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ミネルヴァ大陸戦記  作者: 一条 千種
第19章 アマギの里 前編
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第19章-④ 父と娘、その息子

 夜。

 屋敷の外がにわかに騒がしくなった。ミコトとサミュエルを歓待するための宴が始まったのであろう。

 その陽気な喧騒(けんそう)を聞き流しつつ、アオバはただ神妙に待っている。

 足音がした。

「父上、ワカバはいずこに」

「気が急いておるようだな。ウラカゼ、ワカバをここへ」

 ウラカゼとは、ミナヅキに仕える筆頭の侍女である。存在自体が影のような女で、ミナヅキのためにどんな汚れ仕事でも引き受ける。アオバが生まれたときから老婆で、彼女が里を出たときも無論、老婆であったが、まだ生きていたとは驚いた。

 しばらく待ち、やがて一人の少年がウラカゼの介添えで姿を現した。

 アオバはあふれるような熱情を胸に抱いて、目の前の息子との再会を果たしたわけだが、直後、愕然として自らの精神が砕ける音を聞いた気がした。

 少年は席に座っても、ひっきりなしに全身を動かし、目の焦点が合わず、表情も安定せず、言葉も話せない。

「ワカバ、お前を産んだ女だ」

 残酷、とすら言っていいであろう。ミナヅキはアオバをそのように紹介した。母だ、と言わないのは、彼女をあくまでこの少年の母と認める気がないということの証に違いなかった。

 アオバは絶句したまましばらく呆然としていたが、やがて小さく、自らが名付けた少年の名を呼んだ。

 少年はその言語を解したというよりは単なる反射として、ちらりと母の視線を受け止め、すぐに外し、手足を振り回し続けた。

 アオバはこのような病人を、幾度か見たことがある。この時代、そのような医学用語はないが、恐らく脳性麻痺であったろう。これは先天性の疾患で、全身の筋肉が緊張し、不随意運動が起こる。言語に発達の遅れもしくは発達がほとんど見られず、意志を伝達することが困難である。知能に関してはさほど問題がないことが多いのだが、人間らしい生活を営むことができず、コミュニティの生産にも寄与できないために、普通、幼児期に判明し次第、殺されてしまう。この少年が生きているのは、アマギの里の惣領だからであろう。

 気づくと、アオバは涙を流していた。息子は確かに生きていた。だがそれはあまりに彼女の想像とかけ離れた姿であった。

 ウラカゼが、ワカバを抱きかかえるようにして、去った。

「アオバよ、満足か」

「父上、なぜワカバを惣領に。あのような姿でありながら、不憫(ふびん)ではありませぬか」

「あのような哀れな姿でありながら、なお惣領の責を負わされるのは不憫と申すか」

「里の者は、みな知っているのですか」

「言うまでもないこと」

「なぜです、なぜです父上」

「あれは私の子だ」

 断固として言い放つ父が、アオバには魔王のようにも見えた。アオバは不意に、10年以上の時を駆け抜けて、まだ母親どころか、女と呼ぶにさえあまりに幼い、あの頃の自分に戻ったような錯覚に陥った。当時の彼女は、ただ家庭内における暴君である父に(おび)え、そして妻を失った悲嘆のなかで正気を失った父に求められるまま、我が貞操を奪われるに任せる非力な少女に過ぎなかった。

 その結果、産まれたのがワカバである。

 産後、体力が回復してすぐ、アオバは里を出ることを父に申し出た。娘である彼女を犯し、子まで産ませた父とともにあることは苦痛でしかなかったし、産まれた子に対しても愛情以上に呪われた子であるとの印象がどうしてもぬぐえなかった。

 そして家出同然に、里を抜けた。父は追わなかった。追われていたら、アオバは路傍で死骸になっているか、捕らわれて里に連れ戻されていたはずだ。

 そういう経緯がある。

 だが今は、彼女も成長した。忍びとしての腕は、里にいた頃からさして成長していないだろうが、人として多くの経験を積んだ。いや、ほかの誰も経験しえない人生であった。そのほとんどは、王国の名流で十常侍(じゅうじょうじ)として権勢を握るヤノ家に入り、内部の情報を里に送り続けた。のち、闇の術者スミンが皇帝の妃におさまってからは、ヤノ家は根絶やしにされ、辛くも生き延びたミコトらとともに難を避け、ロンバルディア教国へと落ちた。はしなくも教国の女王から声をかけられる栄光に浴し、その負託を受けて術者サミュエルを預かった。里を唯一絶対の天地と思い暮らしている者たちの誰が、彼女のような経験を得ることができたろう。

 自分はもう、父に女としての服従を迫られ、涙を隠しながら恥辱に耐えていた頃の少女ではない。

 その思いを抱き、(はぐく)みながら、里への道中を過ごした。父の前では、過去のみじめな陰影と決別し、一人の人間として正々堂々と対峙しよう。

 しかし、現実には父の低く重みのある声が耳を通し脳裏を駆けめぐるたび、かつて受けた仕打ちを思い起こし、恐怖のために頬が引きつり身がすくむのをどうしようもない。

 父は、絶望に支配された表情のアオバに、追い撃ちをかけるように再びその事実を口にした。あまりにも忌まわしい、その事実を。

「ワカバは、私とお前の子だ。私がお前に産ませた」

「いや、やめてください!」

「耳をふさぐな。私とお前の子を、お前は捨てた。あの子をどのように扱おうとも、お前の口出しは許さん」

「父上……」

 取り乱し、顔を覆って泣き崩れる娘の姿に、この種の男は劣情を催すものなのか。父は近づき、娘の手首に触れた。

 刹那(せつな)

 アオバの懐中から白い(はがね)の光がきらめき、刃先が正確に父の頸動脈(けいどうみゃく)を狙った。

 ところがその(たくら)みも、父の人とも思えぬ素早い受けの前に(かわ)され、かえって肘に激しい痛みを覚え、短刀はからりと床に転がった。あるいは父は、娘の意図と覚悟を察していたのかもしれない。いずれにしても、

「お前ごときが私を害するなど無駄なことだ。老いたが、これでもヒュウガ流忍者の頭領ぞ」

 その言葉で、アオバの最後の気概も折れた。彼女の精神は再び、父の常軌を逸した性的虐待をひたすらに恐れ、震えつつも受け入れるほかないかつての幼い自分へと戻っていた。

 アオバの瞳から生気が消え、全身の力が抜けた。父は、それこそ眠りに落ちた幼い娘に対してするような仕草で、女として成熟したその体を抱き上げ、彼の寝室へと向かった。

 よく鍛えられた父の腕のなかで、()しくも、と言うべきなのか。アオバはミコトと同様のことを思った。

 自分は、このような目に()うために、里へ戻ってきたのではない。彼女を里帰りさせた動機は、故郷を懐かしむ感傷でも、我が子会いたさでもない。まして彼女にとっての恐るべき魔王であるこの父親に手籠(てご)めにされるためでもない。彼女に与えられた使命を果たすためであったはずだ。

 だが、現実には彼女は父の(ねや)に連れ込まれ、父娘(おやこ)の交わりを()いられている。

 なぜ、このようなことに。

 アオバは父の異常としか言いようのない情欲を体の奥で感じつつ、ただ布団の端を握りしめ、唇を噛み、涙を流した。

 忍従の苦しみか、我が身の哀れさか、父への憎しみか、それとも運命に対する絶望か。

 なぜ泣いているのか、彼女自身にも分からなかった。

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