第19章-⑥ 雨だれの音
地下から出ると、日の光が目に痛い。
あちこちから獣を煮るにおいや包丁の音がする。もう、昼餉の時間らしい。
意気消沈といった様子のサミュエルと、それにぴたりと付き添うようにして先導するミコトの前に、声をかける者がある。
マヤだ。
「お二人さん、ちょいとお待ちくださいまし!」
おどけている。いたずらっぽい瞳が、きらきらと丸い。
「頭領からの言伝でござる!」
「言伝、なんでしょう」
「先ほどの選択、明日の一番鶏まで迷うことを許す。もし受けぬなら何も言わずにこの里を去るがよい」
「明日まで迷うことを許す、ですか……」
まるで迷い、選択できぬことを予期していたかのような伝言の内容である。さすがは忍者衆の頭領、その程度のことはサミュエルの態度からもお見通しらしい。
暗い表情のミコトと、まるで石のように黙りこくったままのサミュエルに、マヤも違和感があるようだ。
「おやおや、ずいぶん冴えない顔。もしかして、もうこの里を出ていくの?」
「いえ、まだ決めかねているのです」
「そんときは、アタシも連れてってよ!」
「は、はい?」
突然の申し出にミコトは面食らった。なぜ、このような魂胆の知れない者を連れて歩かねばならないのか。
心中、冗談ではない、と思った。
「アタシ、誰もが認める腕利きなのに、頭領のお気に入りだから里から出て働いたことがないんだ。でも、好奇心は人一倍だろ?」
「だろ、と言われても、私は知りません」
「まぁ要するに、真打が出番を待ってるってことさ。お役立ち、間違いなしだよ」
「私にはアオバがいますから」
「アタシ、アオバよりいい腕してるんだけどなぁ」
「腕の問題ではありません。信頼の問題です」
「あちゃあ、そんじゃダメかぁ。アタシ、頭領からは信頼されてるんだけどなぁ」
落ち込んだのか、ふてくされているのか、子供のようにしゃがみ込んで土くれを指でほじくり返すマヤが、さすがにかわいそうになった。
「アオバとはずっと一緒に暮らしていたので、頼るにも気安いし、安心なのです」
「いいさいいさ。どうせアタシは、信頼できない、安心もできない役立たずのはぐれもんさ」
「そんなことは言ってませんし、思ってもいません」
ミコトはこの手のお調子者の相手には慣れていない。
その後も、サミュエルが歩き出すと、ミコトの代わりに手をとって面倒を見ようとしたり、昼餉の場所へ案内したりと、甲斐甲斐しいものである。
それほど、この里を出て働いてみたいのであろうか。
だが警戒心が強く、人というものは疑ってかかるべきだと考えるミコトは、いやいやうかと心を許してはならぬとも思っている。天真爛漫で人懐っこいように見せて、実はミナヅキの指示でミコトらを監視し、動きを探っているのかもしれない。事実、侍女に過ぎぬ身でありながら、家族同然に信用していたアオバは、ヤノ家の内情を細かく父のもとへ報告する役目をおびていたではないか。
忍びなどという連中に、隙を見せてはならない。
午後、雨が降り、遠くで雷も鳴った。サミュエルは一言も発せず、頭領屋敷の座敷の一つから、ぼんやりと庭の方へ顔を向けている。雨の音を聞いているのか、それとも雷鳴の響きか、あるいは蛙の鳴き声であったかもしれない。
(今は一人にしておこう)
明日の夜明け前までには、決断をせねばならない。
だが、どちらに転んでも、ごく近い将来についてさえ、予見はできない。
例えばサミュエルが、レティの思念を受け取ったとしよう。彼はそのまますぐ、スミンとの対決に向かうのであろうか。ミコトはそのとき、どうするのか。里で吉報を待てばよいのか、教国へと帰るか、サミュエルとともに王都トゥムルへと向かうのか。
サミュエルが思念の受領を拒んだ場合。これとて、その後にとるべき道は分からない。というより、道はない。ミコトには教国へ帰るという選択肢があるが、サミュエルには帰るべき場所はない。いつか居場所が見つかるかもしれないが、あてのない旅が一生続くこともありうる。
重大で、深刻な決断である。どちらへ進んでも、待っているのは地獄かもしれない。
サミュエルと離れ、ひとり雨だれの音を聞きつつぼんやりしていると、気配もなくミナヅキが背後に立った。
「どう選択するかのう」
「ミナヅキ殿。いらしたのですか」
