第19章-③ 忍びの里
アマギの里の人々は、自然とともに生きている。
田畑を耕し、牧畜に従事し、川魚を捕らえ、養蚕に励み、革をなめし、木を伐り、石を砕き、鉄を磨く。
衣服は王都トゥムルの文化に相似しているが、少し違う。特にとうが立った女性は小袖と呼ばれる着物を着用している。華美ではなく、むしろ色合いも質感もひどく素朴だが、その装いには慎み深く凛とした表情が感じられる。
そして、男はみなが忍びであった。そうでない者は、村を出ていくらしい。
忍びの本分は、主に傭兵であり、金を出す勢力があればその軍に参陣し、単なる槍働きからゲリラ戦、情報収集、流言、放火、略奪、なかには暗殺稼業に手を染める者もいたらしい。そうした活動を可能にするだけの鍛錬が毎日、里では行われている。
例えばアマギの里で随一の逸足と呼ばれるアガノという名の忍びは、逃げる猫に追いつき、素手で捕らえて絞め殺してみせたという。アマギの里では食用に猫を繁殖させ育てているから、別に走って捕まえる必要もないが、訓練の一環でそれくらいのことはやったかもしれない。
ともかく、忍びの里とはこういった連中を幼少の頃から育成し、あちこちに派遣して出稼ぎをさせている。
アマギの里は王国の東部、海に面したタカチホ地方にあるが、この一帯は山がちで起伏が激しく、まず肥沃とは言いがたい。そのような厳しい土地柄であるので、住民たちは自らの領分の生産力を高めるよりも、忍びをひとつの産業として高め、国内と国外とを問わず輸出しているのであろう。実際、アマギの里以外にも忍びの里は周辺に数多くあり、それらは互いに協力してこの一帯をある種の自治領として保つ一方、各流派を形成して忍びの技を競い合っている。
女は子を産めば足を洗って家政に専念するが、それ以外の里の大人は全員が忍びなのである。
翌朝、ミコトはサミュエルを連れ、里のあちこちを見て回った。相変わらず、数人の若者が彼女らの周りを遠巻きに監視しているのだが、少なくとも危害を加えたり敵視したりしているわけではないようなので、ミコトは気にしなくなっている。女だてらに剛胆なところがある、と亡き夫や親族らに言われたことがあるほどだ。
しかしサミュエルの放胆さはミコトのそれを上回っているかもしれない。彼は朝、草笛の音がする方へ行きたい、と言い、連れていってやると、子供らの隣に座って、自らも草笛の練習を始めた。子供たちは最初、この紅茶色の髪をした異邦人にずいぶん用心している様子だったが、うまく吹けるとまるで幼児のように無邪気に喜ぶサミュエルを見て、次第に警戒を解き、ついに草笛を教えてくれた。彼には子供の心をつかむ才能があるのかもしれない。
しばらく散歩していると、マタギのような格好をした女が声をかけてきた。この里の大人で彼女らと会話をしたのは、頭領のミナヅキ以外ではこの女が初めてである。
「アンタがミコトだね」
無礼な物言いだ、と思ったが、ミコトはすぐにその考えを引っ込めた。彼女はかつての王国にあっては十常侍の一角、名門ヤノ家の一門であった。アオバはこの里の頭領の娘でありながら、ミコトら姉妹に仕えていた。であれば里ぐるみ、ヤノ家の一門たるミコトは主筋と言っていい。しかしそれも今は昔のことだ。十常侍は王国の現政権によって叛逆者とみなされ、ヤノ家も没落した。アオバは義理堅いところがあって、自ら間諜としてヤノ家に入ったことを白状してもなお、ミコトを主人として立ててくれているが、誰も彼もが同様に礼儀を払ってくれるとは限らない。例えば昨日の頭領ミナヅキの態度も、ミコトをミコトと知っていたであろうに、無視するような冷淡さであった。
ミコトは咎め立てせず、答えた。
「えぇ、私がミコトです」
「アタシ、名前はマヤ。アオバの幼馴染なんだ」
「そう。アオバは、とても支えになっています」
「アタシにとっても支えだよ。アオバが元気でいてくれて、ほんとによかった」
このマヤという女、言葉はぶっきらぼうだが、思ったよりも嫌味はない。里の者の態度からするに、よそ者とは付き合わない、という風潮があるようだが、この女の場合はそれ以上に奔放で好奇心が強いのだろう。
色々、聞き出せるかもしれない。
「アオバは、まだミナヅキ殿とお話を?」
「うん、まだ話してるよ。今晩、二人を招待して宴をするって。けちんぼで有名な頭領が、珍しいこともあるもんだ」
「歓迎していただける、ということでしょうか」
「そうみたいだね。屋敷の厨房には、猫や鯉やイナゴがたくさん運び込まれてるって」
「猫や鯉やイナゴを食べるのですか……?」
「もしかして食べたことないの?」
頷き、確認の意味でサミュエルを振り返った。サミュエルも、口にしたことはないらしい。ミコトはここしばらくサミュエルと行動をともにして、会話をせずとも、身振りや口元の表情でおおよその意志や感情を把握できるようになっていたが、このときは何やら戸惑い、尻込みしているような様子である。
マヤは、目を丸くした。
「へぇ、たまげたなぁ。猫は薬膳料理で、皮を剥いで肉を煮ればそこそこ美味いんだよ。鯉は生きたままかっさばいてあらいにするし、イナゴは甘辛く煮て食うんだ」
聞いているうちに、ミコトは軽いめまいを感じた。彼女が聞きたいのは、そのようなことではない。
「あ、あの」
