第20章-⑤ 父と決別するとき
アオバの状態を、どのように表現すればよいのであろう。
精神的な監禁、というのが事実に照らして適切と言えるかもしれない。表面的には、彼女は里を出る前の少女の頃に戻っただけのようにも見える。魔王のごとく君臨する父にひれ伏し、その欲求のままに我が身を差し出すほかない、哀れで非力な少女である。
だが、この夜のアオバには、胸に期するところがある。
もっとも、それを父に知られてはならない。ほんのわずかでも異心を気取られれば、父は彼女を生かしてはおかない。
ヒュウガ流忍者アマギの里の頭領であるミナヅキとは、恐ろしい男なのだ。
「父上、ミコト様とサミュエルさんはいかがされていますか」
「なぜ、気にかける」
「お二方は私にとって大切な方です。消息を知りたいと思うのは当然でございましょう」
ふふ、と父は残酷な愉悦に笑い声を漏らした。娘は何も知らぬ、自分がこの娘のすべてを支配しているのだと、その実感が彼をこうも心地よくさせるのであろう。
「連中は出ていった。いつまでもこの里にいられても、迷惑するのでな」
「せめて挨拶くらいさせていただいてもよいものを」
「お前はお前の務めを果たせ」
そう言って、父は花を手折るように無造作にアオバの腰を引き寄せ、するりと手を衣服の奥へとすべらせた。愛撫は執拗で、娘の体に火照りと潤いが生じるまで、決してやめない。
「お前の務めはなんだ」
「父上」
「お前の務めは、さぁ言え」
「言えませぬ」
「強情な女だ。後ろを向け」
寝衣を剥ぎ取り、両手と両膝をつかせる。獣のような格好になった。
「お前の務めは、父である私の子を産むことだ」
激しい衝撃と異物感とともに、父が入ってくる。女として、最も屈辱を感じる瞬間である。アオバにとっての男女の交わりとは、常に父に強制されるそれであって、恐怖であり、苦痛であり、穢れであり、そして忌まわしい記憶そのものであった。その行為の結果として産まれたワカバに対しても、我が胎を痛めたいとおしさとともに、一種の邪悪さと不気味さを感じずにいられない、その所以でもある。
彼女の嫌悪感をよそに、胎内ではまるで巨大な寄生虫のように蠢き、荒れ狂うものがある。
父は嗜虐性を大いに満足させつつあるようで、さらにおぞましい感想を口にした。
「美しい背中だ。やはり母娘は似ている」
掌が、背筋をなぞるように撫でてゆく。アオバは思わず慄然とした。
「父上、そのような辱め、度を越しております」
「古より、男は女の美しさに恋う。女はその想いを受け入れ、子を孕む喜びを得るのだ。お前も、そのためにこの里へ戻ってきたのであろう」
違う、と言いたかった。しかし父は抵抗を許さない。枕にしがみつき、息さえも忘れ、責め苦に耐える頼りなくも健気な後ろ姿を愛でながら、父の情欲も間もなく最高潮に上り詰めようとしているようであった。
アオバは気配を察知し、小さく叫んだ。
「父上、父上、お待ちください」
「どうした、そのように髪を振り乱して」
「この格好は嫌です。最後は、その、口吸いをしながら」
「なに」
意外そうな声であったが、恥じらいながらも哀願するアオバが可愛く思えたのであろう。その通りにした。
そして、そのときが訪れた。
ヒュウガ流の頭領ともあろう者でも、性の絶頂を迎える瞬間だけは一匹の他愛もないオスである。
アオバは、体の奥深くで何かがほとばしる脈動を感じるとともに、右手にぞっとするような感触を味わった。彼女は人を殺したことがない。なるほど人の命を絶つとはこういう感覚なのかと、妙な納得感を持った。
アオバの文字通り目と鼻の先に、父の目がある。驚きのためか、大きく見開かれていて、アオバもこのときばかりはこの父が哀れに思われた。人間、死ぬとなればみな哀れなものだ。
「父上、ご気分はいかがですか」
自分でも異常なほど冷静に、その興味を満たすために彼女は冷ややかな声で尋ねた。さて、彼女の父は死を前にして、何を語るのであろうか。
「アオ、バ」
「父上にはやはり見えていなかったようでございますね。私がずっと、短刀を右手に握りしめていたこと」
父の血走った瞳がゆっくりと動いた。だが、その視線は自らの首に刺さった刀には届かないに違いない。
「じゅ、つ、か」
「さすがでございます。サミュエルさんが、私にあなたを始末する力を与えてくださいました。この刀は、私以外ではサミュエルさんにしか見ることはできませぬ」
「おろ、かな」
そのあとは、言葉にならなかった。頸動脈から気管まで突き破ってあふれ出た血が、肺に回って、溺れているらしい。おびただしい血が、口からもどくどくととめどなく流れ出ている。
「苦しそうですね。楽になりたいですか」
復讐心に満ちたアオバを、最後に父はどう思ったのか。
アオバは待った。だがそれは答えを欲したからではない。自らの血で溺れ死ぬという、この恐怖に満ちた苦しみを意識の失われる瞬間まで味わわせることでしか、彼女にとっての始末とやらはつけがたいであろう。
父の肉体が悶絶と痙攣を完全に止めてから、アオバは血まみれの寝衣のまま、引き抜いた短刀を持ち、悪鬼にでもなったような憎悪と気魄でもって、屋敷の離れへと向かった。
戸を静かに開け、不穏な音と気配を感じて起き出してきた侍女のウラカゼ老婆の喉を出合いがしらに三度突き即死させると、彼女の殺意は屋敷に残る最後の住人へと向いた。
我が子を殺し、すべての悲劇を終わらせる。
ワカバ少年は、異変を感じたのか、それとも単にその障害のために動きを制御することができないのか、このときも全身をくねくねと動かしている。およそ、睡眠というものがまともにとれない体質なのかもしれない。
アオバは短刀を高く掲げ、一思いに少年の胸を刺し貫こうと試みた。だが、声を出させぬため左手を息子のわずかに盛り上がった喉仏にかけたとき、彼女はその体に宿るぬくもりに、思わず息を呑み、悪夢から覚めるような思いを持った。
短刀を落とし、代わりに夢中で息子の体を抱き寄せていた。
少年は、母から祝福されざる子、母から愛されざる子であった。
それでも少年自身の生き物としての尊さ、あるいは母親という生き物の尊さが、アオバの凶行を間一髪で止めたのかもしれない。
「ワカバ、健やかでいなさい」
アオバは二度と会うことはないに違いない我が子に短く言葉をかけ、手早く旅支度を済ませた。
頭領である父の遺体が見つかれば、里の連中は十中八九、追っ手を差し向ける。最低限の軽装で、夜通し走り、逃げるほかない。
まずは、ミコト、サミュエルのもとへとたどり着くことだ。
星明かりすら出ない漆黒の暗闇と静寂のなか、アオバは里をあとにした。




