第17章-⑦ 眠れる術者の扱い
術者、再臨す。
近衛兵団長ヴァネッサは、サミュエルとレティの術を目撃した者すべてを王宮内に留め、近衛兵団には厳重な箝口令を敷いたが、人の口に戸は立てられぬとはよく言ったものである。まして、事が重大すぎる。
翌日の夕方には、すでに国都の一部で術者の話題が広まりを見せていた。
「やはり、漏れたか」
市街の巡察に出た幾人かの旗本から報告を受けたヴァネッサは、小さく吐息を漏らした。術者の存在が確かになって以降、恐れていたことが起こったと言っていい。
術者が誰か、というのはこの際、問題ではない。術者がこの世界に実在し、しかもそれがすぐ近くにおり、恐ろしい術によって近衛兵に危害を加え、そしてクイーンの殺害を企んだなどという事実が明るみになれば、人々は不安と恐怖を抱くであろう。クイーンは教国の安定と豊かさをもたらす源泉とも言ってよく、恐るべき術者の標的になったとなると民心が動揺する。
場合によっては、上古に流行したという術者狩りが再び行われる可能性すらある。
世界が術者の脅威から解放されつつあった一時代、なお術者を危険視し敵視する人々のあいだで、術者狩りなる風潮が起こった。赤い髪、黒い瞳、吃音、てんかん、不妊の女、あるいは生まれつき毛髪が白い者などが、悪しき術者であるとしていわれなき迫害を受け、家畜のように逆さ吊りにされて首を斬られたり、釜の中で煮殺されたりした。
こうした愚かしい前時代的習俗が復活し、民衆同士が互いに猜疑心を持つようではこれまでの善政も水の泡というものであろう。
「早めに、何らかの手を打たなければならないな」
でなければ、手遅れになる。
ヴァネッサはクイーンやエミリアと相談するため、兵団長の執務室を出た。あの事件から丸一日を経過しても、今後の方針は決まっていない。その最も重要な理由は、サミュエルが目覚めていないことであった。クイーンはサミュエルと話したがっている。サミュエルの話を聞かずして、今後について一定の結論を出すことはできないと考えているようだった。
(しかし、市井を飛び交う噂に対し、このまま後手後手に回るのはまずい)
王宮の廊下を埋め尽くす臙脂色の豪奢な絨毯を踏みしめつつ考えていると、視界の端に男性物の宮廷衣装が映った。
「君のことを待っていた、ヴァネッサ」
「軽々しく名前で呼ばないでもらいたい」
「私は君を気に入っている。ファーストネームで呼ぶくらいはいいだろう」
「用件を言え」
ユンカースは背が高く、体格も細身で筋肉質だから、貴族風の衣装も呆れるほどよく似合う。亡命してきた折、帝国の軍服はぼろきれのように傷んでおり、もはや使用に堪えなかった。この男の趣味は変わっていて、宮廷にいる際は貴族のような高価な服を着たがる。とにかく身ぎれいにしていたいらしい。さらにクイーンに対しては、厚かましくも帝国の軍服風の衣装を新調するように頼み込んだらしい。戦場に出るのに貴族風の服では格好がつかないということなのであろう。クイーンは宮廷衣装も軍服も、この男の求めるままに与えた。そして彼はそれを当然のような顔で受け取り、着こなしている。
加えて不届きであるのは、彼はかつてヴァネッサの命を助けたことを笠に着て馴れ馴れしい態度をとることで、気の強いヴァネッサはいつも彼をにらみつけている。彼女は、例えばドン・ジョヴァンニのような男が嫌いだが、この男に対しても、似たような感覚で嫌っている。彼女は異性としての男に興味がないが、特に女たらしの男を虫酸が走るほどに嫌悪していた。ただ、命のひとつやふたつ救ってもらった程度、と思う一方、彼の志には認めているところがあったので、いつも悪態はつきつつ、結局は面倒を見てしまっている。
「術者のことだ。君は何か知っていたのではないか」
「声に気をつけろ。今は誰もがその話で神経質になっている」
ヴァネッサが歩いているときにも、しばしば近衛兵同士がひそひそと立ち話をしている姿が見受けられる。以前はそう多くは見られなかった光景だ。
「聞かれたくないのは、君に知っていることがあるからだろう。クイーンも、ご存じのことか」
「部外者の知ったことではない。また知るべきことでもない」
「そうはいかない。私は私で、帝国という国を動かそうとしている」
「たいした法螺吹きだな」
