第24章-③ 愛人契約
ミコトらがチェレンコフ邸に庇護されてから数日。彼女らは術者だの教国だのは毛ほどの気配も見せず、一言も口にせず、謙虚で慎ましい客人として暮らしている。ミコトは衣服のつくろいや屋敷の掃除を、サミュエルはチェレンコフ家の子弟に学問を教え、ミョウコウは薪割りなど力仕事をして、居候の身を恥じて働こうとしているように見せた。ミコトからすれば、事情に疎い連邦領においては、誰であろうと信を置いてはならぬと考えている。人を見れば秘密警察の手先、くらいに思っておいた方がいい。
そうした彼女らの動きを執拗に注視している者がいる。
それが国家保安委員会のイヴァンチェンコ長官である。彼は週に一度の休日を過ごす山荘に、一人の人物を招いている。
「それで、ヤノ家のご令嬢の様子はいかがです」
「いや、おとなしいものだ。怪しいところはない」
「術者の疑いがある青年は」
「あれは君、ただの盲だよ」
術者の存在など本気で信じているのかね、あれは教国女王のプロパガンダでしかない、教国の女王は曲者というからな、と客人は声にまで分厚い脂肪をまとわりつかせて言った。
「教国の王宮に潜伏させている者からの情報です。ただの根も葉もない風説とも思えませんが」
「職務熱心なのは結構だが、おとぎ話を真に受けることよりすべきことがあるだろう」
「ですが、術者でないにしても、他国からの来訪者で怪しい者はよくよく調べませんと。あの連中は、あなたの口利きによってお引渡ししたのですから、責任はとっていただきますぞ」
「イヴァンチェンコ長官、私を脅すのかね」
「とんでもない。注意怠りなく、と老婆心ながら申したまで」
ふん、と客人はやや不快そうに鼻息を漏らした。イヴァンチェンコは吝嗇家で、客人に対しても安物のウォッカしか出さない。
「私はミコト嬢を知っている。いずれポリャールヌイへの道が開かれたら、盲とつんぼはさっさと追い払ってしまって、ミコト嬢はうまく言いくるめ、私の手元で愛人にする。それまで手出しはならん」
「分かりました。しかし私にも私の仕事があります。現在、王国の消息筋に金をばらまいて、彼女らの身元や足取りについて情報を集めております。新たにつかんだ事実によっては、国家保安委員会の決定のもと、改めて逮捕します」
イヴァンチェンコは、この国の指導者であるマルコフ議長の気に入りの若手である。まだ若いが秘密警察の長官に任命されるだけあってマルコフからの信任は絶大で、相手が誰でも臆することがない。客人の政治的地位に敬意と遠慮は払いつつも、任務に対しては忠実にできている。一定の譲歩はしても、それ以上の重大な事態であると見れば、彼の権限でミコトらの身柄を取り戻して再び尋問する気でいる。
客人は気分を害し、ウォッカも口に合わなかったため、早々に山荘を辞した。
自邸では、先ほどまで話題の中心になっていたミコトが、まさか秘密警察の最高幹部と彼が会っていたことなど露知らず、愚かしいほど平和に暮らしている。
「チェレンコフさん、サミュエルさんの眼帯がだいぶ傷んできたので、取り替えたいのです。適当なさらし木綿などありますでしょうか」
「ミコト様、そのようなことはメイドにお申し付けいただければよいものを」
「いえ、サミュエルさんは大切な方ですし、慣れていますから」
「承知しました。私が用意いたしましょう」
チェレンコフには野心がある。ミコトを愛人にすることだ。彼はこの国のいわば内閣にあたる国家評議会の重要メンバーとしての表の顔が持つ家庭とは別に、裏の顔でも特殊な家庭を営んでいる。それが王国から奴隷として送り込まれてくる少女たちを愛人として飼うことで、彼はすでに一個小隊規模の愛人団とでも呼ぶべき集団を抱えている。奴隷というとずいぶん悲惨な印象の言葉であり、実際に王国から貨物船に満載されてやってくる奴隷たちは、男は漁船や鉱山、さらには糞尿処理や死体処理といった過酷で危険な仕事を強いられ、また女は性的奴隷として売り飛ばされ、いずれも価値がなくなると路傍に放り出される運命にあった。その点、彼は奴隷に対して存外に優しさや配慮がある。
彼には、奴隷に対してと言うより、王国人に対して特別な感情を抱いていた。それはひとつには激しい性欲の対象であり、別の面では民族としての尊さのようなものを感じている。このため、彼は王国出身の女たちを奴隷として買い入れつつも、その一人ひとりに我が愛人として不自由のない生活を与え、それぞれに彼なりの愛情をかけている。
秘密警察に対し、ミコトの身分を保証した時点で、彼はミコトを愛人にする夢想を描き、自らのその猟奇性を自覚してさらなる倒錯的な興奮を覚えた。ミコトは彼が尊敬するタクミ・ヤノの姪であり、王国にあってはもともと名流で知られている貴種の家柄である。王国の政治事情が大きく変化し、彼女は今では哀れな亡命者であり、さらに秘密警察に疑いをかけられている身だが、それを彼が救い出せば、ミコトは彼に深い恩義を感じ、生涯にわたる奉仕を誓うであろう。
彼が見るところ、ミコトは王国人のなかでも特別な美人というわけではないが、さすがに高貴な血筋を引いているだけに端整な目鼻立ちと、気の強そうな黒い瞳を持っている。このような女を抱けたら、どれほどかいいことだろう。
