有するであろう。

 だが、彼らの思惑はともかくとして、術者の身柄を確保するという秘密警察の命題は失敗に終わった。その直接の責任がチェレンコフにあると、イヴァンチェンコ長官は考えている。術者サミュエルの保護者か、恋人か、それとも教国から派遣された監視者か、それは分からないが、ミコトという同行者を我が愛人にしたいばかりに、秘密警察の襲撃前に彼らを逃亡させ、あまつさえ伏兵を配置して、特殊部隊員に死傷者を複数出した。

 叛逆者である、としてチェレンコフは即刻、国家保安委員会の本部へと連れ去られ、苛烈きわまる拷問を受けた。無論、チェレンコフは真相など何も知らない。彼からすれば、秘密警察の突然の訪問を受け、押し問答をしているうちに、何者かが介入し、いつの間にか彼が叛逆者として拘束されることになっていた、というだけのことでしかない。ミコトもサミュエルもまるで蒸発したようにいなくなっており、彼らを保護した目的がミコトを愛人にしたいがためという実に素朴な動機であったことを思えば、彼の思惑も野心も、そして彼なりの善意も、なんの意味があったろうか。

 チェレンコフは、即日結審による略式裁判において、国家叛逆罪の罪名を宣告され、その日の夜に断首刑に処せられた。チェレンコフは常にマルコフの側に立ち、そのことのみによって国家の顕官たる地位を手に入れたが、最後はその主人の誤解を解くことができず、粛清の対象となって世を去ることとなった。

 マルコフは猜疑(さいぎ)心と劣等心の異常に強い人物である。背が低く、連邦の少数民族の出であった。幼少の頃から、他人に対する疑いや嫉妬、コンプレックスに悩まされながら、自らの人格を陶冶(とうや)せざるをえなかったのであろう。彼が手掛けた政府と軍部の大粛清においても、彼のそうした心理的な屈折が原因とされている。実際、秘密警察による粛清対象の検挙に物的証拠は必要とされず、恣意的な逮捕と拷問の結果、自白を引き出せればそれで即刻、処刑場行きとなった。公職にある者だけでなく、教師や医師、文化人など影響力のある人物でわずかでも体制に批判的な者は被疑者の家族含めて最終的には処刑されるか、流刑地へ送られることとなる。考えてみれば、このような極端な支配体制を構築する者が猜疑心や劣等心と無縁であるはずもなかろう。

 チェレンコフの家族や愛人らも、まとめて逮捕された。アオバやサミュエルの助力がなければ、秘密警察に拷問され、処刑されるか流刑に処せられるかどちらかであったろうと思うと、気が強い性格を自他ともに認めるミコトも身震いせずにはいられない。

 秘密警察は目下、ミコトらを血眼(ちまなこ)になって探している。いち早く首都を脱出し、ポリャールヌイへと発つというアオバの判断は、的確であったと言える。

 もっとも、彼女らがもともとポリャールヌイを目指していたことは秘密警察も把握している。すぐに騎兵隊を向かわせようとしたが、冬から春にかけてのこの時期は路面の氷雪が融解を始めるために馬が脚をとられ、思うように進めない。

 軽歩中隊が、ポリャールヌイへと向かった。

 一行はこれら追跡隊に追いつかれぬよう歩みを急がせ、ミコトなどは足の裏が血まみれになりながらも必死に逃げ続け、4月4日にはポリャールヌイ地方へと達した。

 極北の地、ポリャールヌイ。

 まさに流刑地と呼ぶにふさわしい情景であった。4月というのに、この地域は未だに世界が白い。人影はなく、獣でさえ姿はまばらである。日の光は弱く、ともすれば肌を切るような冷たい雪が舞った。厳しい訓練を受け、寒さにも強いはずのサギリでさえ、アオバの背中で震えが止まらなかった。犬は裸足(はだし)であるため、生身で人間とともに歩けばすぐにしもやけから凍傷を起こす。このためイズマイールを発してからは、サギリはアオバに背負われるがままであった。

 ポリャールヌイには、小さいがいくつかの集落が散在している。アマギの里の頭領ミナヅキから聞いたのは、このうちのキツァという集落である。それがこの広大なポリャールヌイ地方のどこに位置しているのか、実のところ一行の誰もが知らない。首都イズマイールの人々も、知る者はいなかった。要するに地図にも載っていない場所である。首都でキツァについて詳しいとすれば秘密警察の連中が最も情報に通じているであろうが、無論、聞けるはずもないし、教えてくれるはずもない。秘密警察は連邦最大の情報機関であるが、彼らは情報を集めても他人に渡すことは絶対にしない。連邦政府のほかの公的機関に対してさえ、マルコフの特別命令なくしては非公開主義をとっているほどである。

