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ミネルヴァ大陸戦記  作者: 一条 千種
第22章 虚々実々
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第22章-⑤ 敗走

 第八軍と本営が危機に瀕しているとき、両翼戦線にある各軍も同時に教国軍の攻勢を受けているために、防戦に手一杯で救援を送ることができずにいる。

 その隙に、バクスター将軍の第二師団は第八軍を食い破り、さらに帝国軍の前線司令部を強襲しようと迫っている。

 本営は、高地ではないが見晴らしの利く地に置かれている。前面に広がる各軍が戦闘状態に突入したことまでは分かっていたが、戦況の詳細は分からない。見守るうちに、正面を守っていた第八軍が霧のかき消えるようにして突き崩され、その奥から真っ直ぐに迫る一軍がある。司令部はたちまち騒然となった。第八軍が不利な状況にある、との報告よりも、敵の襲来の方が早かったということになる。

「臆するな、迎撃せよ!」

 シュトラウスは味方のあまりの(もろ)さに内心で少々慌てながらも、すぐに戦闘準備を命じた。そのわずか数分後には騎馬部隊の突入があり、一部はよく踏みとどまって突撃の足を止めることに成功したものの、後続の敵が次々と押し寄せるために、やがて津波が(せき)を切るようにして本営を踏み荒らされることになった。

 (防ぎきれない、全面崩壊か)

 浮足立つ味方と、荒れ狂う敵。シュトラウスは眼前の光景に敗退を確信した。本陣がこうも乱れた以上、友軍がたとえ局地的に教国軍の攻撃を押し戻せたとして、もはや統一的な指揮は不可能で、この地を捨てるほかはない。

 帝国軍にとってまだ救いがあるとすれば、シュトラウスによる撤退の決断が早かったことかもしれない。この時点で、彼がもし自らの面目(めんぼく)拘泥(こうでい)していたら、帝国軍はさらに悲惨な敗戦をこの地で経験していたかもしれない。

 彼は伝令を各軍に走らせ、軍をまとめて北の帝都ヴェルダンディ方面へと撤収するように命じた。

 総司令部には、ゴルトシュミット大将もいる。彼は第一軍集団司令官として、本来は第一、第二、第三軍を統率すべき立場なのだが、シュトラウスが前線の統括に乗り出したために事実上、無役となっている。シュトラウスの傍らに席を用意されているが、意見を求められるでもなく、一軍の指揮を任されるでもない。撤退に際して、シュトラウスはこの男の存在を思い出し、指示を与えた。

「ゴルトシュミット大将。貴公は第七軍とともにベルヴェデーレ要塞までしりぞいて、防衛の指揮をとりたまえ。私は帝都へ撤退し、各軍を糾合(きゅうごう)して捲土重来(けんどちょうらい)を図る」

 ゴルトシュミットは数人の幕僚を連れ、東へと駆け去った。

 その背中を見届けるでもなく、シュトラウスも馬上の人となっている。

「全軍撤退だ、脇目も振らず、ひたすらに帝都を目指せ。撤退、撤退ッ!」

 司令部はその声とともに戦意を完全に喪失し、雪崩(なだれ)のように崩れて、ばらばらと北を目指し逃走を開始した。

 シュトラウスも逃げた。彼自身、教国軍の殺意を背後に感じながら、振り向き振り向きしつつ逃げるうち、手綱(たづな)さばきを誤って馬が脚を折り、顔面から落馬した。不運といえば不運だが、さらに不運なのが、落馬した彼に、逃げる騎兵の誰も目をくれなかったという点であろう。人ならば自分の命を惜しむのは当然のことではあるが、こういう時、人望の豊かな将帥であれば我が乗馬を譲る将校の一人でもいそうなものだ。例えばクイーンが彼と同じように馬を失ったなら、近衛将校らが群がり、争って馬を差し出したであろう。メッサーシュミットでも、同様であったはずだ。

 結局、シュトラウスは馬を持たない兵卒どもに交じって、徒歩で逃げた。

 そのため、彼がいつ誰の手によってどのような死に方を遂げたのかは分からない。確かなのは、戦後の検分においてたまたま、おびただしく転がる帝国兵どものなかから、彼の遺体が教国軍によって見つかったということである。

 戦場に残された第二軍、第三軍、第五軍は、教国第二師団によって中央を突破され組織としての秩序を失った第八軍の残存兵力をかばいながら血路を開き、教国軍の追撃に耐えて北を目指した。被害を最も多く出したのは、位置関係から必然的に殿軍(しんがり)となる第五軍で、ツヴァイク中将の指揮のもと粘り強く抗戦したが、突撃旅団と遊撃旅団による巧緻な包囲と迫撃の連続を支えきれず、ついに全面的な瓦解(がかい)を迎えて敗走した。帝都ヴェルダンディに帰り着いた第五軍将兵はわずかに3,000あまりで、ほかは戦死するか捕虜となるか、あるいはそのまま脱走して行方知れずとなった。デュッセルドルフ、キティホーク、トリーゼンベルクと常に教国軍との戦火の渦中にあった歴戦の部隊ではあったが、ついにその機動戦力の機能を失うに至ったのである。