ユンカースは足を止めぬヴァネッサに業を煮やして、ついにその腕をつかんだ。静かだが激しい緊張が、両者のあいだに流れた。
ヴァネッサとしてもこの男の心情が分からぬでもないが、言っていいことと悪いことの区別くらいはつく。かつて前近衛兵団長のアンナは、当時の枢密院議長であるマルケス侯爵に秘事を明かし、このためにサミュエルは殺されかかっている。巻き添えとなったルース近衛兵は、15歳の若さで毒に侵され死んだ。その轍を踏むほど、ヴァネッサは愚かではない。
「ユンカース大尉。この宮殿内で近衛兵団長たる私に手をかければ、生きて外に出ることはできないが、どうだ」
必ずしも納得した様子ではないが、何度目かのまばたきののち、ユンカースは手を離した。
ヴァネッサが向かった先の部屋には、すでにクイーンとエミリア、フェレイラ枢密院議長並びにロマン神官長が揃っている。
これはすなわち、サミュエルとレティが術者であることを前もって知っていた面々である。
「申し訳ございません、お待たせしました」
「ヴァネッサ、市中の様子はいかがですか」
「クイーンのお見立て通り、すでに噂が独り歩きを始めているようです」
一同はともに苦い表情を浮かべた。ある種の風説はときに万の兵にもまさるという。特に人々の不安を煽るような噂はこの際、民心を悪い方向へと誘導し、王朝の基礎にひびを入れかねない。例えばクイーンがサミュエルを術者だと知りながらその点を公表せず匿っていたとなれば、民衆の忠誠心にも揺らぎを生じるであろう。
それは全員が危惧してはいたが、「まずはサミュエルさんが目覚めてから」というクイーンの方針は固いようでもあった。
「クイーン、直言をお許しください。術者の再臨は、一国家どころか、大陸全土の重大事です。サミュエル殿が善良な心を取り戻し無事に目を覚まされたとして、そののちいかが対処されますか」
正面から質したのは、ロマン女史である。頭脳明晰で控えめな性格だが、事態を憂慮し可及的速やかに解決に導くべきという意志が、言外に表れている。
クイーンも、この問いに対しては珍しく歯切れが悪い。
「正直なところ、迷っているのです。巷に噂が流布してしまった以上、だんまりを決め込むこともできません。たとえ一部でも情報を公開して、民心の安定に寄与すべきとは考えているのですが」
「では僭越ですが私見を申し上げます。クイーンは、術者とは距離をとられるべきです。術者に危険がないことを訴えたとしても、彼が近衛兵を傷つけ、陛下を殺めまいらせようとした事実は事実。彼がクイーンのお命を救った経緯もあり、お手元に置いておきたいお気持ちは充分に理解できますが、危険な術者がおそばにいることに不安や不信を覚える者は少なくないでしょう」
「忌憚なくお聞かせください。ロマン殿は、どうすればよいと?」
「彼を、王宮から追い出すべきです。なるべく早く、できれば今すぐにでも」
クイーンの頬がこわばり、目元の憂いが濃い。
視線を泳がせた先で、フェレイラ議長とヴァネッサが苦渋の決断といった表情で賛意を示した。
「賛成いたします。彼をあくまでかばい、守ろうとした場合に、我が国にもたらす悪影響が懸念されます」
「このままおそばに置いても、彼自身のためにならないと思われます。善き心を取り戻しているのならばなおさら、彼をあえて遠ざけることも必要なご決断ではないでしょうか」
クイーンにとっての頼みの綱であったろうエミリアはこのとき、一言も発することはなかった。彼女もクイーン同様、サミュエルの処遇について悩んでいるのであった。一度目はカルディナーレ神殿近くの山林にて、叛乱兵に追われ、エミリアが無念にも負傷してついにクイーン、当時はプリンセスであったが、彼女を守ることがかなわなくなったとき、光の術によって絶体絶命の危機を逃れることができた。二度目は天然痘に罹患し生死の狭間にあるとき、またもサミュエルが天の光によってクイーンを救った。そしてクイーン自身は未だ知りえないことだが、帝国軍によるデュッセルドルフでの奇襲後、サミュエルが二人の姿を光の力で隠し、ようやく虎口を免れている。かくのごとく、クイーンとエミリアはサミュエルに対して返せないほどの恩義がある。
クイーンはエミリアからの意見をこそ必要としていただろうが、彼女の進言がないために迷いを捨てきれず、なお一晩の猶予を求めた。