「すまぬ、気配がなかったか。どうも癖でのう」
「いえ、構いません。私も、気を抜いておりました」
「ミコト殿は術者スミンを、どう見る」
「スミンは大乱の元凶であり、王国を内から滅ぼす諸悪の根源です」
「それは間違いない。しかしそれだけか。例えば個人的な思いは」
「無論、スミンは我が一族、我が夫の仇。復仇すべき相手です」
「ならばサミュエル殿にとってはどうであろう」
この問いには、少し考える時間が必要であった。しかし彼自身、傷つけたくはないと言いつつ、憎しみはあるだろう。彼を支配し操って、敬愛するロンバルディア女王の暗殺を図った罪人に仕立て上げたのである。
彼女がそう言うと、ミナヅキは意味深長な間合いのあとで、こう言った。
「だが彼は、彼自身の本意ではなくまた選択の結果ではないとは言え、スミンと男女の交わりを遂げている。スミンは懐妊中で、それはどうやらサミュエル殿の種のようだが」
「今、なんとおっしゃいましたか?」
ミコトの知らない話である。サミュエルも、想像もしていないことであろう。
この時期、スミンの懐妊は、彼女に恨みを持つ者による報復の可能性を恐れて、まだ公にはされていない。それをほぼ正確に内情まで知り得ているのは、忍びのさすがの諜報能力と言えよう。
だが、ミコトの驚きは尋常一様ではない。
スミンが、サミュエルの種を宿している。
これは天地の逆転するほどの事態である。生まれるのは術者と術者の子ということになろう。それにミナヅキの懸念するとおり、これを知ればサミュエルの戦意も大いに鈍るのは間違いない。望んだことではないとしても、彼の子がスミンの胎の中にいる。とすれば、気の優しいサミュエルはどう思うであろう。スミンを倒す、という気持ちにならないのではないか。しかし、彼の力によらねば、スミンは野放しのまま、世界に災厄を振りまき続けるであろう。産まれる子の器量や気質によっては、二代にわたって術者の脅威にさらされることとなる。
「ミナヅキ殿。その件、サミュエルさんには」
「言ってはいない」
「このまま、言わぬようにできますか」
「隠すべきと?」
「はい。世界のために」
「世界のために、か。地を這いずり生きる忍びが、世界を救う。それもまた、一興かもしれぬな」
とらえどころのない発言で、真意をつかませない。そのような話しぶりも、いかにも忍びらしい。
ミナヅキは最後、さらに聞き捨てならぬ一言を残して去った。
「彼の力を強化する方法は、あの氷晶ひとつではない。さらに助言を乞うなら、明日の朝また来られよ。ミコト殿はまず、彼の決心を固められることだな」
あとに、先ほどよりも少し弱まった雨音だけが残った。
(どうも、自分はこの件に関わり過ぎている気がする)
そう思わぬでもない。だが、関わらざるをえないとも思っている。クイーン・エスメラルダからの直接の依頼は、サミュエルの教国脱出と、アオバの故郷であるアマギの里へ彼を連れてゆくこと。それさえ果たせば、あとはサミュエル自身の問題なわけで、ミコトはさっさと教国に戻ってしまってもいいはずだ。要するに彼女に託された依頼事項はとうに果たしている。
ところが実際には、サミュエルをしてスミンを誅伐せしめるよう動いている。例えば、スミンの懐妊について沈黙しておくよう、ミナヅキに働きかけているのがそうだ。ずいぶんと余計な世話まで焼いてしまっているものである。
サミュエルのもとへ戻ると、彼はやはり、畳に尻餅をつき、両膝を抱えるようにしてじっとしている。ミコトは努めて明るい声色で、提案をした。
「サミュエルさん、今日は湯浴みをしましょう。考えがまとまらないときは、汗や垢を湯で洗い落として、頭の中をきれいにするのです。私がお手伝いするので、すぐに行きましょう」
「お湯のなかに入るのですか?」
「そうです。教国ではめったにない贅沢ですよね。クイーンも、湯浴みはお好きと聞いています。王国は水の豊かな国ですから、好きな人は毎日でも入るのです。さぁ、参りましょう」
サミュエルの出す結論の如何によっては、彼との時間もそう長くはないであろう。姉と弟のような親しみを互いに持ちつつあるとき、ミコトはサミュエルのために、自分にできることはたとえ些細なことでも尽くしてやろうと、そう思っている。