もっとも、こうした想いはチェレンコフの願望の域を出ず、当のミコトにはまったくその気がない。彼女としては、状況が悪い方向に変化する前に、さっさとポリャールヌイへと向かってしまいたいと思っている。秘密警察などというものが跋扈するこの国に、そもそも長居したくなどない。
チェレンコフは、機会をうかがっている。
そして3月になり、まもなくポリャールヌイへの道も人が歩くのに耐えうる状況になったろうと思われる頃合い、彼はミコトのみを呼び出して、愛人契約について持ち出した。ミコトの驚きといえば、それは尋常一様ではない。
「ミコト様、私はあなたを愛人として、別邸にお迎えしたい」
と、そう臆面もなく言ったチェレンコフの顔を、彼女は生涯にわたって忘れることはないであろう。人間というもののなかには、なまじ権力を手に入れ、力を持つごとに、反比例して羞恥心を失い、面の皮が厚くなる輩がいるらしい。そしてその屈折した成長を遂げた自我が、性欲というはけ口を見出して人の前にさらされたとき、これほど醜悪な生き物ができ上がるのだ。
呆気にとられつつ、行き違いがあってはならぬとの思いで、ミコトは尋ねた。
「失礼ですが、今なんと?」
「あなたが、私の愛人になるのです」
先ほどよりもやや強制力のある、そうなることがまるで既定の路線であるような物言いに、ミコトは不快感とともに、不穏な気配を感じた。
彼女は、拒否の言葉をどう選ぶかに迷った。
とともに、怒りや悲しみよりもむしろ彼のために憐憫をおぼえた。このような手段で女を手に入れようとするなど、自らの尊厳を貶めるだけであろう。
だが、断りようによっては相手がどう出るかもわからない。
「チェレンコフさん、せっかくですが私にはやるべきことがあり、それに確かな身寄りのない妹がいます。一度は嫁いだ身で、亡き夫に操を立てて一生を終えるつもりでもございますので、ご希望には添えません」
「ミコト様は花の女ざかり、お子もいらっしゃらないのなら、いつまでも女の操にこだわることもないでしょう。よいお話だと思いますよ。妹御も、私がともども身柄をお引き受けいたします。今はどちらに」
教国にいる、とは言えない。彼女が教国に亡命したことは秘匿している。それに言えたとしても言うつもりはない。このような汚らわしい男に、今はたった一人の家族で、同じ血を引く未婚の妹を売り渡すなど、想像するだけでおぞましい。また、この男に女としての生き方を規定されることにも、彼女は激しい嫌悪感を抱いた。
ミコトは不快や嫌悪を表情に出さぬよう、努めて平静をよそおいつつ、
「お断りします」
とはっきり拒否の意志を示した。
チェレンコフも表面的にはにこやかな態度を崩さず、だが脂肪の豊かすぎるほどの顔にはぎょろりと油断のない目がおさまった奇相をぶらさげたまま、あきらめようとはしない。
「ミコト様。私もあまりこういったことは口にしたくないが、あなたは本来であれば国家保安委員会の呵責ない追及を受ける身。それが今は手厚い保護を受けられています。もし私の庇護がなければどうなるか、想像力をわずかでも働かせればお分かりでしょう」
「目的のためなら脅迫も辞さない。それが私にとってのよい話ですか」
「不自由はさせません。逃げも隠れもする必要はない。妹御とともに暮らせる。よいお話ではありませんか」
愚かしい、とミコトは思い、その言葉が喉まで出かかったが、危うく腹中まで引き戻した。ミコトには名流ヤノ家の一門として、また女として、さらには人としての冒しがたい誇りがある。それが彼女の強さの根源でもあり、彼女の生き方を定義しているとも言える。だが一方で冷静な計算もできる女だ。ここでチェレンコフの申し出をつっぱねれば、それはつまり当面の滞在場所を失うということであり、秘密警察に追われて、このあまりに広大な連邦領を、そこに住まう人々のすべてを敵に回して逃げ続けねばならないということなのである。
(危険すぎる)
とは言え、彼女がこの不愉快きわまる申し出を受け入れたとして、サミュエルがミョウコウを連れ、ポリャールヌイまで到達し、目的を遂げることができるだろうか。
できるかもしれない。彼は盲人でありながら、単身、同盟領西方の都市ナジュラーンから王都トゥムルまでを移動したほどの者である。しかも術者で、常人には想像もできないような特殊な能力まで持っている。そう考えると、ミコトはサミュエルにとって必ずしも不可欠な存在ではないのかもしれない。むしろミコトとともに秘密警察から逃走する方がよほど困難な旅路になりそうでもある。
しかし。
「少し、考えさせてください」
と、ミコトはそう言った。自分の一身のことを考えるなら、我が誇りのために断るのもいいかもしれない。秘密警察に引き渡され、すべてを白状するまで凄惨な拷問を受け、その過程で死ぬか、あるいは洗いざらい吐いたあとで殺されるか、そのどちらかの運命が彼女を待っているであろう。それも自分の貞操と矜恃を守るためなら、彼女はかまわないと思っている。
だが彼女には、クイーン・エスメラルダから引き受けた依頼がある。サミュエルの人生に対して、責任がある。少なくとも彼女はそう思っている。その責務をまっとうするためには、ここでサミュエルと別れるわけにはいかない。
熟慮するため、彼女は一晩を費やした。
異変が起こったのは、その朝である。