夜、就寝前のひととき、たらいと手ぬぐいを持って入ってきたダフネに下問するに、
「ダフネ、あなたは昨日のこと、どう思いましたか。率直に、話してください」
クイーンにしてはあまりに大雑把な質問であったが、それも彼女自身の思考のまとまりのなさからくるものなのであろう。ダフネも、あえて思うがままを答えた。
「伝説の術者、まさか実在したというのは、驚きでした」
「私は知っていました。カルディナーレ神殿で暗殺されかかったときも、天然痘に倒れて死の淵に立たされたときも、助けてくれたのはサミュエルさんだったのです」
「左様でしたか。であれば、彼には罪よりも功が多うございますね」
「あなたは、私が術者のことを知りながら秘密にしていたこと、失望しますか?」
「いいえ、クイーンにはお考えあってのこと。私も、ほかのみなも、クイーンに対する忠誠に一点の曇りもありません」
「しかし事が事です。術者の件は遠からず、大陸全土を震撼させることでしょう」
表情に暗さがあるのは、ダフネの思い違いではないであろう。先日も、帝国からは捕虜とされた近衛兵団幹部の眼と耳が届き、わずかな時間だが気を失うほどの衝撃を受け、しばらくは食事も喉を通らなかったほどである。そこへきて、今回の変事。気の晴れる暇もない。
「側近たちは、すぐにでもサミュエルさんを王宮から追い出すように進言しています。政治的な観点から、彼とはなるべく距離をとるべきだと。確かに理があるとは分かっているのですが、彼は私にとって特別な方です。目を覚ましてもいないのに、追い出すのはどうしてもつらくて」
「クイーン、必ずやよき方策はございます。クイーンが悩み、考え抜かれた上にご決断あそばされたのであれば、我ら臣下一同、臣民一同、その選択を支持するでしょう」
ダフネの忠義あふれる言葉に、クイーンははじめて微笑を浮かべた。もっとも、それは微笑と呼ぶにはあまりに明るさに欠けていたが。
クイーンはしばらく、疲れた足を投げ出し、ダフネの洗うがままに任せていたが、やがてこの忠実な近衛の鳶色の髪とつむじを見ているうち、ある者を思い出した。
「ダフネ、終わったらもう一仕事、頼んでもよろしいでしょうか」
「もちろんでございます」
「エミリアを、この部屋に連れてきてください」
「かしこまりました」
「それとミコトさんも」
「ミコト殿を」
はて、とダフネは不思議に思った。ダフネが知る限り、ミコトは術者レティの口利きで王宮に住まうようになっていた。彼女は王国からの亡命者で、レティとどこでどういう縁があったかは分からない。レティの死とともに、彼女の立場も浮いたような状態になっている。まさか術者の末裔とは知らないから、就寝時間を繰り下げてでも彼女と話したがる理由が、ダフネには思い当たらないのであった。
クイーンは親切で、ダフネの心中にある疑問を洞察して、説明を加えた。
「あなたの言ってくれたよき方策を考えるのに、色々な人と話してみたいのです。夜遅くに大変とは思いますが、よろしくお願いしますね」
「承知しました。お心遣い、かたじけなく思います」
ダフネは警戒が強化され、夜勤の近衛兵が増員されたメインパレス内を歩きつつ、途中でサミュエルが保護、というよりは厳重な監視下に置かれている部屋を通りかかった。廊下で、同年のサミアが警備についている。
「サミア、異状はないか?」
「あったらもう死んでるよ」
「相変わらず口の悪い」
「実際、近衛兵団に死者が出なかったのが奇跡だよ。相手は術者だからね」
サミアは肩をすくめ、ダフネはため息を漏らした。近衛兵団の旗本同士が、おとぎ話に過ぎぬはずの術者の噂をするなどというのは、一昨日までであれば考えられもしなかったことだ。まったく現実離れしている。だがダフネもサミアも、つい昨日の光と氷の氾濫を目にして、あれが現実でないと言ってしまうほど、精神的弱者ではなかった。
術者は実在したのだ。
それも、いつまた覚醒し、彼女たちに襲いかかって来ぬとも限らない。
サミアだけではない。あちこちで警備任務に従事する近衛兵たちも、表情に不安や緊張をたたえて、明らかにいつもとは様子が違う。
クイーンにとっても、あるいはサミュエル自身にとってこそ最も恐れていた事態であったろう。
人々が術者の存在を知り、恐れを抱くようになる、というのは。