 つまり、キツァへ行くには、まずポリャールヌイへ赴き、そこで改めて情報を集めるしかない。

 ポリャールヌイの南の玄関口であるノヴァヤゼムリャという貧しい町に2日間ほど逗留し、略式ながら最新の地図と、必要な食料や装備の補充、さらに道案内のための奴隷も一人借りることができた。例のよってそれら手配りは、アオバがほとんど一手で引き受けた。

 しかし地図を持ち、氷が泥に変化してもなお、彼女らの行く手は厳しい自然がいくつも試練を課した。まず、食料がない。人の姿がなく、野生動物もほとんど見当たらないために、栄養を現地調達することができなかった。川も冬季は凍結してしまうために、口に入れられるようなものがない。それでもイズマイールやノヴァヤゼムリャで仕入れた保存食で食いつなぐことができたが、なにより困ったのが風景や地形にあまりにも変化が乏しいため、幾度も迷子になることであった。借り受けた奴隷もキツァへは一度しか出向いたことがなく、しかもこの地方で集落間移動が行われるのがたいていが短い夏場だけだから、しばしば自らの位置を見失い、ために無駄な移動により体力と時間を浪費した。

 ようやくキツァに達したのは、4月も19日に入ってからであった。アマギの里を出てから、なんと5ヶ月も経過している。イズマイール滞在期間も含めて、途方もない旅路であった、としみじみ感懐に(ひた)りたいところではあるが、残念ながらミコトらの眼前に展開された光景はそれほど情緒的でも美的でもなかった。むしろこの集落のあまりにも寒々しく貧しげな様子に絶望の気持ちを抱かざるをえなかった。集落は家というより小屋の集まりで、しかも人が住んでいるというぬくもりや活動の気配もない。このような地に流され、暮らすことを強要される者の心理に思いをいたしたとき、流刑という、居住地の強制それ自体が刑罰として機能することの意味と合理性が分かろうというものだ。4月というのに、この地域には春のにおいがない。たとえ雪や氷が()け始めても、そこから現れるのは固い地肌か枯れ木ばかりで、豊かな緑や花の色はどこにも存在しない。政治犯であろうが犯罪者であろうが少数民族であろうが、ひとたびこのような土地に送られたら、反抗するための気概どころか、生きるための活力すら徐々に失っていくことであろう。

 人の住む場所ではない、とミコトは思った。

 ミコトを含め、全員がこの集落の様子にしばし呆然としていたが、やがてアオバが進んで、小屋のひとつを訪ねた。この集落の酋長(しゅうちょう)か長老か、いずれにしても事情をよく知るであろう者に会いたい。

「キツァの長老は、こちらのようです」

 向かった先は、これが長老の家なのか、とミコトが唖然としたほど小さく粗末な家であった。ミコトの観念では、長老の家とはときに集落の民を集めるために大人数を収容しうる施設であるべきで、付随してそれなりの威厳や権威がつきものであろう。その意味では、長老の家が小屋であるというのは、ミコトにとって衝撃をもって受け止められた。この程度の結構では、ミコトら一行を招き入れるのがもしかしたら精一杯かもしれない。

 アオバが木の扉を叩くと、中から顔を見せたのは白髪の老人であった。開口一番、容易ならぬことを言う。

「おや、いずれ珍しい客人があるとは思っていたが、このような時期においでになるとは」

「私たちが訪れることを知っていたのですか」

 アオバの問いかけに、老人はいかにも好々爺(こうこうや)然とした笑いを放ち、手招きをして小屋に入るよう勧めた。小屋は不思議なことに家具らしい家具がなく、中央に()き火があって、それがようやく人間らしい生活を象徴している。小屋に光と熱をもたらし、人の命をつなぐ唯一の装置だ。これがなければ、野外と同じく、夜には小屋の中の温度は氷点を下回るであろう。

 一行はめいめい、冷たい板の上に場所を定め、腰を下ろした。サギリはサミュエルとともに、火に最も近づいて、小さく丸くなった。老人が客人のため、木片や枝を加えると、火に勢いがついた。そこに、鉄瓶をかける。

「この地は貧しい。茶などはないゆえ、白湯(さゆ)でご容赦くだされ。話はそれから」

 気配が薄いが、小屋にはもう一人、若い娘がいる。長老の孫娘であろうか。伏し目がちだが、目鼻立ちが整い、肌がまるで白亜のように白い。貧しい流刑地に、これほど清らかな娘が育つものであろうか。