 後衛の帝国第七軍は、ゴルトシュミット大将の監督のもと、東のベルヴェデーレ要塞を目指すこととなった。ほかの部隊は北へ敗走し、帝都ヴェルダンディで再集結し巻き返しを図ることとなるが、この部隊はベルヴェデーレ要塞へ逃げ込んで、要塞の守備を預かるリヒテンシュタイン中将の第四軍と合流する役目がある。今次会戦で数を大きく減らした第七軍ではあるが、第四軍と合すればその数は15,000に迫る。堅牢な要塞に籠城すれば、教国軍がたとえ5万でも6万でも、短期的に陥落するとは思えない。

 だがさしあたり、第七軍の前には重大な問題がある。彼らがベルヴェデーレ要塞に向かうためには、その経路上にある教国第三師団を排除しなければならない。レイナート将軍の率いる第三師団は、教国軍本隊とは別行動をとり、ベルヴェデーレ要塞に接近して以後は帝国軍主力にしつこくまとわりつく動きを見せていた。無視して進軍しようとすれば後背から追尾し、野戦で殲滅(せんめつ)せんとすれば距離をとって戦いを避ける。その繰り返しであるために、シュトラウスも単なる陽動部隊と判断して、跳梁(ちょうりょう)するに任せていたのであった。たかが一個師団程度、遠征軍本隊を片付ければ雲散霧消すると判断したのである。

 ところがその判断のツケが、第七軍に回ってきている。第三師団は今回、直接の戦闘には加わらなかったが、それだけにその兵力は制式の15,000を維持している。一方、第七軍は前日の戦いで受けた損害が甚大で、まともに動ける兵はざっと8,000から9,000といった程度である。この兵力で、目前の第三師団を突破し、さらに走って、ベルヴェデーレ要塞にまで帰着せねばならない。そうでないと、背後から教国軍の本隊が迫って挟撃され、包囲殲滅される。

 司令官フルトヴェングラー中将は、絶望的な状況のなか、第三師団が密集して布陣する丘の左手が狭い谷、右手に林が広がっているのを見て、直感的に賭けを打った。

「ゴルトシュミット将軍、目前の敵は優勢。左へ迂回しつつ進めば、狭隘(きょうあい)ですが乾いた谷があります。私が一当てして敵を引き受けますので、将軍は2,000の兵を連れて谷を進み、要塞へ先着ください」

 フルトヴェングラーは能力そのものにはさしたる欠点はないが、小心で義理を欠く人物として知られている。事に臨んでは我が身の保身を第一に考える性格である、と。その彼が、ゴルトシュミットの安全を配慮して(おとり)を務める、と申し出ている。

「フルトヴェングラーよ、無理をするな。ほどほどで切り上げよ」

 ゴルトシュミットは尊大な男だ。部下の献身に感動するでもなく、むしろ当然のように受け取って、そのまま谷の方へ向かった。かつてメッサーシュミット将軍をライバルと見て、任務に精励し、実力で大将の地位まで得た彼も、このような切所(せっしょ)にあってはついに知恵も回らなくなるらしい。レイナート将軍ともあろう者が、いかにも逃げ道として用意してあるかのような谷の道に、伏兵を配していないわけがないであろう。

 谷の中ほどまでを駆け過ぎたとき、ゴルトシュミットの率いる部隊は両側の崖から雨のような矢衾(やぶすま)を受けた。彼らは矢を受け、動転し、動転しつつも、引き返すわけにもいかず、ただただ背中に矢の当たらないことを祈りながら逃げ続けた。狭い一本道で、高所から矢を射られたら、抵抗のしようがない。第三師団の弓兵部隊がこの谷に射放った矢の本数は、一説には10万本を超えたと言われる。生きて谷を抜け出た者はわずか数十人であったとされ、無論、ゴルトシュミットも戦死した。

 一方、フルトヴェングラー率いる第七軍の本隊は第三師団の主力に挑戦することを避け、脇の林に入った。ここにも当然ながら伏兵がおり、奇襲を各所で受けた。襲撃のために方向感覚を失って逃げ遅れる兵が続出したが、それでも数千人といった単位で脱出に成功し、一路ベルヴェデーレ要塞を目指して潰走していった。

 帝国軍、敗走す。

 その急報は、教国軍と帝国軍、双方の手によって諸方の味方へと飛んだ。特にベルヴェデーレ要塞に対しては、第二軍、第五軍、第七軍といった諸部隊から相次いで連絡が入り、敗戦の事実が伝えられた。

 要塞を守るリヒテンシュタイン中将にとっては、重大な決断のときであったろう。

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