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ミネルヴァ大陸戦記  作者: 一条 千種
第23章 白き旗を掲げて
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第23章-① 非常の事態にありては

 ナッツァでの敗戦を聞いたヘルムス総統の様子は、まさに獅子の怒りに触れたようであったと伝えられる。彼は事態のあらましを知るや、前線の総司令官たるシュトラウスの無能に対しあらゆる罵詈雑言(ばりぞうごん)を口にし、彼が逃げ帰ったら即刻、処刑にすべきことを国防軍最高司令部の幹部らに伝達した。結果としてシュトラウスは教国軍のために戦死したわけだが、たとえ無事に撤退できたとして、命日がわずかに数日、移動したに過ぎなかったであろう。

 報告に続いて、戦場を離脱した第二軍、第三軍、第五軍、そして第八軍の将兵らが続々と帝都に帰還した。第二軍と第三軍は部隊としての統率も充分にとれた状態であったが、第五軍と第八軍に関しては組織のまとまりを完全に失っていた。第五軍は殿軍(しんがり)を務めて損害があまりに大きかったため、そして第八軍は指揮官が無能であったためである。

 この時点でベルヴェデーレ要塞の失陥と第四軍及び第七軍の降伏は帝都に伝わっていない。そのためヘルムスは、未だに戦局に対して希望的な観測を持っていた。

「この際、ブリュールは失っても構わない。打撃を受けた第五軍に新兵を加えて、帝都の防衛にあたらせる。代わってメッテルニヒ中将の第一軍をブリュールから呼び戻して、戦列に参加させる。第一軍、第二軍、第三軍、第八軍で再び進撃し、ベルヴェデーレ要塞の味方と呼応して教国軍を駆逐するのだ。かの要塞にはハーゲン博士もいる。天然痘による攻撃を教国軍に対して実施すればよい」

「我が総統」

 国防軍最高司令部総長シュトレーゼマン元帥は、そのよく太った体躯(たいく)のわりに甲高い声をやや落としながら、慎重に異論を口にした。癇癪(かんしゃく)を起しているヘルムスに下手に異見を差し挟むと、火に油を注いだような反応が返ってくる。とは言え、今回の決定には承服しがたい点が多い。ここ半年ほど、ヘルムスの鶴の一声が濫発されるたび、水際で幾度も阻止してきたのが彼である。もっとも、メッサーシュミット将軍の解任及びレーウの第二軍集団司令官就任や、その後のラドワーン軍に対する天然痘攻撃など、止められなかった命令の方が多かったのも事実ではあるが。

「身内の恥を(さら)すようではありますが、シュトラウス上級大将では教国軍を向こうに回して勝利を得るのは難しいかと思われます」

「シュトラウスは最高司令部の副総長、つまり君の一番の部下だ。その者では教国軍に勝てないと言うのかね」

「非常の事態にありては、非常の人事を用いるべきかと」

「名前を言いたまえ」

「第二軍のベーム中将のみが、前線を統括するにふさわしいでしょう」

「却下する」

 ヘルムスは、ベームの能力は認めつつ、感情の面では嫌っている。信用もしていなかった。一体に、彼はいわばメッサーシュミット閥とでも言うべき連中に不信を抱き、警戒もしている。為政者にとって、軍部内に大きな派閥が形成されることほど不快を呼ぶ出来事はない。無論、メッサーシュミットは高潔で清廉と称せられるに足る人物で、派閥づくりをして自らの権限や影響力を肥やすような真似はしなかったが、ヘルムスからの見え方は違う。特にベームは実績も人望も大将へと進むにふさわしかったが、未だに中将に留め置かれ、実戦指揮官中の序列2位に甘んじているのは、ヘルムスの政治的意図が干渉しているからにほかならない。

 ヘルムスにとっては、しばしば政権に異論を唱え、その権威をおとしめるがごとき言動をするベームよりも、かつてヘルムスの親衛隊を指揮し、「番犬ブルーノ」とまであだ名される従順で忠実なメッテルニヒ第一軍司令官の方が、よほど使いやすく都合のいい存在である。