 この娘が、全員に白湯を捧げるように渡して回った。表情が氷のように冷たいのが玉に(きず)だが、挙措、はかないほどに静かで、つつましげである。

 白湯が、実に美味(うま)い。

 たったひとつの焚き火、一杯の白湯ではありながら、人の心を温め、ほぐす効果がある。ほっ、と思わずミコトが吐息を漏らすと、自然、小屋の全員が穏やかな微笑を浮かべて互いの顔を見合わせた。

 よき頃合いで、老人が水を向けた。

「さて、何から話しましょうかな」

 それに応ずるに、ミコトが急激に血のめぐりがよくなったために鮮やかに紅潮した顔を上げた。

「まずは、私たちが来訪することを予知されていたようですが」

「えぇ、存じておりました。いずれ光の力を持つ術者が異国よりお越しになると。はて、皆様のうちのどなたが、その術者でいらっしゃるか」

「その前に、誰からそのようなことを聞かれたのです」

「氷の術者ヴァイオレットから」

 その名前が出た時点で、ミコトはこの老人が事情に相当程度、通じていることを確信した。サミュエルとアオバも黙して(うなず)くのを見届け、ミコトはすべてを老人に話すことを決めた。

「長老様。私はミコトと申し、もとは王国の官僚の一門です。政変があり、侍女のアオバとともに教国へ亡命を。こちら、光の術者であるサミュエルさんとは亡命先の教国王宮で知己となり、ゆえあって王国へ舞い戻ることとなりました。アオバの故郷、忍びの里であるアマギにて、レティさんの(のこ)した力を受け継ぎ、こちらへ参った次第です。彼はミョウコウ、そこで丸くなっているのがサギリで、話すと長くなりますが、私たちの道連れです」

「ほほう、丁寧に教えていただき、感謝いたします。私は名をミハイルと申します。こちらは孫娘のアリサ」

「お孫さんと、二人暮らしを」

「そう、そして我々は数世紀前、ヤノ家から分かれた術者の一族でもある」

「えっ」

 ミコトは思わず呼吸も忘れて、老人の春風を感じるような柔和な表情に見入った。彼の言うことが真実ならば、ミコト、サミュエル、アオバ、そしてこの老人と孫娘とは、いずれも(いにしえ)術者の末裔(まつえい)ということになる。

「それではあなた方も、祖先を同じくする同胞であられたのですか」

「その通りです。アマギの里の頭領一族とも縁続きであり、かの地に術者ヴァイオレットの秘した遺産があったことも存じております」

「まさか、あなた自身も術者?」

「いえいえ、恐らくミコト殿と同じ、血筋を引くが力は受け継いでおらぬ、空の器でございます」

「空の器」

「積もる話もございましょう。ささやかながら、孫に晩餐(ばんさん)の支度をさせます。まずはおくつろぎください」

「では、お言葉に甘えて」

 術者の存在が歴史から消えて、幾久しい。この数十世代、人々は術者をおとぎ話の存在としてしか認知していなかったが、実際にその末裔はこのようにして大陸各地に散らばり、細々と命脈を保ってきたもののようである。その生き証人たちが、ここには集まっている。

 夜、乾いた黒パンや獣臭いスープで胃の腑を温めながら、ミコトはふと、王国から教国へと亡命した当時のことを思い返した。あの頃は、自分のこれからの人生で、これほど術者について深く関わることになるなど思いもよらなかった。夫を亡くし、一門を亡くし、妹のミスズと侍女のアオバだけを連れ、異国の地を目指し、我が命を保つのにも汲々(きゅうきゅう)としていた。それが今や、術者と術者の一族たちとともに、歴史の裏面を歩いている。人の運命など、分からない。

 (ミスズは、息災でいるだろうか)

 妹のミスズの身柄は、エスメラルダ女王に直接、保護を依頼している。彼女は女王の人柄にも能力にも、一点のくもりなく信頼を寄せていたが、どれほどの大人物でも、ミスズの面倒を片時も離れず見てくれるわけではない。むしろ女王として多忙をきわめるだけに、ミスズのことを優先して気遣ってくれるわけもない。妹は一人、王宮に残されて、心細い思いに苦しんでいるのではないか。

 (必ず生きて、教国に戻らなくては)

 それが、姉としてミスズを守ることであり、エスメラルダ女王の信託に応える道であり、そしてミコト自身、サミュエル自身のためでもある。

 ミハイルという人物、善人で裏もなさそうに思われるが、このポリャールヌイ、キツァの集落にそう長居することはあるまい。

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