第24章-② 疑わしき異邦人
連邦国家保安委員会は、「血の十七日間」と呼ばれるクーデターでユーリ・マルコフが政権を奪取した直後に設置されたとされている。その任務は前述したように国内の治安維持が主であるが、マルコフ議長個人の福祉に資するために活動することもあった。具体的には政敵や反対者、不穏分子を政治的または肉体的に抹殺することである。
ただミコトらを逮捕したのは、無論だが前者の治安維持目的を達するためであるのは言うまでもない。逮捕の趣旨は、杖を持った盲人、つまりはサミュエルが教国に出現した術者ではないか、というものであった。これは現時点では疑惑に過ぎないが、実際には正鵠を射ている。疑惑の理由は、サミュエルが盲人であり、また彼の持つ紅茶色の髪は連邦人には遺伝的に出現しないこと、首都イズマイールに留まってさかんに情報収集をしていたこと。これらが憶測を呼び、そして憶測によって、ミコトらは逮捕された。この国では、秘密警察に疑われる言動をした、というただそれだけの理由で逮捕の法的根拠が整う。
秘密警察の職員は狭い密室にミコトを閉じ込め、三人がかりで尋問した。どれも人間性を失ったように無表情に、機械的に彼女に接した。彼らは本来聞きたいことだけでなく、枝葉の細かい質問も容赦なく浴びせた。彼女の生まれ、育ち、連邦にやってきた経緯、サミュエルやミョウコウの素性など。
ミコトはそれらの問いに慎重に答えていったが、すぐに自らの見通しの甘さを思い知ることになった。これだけの情報を集め、サミュエルやミョウコウの供述と照らし合わせれば、彼女らがでたらめを言っていることなどすぐに分かるであろう。そうなれば、拷問が行われる。尋問室には無言の威圧と脅迫を与えるためであろう、拷問に利用するためと思われる小道具がこれ見よがしに隅に並んでいる。ナイフ、鞭、釘、鉄球、恐らく血がしみ込んだためと思われる赤く染まった麻布など。
白を切り通しても、嘘をついていると分かれば彼らは決して釈放などしない。そしてミコトら三人の供述が完全一致するのは、彼女らが全員、真実を口にしたときだけである。その真実を引き出すため、秘密警察の連中はどれほど過酷な拷問でもやってのけるに違いない。
だがミコトには、彼女自身、思いもせぬ強みがあった。王国の旧指導者層である十常侍ヤノ家の一門という血筋である。
連邦は由来、王国とは友好関係にあった。経済面ではまず貿易がさかんで、陸路はさほどでもないが、大陸東海岸の港湾都市ミンスクが、王国のダリ港と南北で活発な海洋取引を行っている。珍しい商品としては、漁船や鉱山で働かせるために、王国の奴隷を買うなどしている。このためこの南北海洋貿易は、奴隷貿易と通称されることが多い。
政治的にも関係は良好で、特にヤノ家最後の当主でミコトにとっては伯父にあたるタクミ・ヤノが外交の辣腕家で、連邦内にもその人格を称える友人や知人が多かった。王国の政権が代わった今でも、連邦にはヤノ家に特別な心情を向ける者が多い。
それが効いた。
連邦国家保安委員会は、ミコトらに対し、「大いに疑義あり」として、王国の間諜もしくは教国に出現したという幻の術者ではないかとの心証を強めつつあったが、もしミコトが真実、ヤノ家の一門であるなら、これに拷問を加えた場合、タクミ・ヤノに恩義や親愛を抱く人物の感情を害するおそれがある。
捜査官らは内密に外交筋に調査を入れた。するとマルコフの側近の一人で、ヤノ家と親しい間柄であったアラン・チェレンコフという人物が、確かにタクミ・ヤノの姪にミコトという者がいた、と証言をした。
このあたりの確認に、数日間を要している。
ミコトは一切の事情を伝えられぬまま、狭く暗い独房でひたすらに事態の進展を待った。あるいは秘密警察は、方針を短期戦から長期戦に切り替えたのかもしれない、と思った。短兵急に自白を引き出せないと知った連中は、ミコトが音を上げるまで、じっと待つつもりなのではないか。だが、彼らが強制的な手段をとることをためらう理由が分からない。
人間、監禁状態で外部との接触がない状態が数日も続くと、孤独と不安で精神がまいってしまう。それでも、彼女ら自身の真の目的と素性を、明かすわけにはいかない。その決意だけが、ともすれば不安定になりがちなミコトの精神を、かろうじて自身の支配下につなぎ止めることに成功している。
それでもこの状態が続けば、やがて死への欲求が死への恐怖を上回るときがくるだろう。
(奴らはそれを待っている)
と、そうミコトは解釈していたが、実はなんのことはない、彼女はただ単に秘密警察の政治的配慮のため、放置されていただけであった。ミコトの身分について虚偽だと判明すれば次の段階として拷問が行われるが、事実であれば慎重な対応が求められる。秘密警察とは言え多分に政治的色彩の強い組織であるから、この件に利害の絡む人物がいないか、確認も入念である。