「前線指揮官のうちから統率者を選ばねばならないなら、メッテルニヒを任用する。その意図で、彼を先任の第一軍司令官に置いているのではないか」

「しかし我が総統、申し上げたように今は非常の人事が求められる状況です。メッテルニヒ中将では、前線の諸将や兵が心服して指揮に従うかどうか」

「非常の場合に備えての序列ではないか。軍の最高幹部が自ら組織の秩序を乱して、どうやって戦争に勝つというのだ!」

 国防軍最高司令部は無能者揃いか、とまでヘルムスは言った。彼が激昂すると、耳をふさぎたくなるような悪口雑言(あっこうぞうごん)が数十分は続く。誰も彼も自分の指示に従わない、自分の意図を理解しようとしない、軍がそのような(てい)たらくだからこそ、連戦連敗する。教国及び同盟との開戦以来、帝国軍が戦場において成功したと言えるのはディーキルヒ地方の天然痘攻撃による勝利のみで、それを指導したのは第一軍司令官のメッテルニヒ中将と、特務機関のハーゲン博士である。序列が優位で実績もあるメッテルニヒ中将が指揮をとるにどのような不都合があると言うのか。

 ヘルムスの怒号を、シュトレーゼマン元帥以下、国防軍最高司令部の面々は唇を噛み、眉をひそめながら耐えるほかはなかった。ヘルムスの脳内が沸騰しているうちは、彼らが口を挟むことは到底、許されない。

 だがシュトレーゼマンには人事の件以上に、譲るべからざる懸案がある。

「指揮するのが誰でも、天然痘を使用した攻撃はどうかお見合わせください。あのような兵器を用いることは、()えある帝国の歴史と名誉に重大な禍根(かこん)を残します」

「お前たちは軍人だろう。軍人がそのように甘いことを言っているから、勝てる戦いも勝てんのだ!」

 軍事の専門家ならば、勝つためにどのような手段であっても献言すべきではないか。軍人の誇りがどうのと偉そうな御託(ごたく)を並べ立てる暇があるなら、己のおつむを叩いて満足のいく知恵のひとつも出せ。

 シュトレーゼマンはそうした侮辱の数々を受けて、丸くつるりとした顔を真っ赤にしている。

「我が総統、戦うのは前線の将帥であり、兵卒です。いま少し、彼らを尊重してもよろしいかと思います」

「改めて却下する。第一軍が帝都に戻ったら、メッテルニヒ中将を先任指揮官として、3日以内にベルヴェデーレ要塞の救援に赴け」

 国防軍最高司令部総長といっても、彼の権限と影響力ではここまでが精一杯である。軍の総帥はあくまでヘルムス総統であり、シュトレーゼマン元帥は国防軍を動かすについて、専門家としての情報や知見をヘルムスに提供し、その判断の精度を高めるのが役目である。逆に言えば彼に国防軍に対する直接の指揮権はない。

 だが、彼はなおヘルムスに対して抵抗した。このままヘルムスの命令に唯々諾々(いいだくだく)として従えば、次の戦いで帝国の実戦部隊は地上から消滅して、無条件降伏の道が残るのみとなる。それよりは、たとえ一時的に総統に対する抗命の罪に問われようと、正しいことをすべきだと考えた。

 ただし、秘密裏に事を運ぶ必要がある。幸い、彼には軍部の最高位にある者として、ヘルムスの代理権者たる資格がある。たとえば、ヘルムスの決定を事務化し、各部隊に布達するのは、彼の役目でもある。

 そこで、多少の工夫を凝らした。

 緊急命令を受けてブリュールを放棄し帝都に舞い戻った第一軍司令官メッテルニヒ中将は国防軍最高司令部に呼び出され、ベルヴェデーレ要塞方面への配置転換を命ぜられた。出撃は翌日の朝、席を温める時間もない。

 シュトレーゼマンはナッツァの会戦の結果と、前線司令官のシュトラウス上級大将が未だ戻らないことから恐らく戦死したか捕虜になっていること、そして今回の出撃にあたっては異例のことながら、第二軍司令官のベーム中将を臨時の先任司令官に任じることを伝えた。つまりメッテルニヒは、ベーム中将の指揮を受けることとなる。