「なんだい?」
「ミナヅキ殿は、どのような方ですか」
「偉そうな人だよ。若い頃はぴかいちの忍びだったらしいけど、最近は耄碌してんじゃないかな。きっと、アタシの方が腕は立つよ!」
マヤは黒い瞳をきらきらと輝かせて、ぐいとミコトににじり寄ってくる。聞いたことにまともに回答してくれない上、たちの悪い売り込みを受けているような気分だ。
「そうですか。それで、ミナヅキ殿にはご家族は?」
「けっこう寂しいみたい。優しかった奥方様が亡くなって、アオバがヤノ家に奉公するようになってからは、孫で惣領のワカバさんだけが家族だよ」
「孫、ということは、アオバには兄弟がいたのでしょうか」
「ううん、アオバは頭領の一人娘で、ワカバさんはアオバの子だよ」
えっ、と思わず悲鳴に近い声を上げて、ミコトは仰天した。アオバはミコトの一つ年上で、確か14歳の時分からヤノ家に仕えており、以来、一度もアマギの里には帰省していないはずである。
アオバが術者の末裔で、実はヤノ家の内情を探る間諜であった、と知らされたとき以上の衝撃が、ミコトを動転させた。まったく、ミコトは11年の長きにわたってアオバと過ごしてきたというのに、彼女のことを何も知らない。掘ればさらに秘密が出てくるかもしれない。
マヤは、からりと笑った。
「そんなことも知らなかったんだね。忍びのすごさ、分かっただろ?」
分かった、どころではない。忍び、得体の知れない連中である。
夜は里の広場で、ミコトらを歓迎する宴会が催された。それまで厳格に統制されていた里がこの夜は一変して、盛大に飲めや歌えやの盛り上がりを見せた。ミコトらを大切な客人である、と改めて頭領のミナヅキが宣言してくれたことで、彼女らをよそ者ではなく、客人として認知してくれたものと思われる。
ミコトはそのいかにも散漫で田舎臭い雰囲気のなかで、不本意ながら猫や鯉やイナゴを食する羽目になった。いずれもひどい風味で、ミコトは次第に意識が朦朧とするのを感じたが、慣れればこれが逸品なのだそうだ。
まったく、愚かしい話だ。
ミコトはこの里に、猫や鯉やイナゴを食いにはるばる敵地を踏み越えてきたのではない。ロンバルディア教国女王の信任を得て、術者サミュエルの身柄を預かり、術者の後裔であるアマギの頭領ミナヅキに引き合わせること。それによって、彼の今後の運命に何かしらの道標を与えること。
それが、目的だったはずである。
しかも、飲まされる酒といえばこれもずいぶんな粗悪品で、下戸の自覚がないミコトでさえ、気分が悪くなった。歓迎されること自体は喜ばしいが、このような宴がもし頻繁に続くようではたまらない。
夜も深まった頃に、ミコトとサミュエルはようやく屋敷に戻され、そのまま気を失うようにして眠り入った。確かに、これでは何をしにこの里へ来たのか分からない。
一方、アオバは淡々とミコトらに代わってその本来の責務を果たしている。実は彼女は、朝からのべつ幕無し、この10年以上にわたるすべての経緯を、父であり頭領であるミナヅキに報告していたのである。ミナヅキは胡座と呼ばれる姿勢で、目を閉じ、腕を組み、なんと半日にわたって微動だにしなかった。アオバもアオバで、正座のまま足を崩さなかった。
「父上、私の知るところは、すべて申しました。我らも術者の力を失ったとはいえ、もとは同じ血より分かれし同胞。かのお二方をお匿いの上、術者の真実とやらをお伝えいただけませぬか」
ミナヅキはそれから小一時間にわたって沈思黙考を続けた。アオバは、そうした父の行いには長く離れていても慣れてよく知っている。辛抱強く、待った。
やがて、ミナヅキは初めて腕組みをほどいて、
「事情は了としよう。だが判断は彼らの資性を見極めてからとする。善き者か、それとも悪しき者か。悪しき者なら、私がのちの憂いを除くため、一刀のもとに斬り捨てる」
「父上、お二方は優れた人格をお持ちの方。よもや悪しき者などとは」
「ではお前は、闇の術者スミンが、その風貌に邪気をまとわせていると思うか」
「父上もお察しでございましたか、スミンが闇の術者であると」
「私はヒュウガ流忍者の頭領にして、偉大なる風の術者アルトゥの末裔ぞ」
「恐れ入ります」
「スミンも、その容色たるや天女のごとしという。ゆめゆめ、油断はならぬ。私自身がこの目で、彼らの心魂のありかを見定める」
「ご存念、承知しました」
しかし、アオバにはそれ以外に父に問いたいことがある。
「それで、ワカバは達者にしておりますか」
「何故、聞く」
「ワカバは私の息子です」
「その息子を捨てたのは、お前だ。一度捨ててしまえば、母でも子でもない」
「捨てたのではありません。誰よりもご存じでしょう……」
「さて、どうかな」
「一目なりとも、会わせていただけませぬか」
「そうさな、間もなく歓迎の宴がある。そのあとで」
「何卒よしなに」
最後に別れたときは未だに生後間もない乳飲み子であった我が子。すでに、立派な男子に成長しているかもしれない。父の言ったとおり、彼女は我が子を捨てたとみなされても仕方がないかもしれない。しかしそれには事情がある。
その事情は事情として、生き別れた息子に会えるのならば、彼女にも帰ってきた甲斐があるというものだ。
アオバは、再会を心待ちに、ひたすら頭領屋敷の広間で待ち続けた。