最終的に、チェレンコフにミコトを面通しさせることとした。ミコトとミコトの身分が合致するのかどうかを、実際に顔を見て証言してもらうのである。
「間違いなく、ヤノ家のミコト嬢である」
秘密警察が慎重になる理由、それはこの場合、権力である。ミコトはつまるところ、権力と血脈とに救われたことになる。
背景が分からないから、場所を移した上でより厳しい拷問が加えられるのだろうと、ミコトはいよいよ覚悟した。だが意外にも、護送された先は政府施設ではなく個人の邸宅のようで、幾人ものメイドがうやうやしく迎え、食卓には温かい料理が用意されている。焼きたての白パン、ハルチョーと呼ばれる牛肉のスープ、オジャクリという豚肉とじゃがいもの炒め物など、いかにも田舎臭いが充分な贅を尽くした料理の数々が、秘密警察に逮捕されてから粗末な黒パンや味のほとんどないスープばかりを腹に入れるしかなかった三人の心を踊らせる。まさか自白のための神経毒でも入っているのではないかとミコトは疑ったが、サミュエルとミョウコウがためらいもなく馳走にありつくのを見て、迷いを捨てた。
存分に食欲を満たしたあとで、主人のチェレンコフが帰宅した。ミコトは彼のことを覚えていない。
「ミコト様」
と、チェレンコフは敬意を込めてそう呼んだ。中年の男で、目が大きく、背が低くて、よく太っている。頭髪はなぜか後頭部にだけ残っていて、顔は常に脂が浮いている。
(よさそうな人だ)
と思った。
チェレンコフはまるで親戚のように親しみと敬意を示しつつミコトを扱い、サミュエルとミョウコウに対しても客人として礼儀を払った。確かに、よさそうな人ではある。
しかし、なぜこうもよくしてくれるのか。ミコトにはそれが気にかかっている。
「私は、タクミ・ヤノ殿に海よりも深く、山よりも高い恩義がある」
彼は、そのように表現した。
話によれば、外務部で国家間貿易に携わっていた若き時分、私欲に目がくらみ、輸入物品の横領に手を染めていたらしい。その事実を秘密警察が嗅ぎつけ、本格的な調査の手が及んだ。その際、王国の外交官であるタクミ・ヤノが巧妙に細工をして、チェレンコフの関与を示す証拠の一切を隠滅した。タクミ・ヤノ自身は横領に加担してはいなかったが、チェレンコフと面識があったことから、我が身の危険も顧みずに情けをかけてくれたもののようであった。
以来、チェレンコフはタクミ・ヤノとその一門に対し尋常ならざる敬意を払っている。一度、彼は王国のヤノ邸を訪ねたことがあり、幼少期のミコトを見かけている。尋問室で見たときにすぐに分かった、と彼は言った。
ミコトは、縁もゆかりもないと思い込んでいた連邦で知己を得たことに吐息が漏れるほど安堵した。ヤノ家に生まれたことを、彼女がこのときほど感謝したことはない。
だが、このチェレンコフなる人物を無邪気に信用するのは危険すぎる。例えば、
「ところでミコト様。今回はポリャールヌイを目指されるとか。あのような僻地にいかなるご用向きが」
と、そう聞かれたとき、ミコトは警戒心を抱かずにはいられなかった。ここまでの筋書きがすべて、秘密警察が仕組んだことだとすればどうする。つまりこのチェレンコフなる人物が実は秘密警察の手先で、彼を通して情報を手に入れる策略だとしたら。柔和な表情で近づいてくる人物を、安易に信じてはいけない。さしあたり、利用できるところまでは利用して、内心では明確に線を引いておくべきだろう。
「捜査官の人にも言ったのですが、私たちはポリャールヌイのキツァという集落に行かねばならないのです」
「ほう、どのようなご用が」
「私とともに旅をしている赤い髪の盲人、私が王国にいる頃に知り合ったのですが、キツァに身寄りがいるようで。世話になったので、そちらまで送り届けてあげたいのです」
「なんと、それは徳の高いこと」
さすがはヤノ家の血を引くお方、とチェレンコフにとってヤノ家というのは神の一族のように思っているのかもしれない。
「ともかく、今日は我が屋敷においでなさい。ポリャールヌイはまさに冬季で行く道がふさがっています。氷雪が消え、ぬかるみが乾いたら、馬車を出してお送りしましょう」
「しかし、そこまでご面倒は」
「いやいや、王都トゥムルに比べれば田舎ですが、田舎には田舎のもてなしもございます」
ともあれ、寝泊まりする場所は必要である。ミコトはサミュエルとミョウコウにも伝え、しばらくチェレンコフ邸に滞在することとなった。
チェレンコフになにかしらの底意があるのかないのかがいぶかしいところだが、少なくとも秘密警察の拷問を受け続けて廃人にさせられるよりはよほどよい。
あとは、ポリャールヌイへの道が開かれるまでを安穏無事に過ごすだけである。
連邦首都イズマイールの冬はまだまだ長い。