「それは、ヘルムス総統のご意向ですか」

 形式的な質問として、メッテルニヒは確認した。

「無論、本来は君が先任だが、我が総統と最高司令部でよくよく談合した上での決定だ」

「承りました」

 メッテルニヒには、別に否やはない。彼は同僚の軍司令官たちからはヘルムス総統との縁故を利用し、情実人事で成り上がった無能者とみなされ評判はすこぶる悪かったが、そうした偏見の眼差(まな)しで見られるほどには、低能でも卑劣でもない。能力も将器も不足はあるが、少なくとも、自分よりベーム中将の方が軍を統率するにふさわしい器の持ち主であるということが分かる程度にはまともであった。

 メッテルニヒを丸め込んだ一方で、シュトレーゼマンはベームにだけは真実を打ち明けた。そして、総統の命令に対する重大な背反行為であるだけに、勝てば君は許される、だが負ければ厳しい処罰が待っているだろうと予言した。

 亡国が迫っているとき、もとよりベームにはすでに生への執着はない。ただ、国を守ることに対する執着だけがある。

「勝利のお約束はできませんが、微力を尽くします。しかし今回のこと、勝敗はどうあれ、閣下は必ずや罰せられることでしょう。小官にはそれが忍びないかぎりで」

「いや、私は軍の最高位にある者として、負ければ報復として殺されるに違いない。負けて死ぬなら勝って死ぬ方を選びたいだけだ」

「この戦争、帝国が負けると」

「実はね、ベーム中将。最高司令部に本気で勝てると思ってる者はおらんよ。総統はもはや制服組の意見を取り上げようとはなさらない。一人で戦争を指導されている」

「まさか、それでは自滅も同然です」

「その通りだ。だから、前線の諸君には迷惑をかけている」

 ベームはしかし、上官の言葉に含まれた欺瞞(ぎまん)を見抜いている。確かに危険を(かえり)みず、総統命令を無視して行動しているのは勇気があるし、一方で気の毒でもあるが、今となっては遅いのである。戦局がこうも悪化してしまっているとき、司令官の首を()げ替えた程度では、劇的な逆転というのは難しいであろう。これまでは保身が災いして言いたいことが言えなかったのが、今ようやく行動しているというに過ぎない。

 できるなら、教国との開戦決定まで(さかのぼ)って、ヘルムス総統を(いさ)めてもらいたいところだ。

 ベームは(せん)ないことであると知りつつ、そう思わずにはいられない。戦略や戦術の問題ではない。教国や同盟との戦争決断自体に、致命的な瑕疵(かし)があった。現場は開戦以来、その尻拭(しりぬぐ)いをさせられている。

「いずれにしても、教国軍をしりぞけ、帝都及びベルヴェデーレ要塞の安全と平穏を取り戻すため、尽力いたします」

「よろしく頼む」

 ベームは部屋を辞し、脳内に血液を忙しく駆け巡らせながら、対教国軍の戦略を練った。

 教国女王の構想の根幹は常に情報にある。これまでのどの戦いを紐解いても、それは如実に証明されている。相手の最も弱い部分を見つけ出し、隙を生ぜしめ、あるいは意表を突いて、気勢を崩す。崩したところに攻撃を集中して、一挙に勝敗を確定させてしまう。

 この情報を重視するという姿勢を、うまく逆用できないだろうか。

 翌日、ベームは直接指揮の第二軍に、第一軍、第三軍、第八軍を麾下(きか)に加え、ベルヴェデーレ要塞を目指して帝都を進発した。

 だがその翌日、出鼻を(くじ)くようにして、要塞陥落の報が入る。しかも教国軍は、要塞を守るリヒテンシュタイン中将を内応させ、第四軍、第七軍をして無血降伏せしめ、労せずしてこの要衝を手に入れてしまったというのである。

 ベームは箝口令(かんこうれい)を敷いて、この事実を各軍の幹部らに明かすにとどめたが、行動方針の転換を迫られ、軍を帝都を取り囲むシェラン川まで下げて、ベルヴェデーレ要塞方面より来寇(らいこう)するであろう教国軍に備えることとした。

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