第17章-④ 王を護りし者
帝国からの亡命者であるユンカースとローゼンハイムには、未だ公式の役職や所属先が与えられているわけではない。
亡命者同士ということで第三師団長レイナート将軍のもとで働かせては、という意見もあったが、彼らの知識や才覚を手元に置いておきたい、というクイーンの要望もあって、この提案は却下された。とは言え当面は仕事がないので、むなしく宮殿内で髀肉の嘆をかこつのみであった。ヴァネッサの許しが出ないため、帯剣も許されてはいない。いずれ帝国領の攻略作戦が発動されれば、そのときは彼らの活躍も大いに期待できるが、それまでは軟禁に近い状態が続くであろう。
彼らが騒ぎを察知したのは、ユンカースがテーブルに足を乗せ、ローゼンハイムがソファーに寝転がってポーカーに興じていたときで、先に神経の鋭敏なユンカースが反応した。
「何やら、騒がしいな」
「俺には何も聞こえんが」
「貴様は平和に飽いて、耳まで遠くなったか」
ユンカースが部屋を出ると果然、数十人の近衛兵たちが剣を抜いている。彼は脱兎のごとき勢いで飛び込み、ヴァネッサから剣を奪った。
ヴァネッサは当然、ユンカースの真意を疑った。帝国で乱を起こし、クイーンの出兵に協力した経緯があっても、なお彼女はこの男を信用しきってはいない。
「貴様、混乱に乗じてクイーンを害するか!」
「早まるな。あの盲人を殺せばいいのか」
ユンカースの視線の先では、盲人が杖で足元を探りながらまさに目前を行き過ぎようとしている。
「伝説の術者か、それとも単なる奇術師か。いずれにしても君の敵は私の敵だ。加勢しよう」
「人の剣を奪っておいて、何を言うか」
「ならば言い直そう。私が君とクイーンを守ろう」
話しているあいだにも、サミュエルは歩を進めている。
ユンカースは剣を寝かせ、背後からずん、と踏み込んだが、びーんという鈍く強い感触とともに刃が折れた。その後もユンカースは幾度か組みつこうと突進を試みたが、光の壁は決して破れない。
一方、ミコト、ミスズ、アオバの三人も、王宮の南門で幾人かの近衛兵が倒れているのを見て、異変を悟っていた。ミスズとアオバは危険を感じたが、ミコトが中へ中へと駆け込んでいくので、勢い、彼女について走った。
メインパレスは狼狽と動揺の渦中にある。その渦の中心には例のサミュエルがいて、それを近衛兵の集団が一定の距離を保って取り囲んでいる。
そして、彼女たちはサミュエルを守護する結界を目撃した。
「あれはまさか、光の結界……!?」
顔面を蒼白にして呟いたのは、侍女のアオバであった。
ミコトはアオバの思わぬ反応に驚いた。確かに、サミュエルは光の術者。彼を守るのは光の結界であろう。しかしなぜそうも、アオバは察しがよいのか。何か、知っているのかもしれない。
そうしているうちにも、クイーンとエミリアはダフネら幾人かの旗本ともに逃げている。目指すのは王宮内の馬場である。あてどもないが、まずは機動力のある馬を拾ってこの場を逃れるのが、少なくともメインパレス内に留まるよりは安全であろう。
が、メインパレスを裏口から出ようとして、エミリアは急に視界を失った。まるでまぶたを閉じているような、闇、また闇である。
しかし右手には、確かにクイーンの掌がある。
「クイーン、クイーン!」
「エミリア、ここよ」
「クイーンも、見えないのですか」
「えぇ、いきなり真っ暗に。これもサミュエルさんの術?」
「恐らくそうです。ダフネ、ヘレナ、アグネス、近くにいるかッ!」
応ずる声が聞こえる。どうやら全員、暗闇の術を施されているらしい。
デュッセルドルフで奇襲を受けたあと、帝国軍の虎口から逃れる折、サミュエルは言ったことがある。人の目に見えるすべては光の放射であり、光を制御すれば姿を隠すことができると。彼の手にかかれば、人の視界を奪うなど造作もないであろう。
こうなっては、身動きもできない。
(くそ、これまでなのか)
エミリアは覚悟を決めた。彼女たちはサミュエルに殺される。より正確には、彼を使役しているに違いない、王国の皇妃スミンに殺される。いや、その正体は闇の術者である。スミンはサミュエルの手で、彼女たちを殺そうとしているのだ。
しかし、クイーンだけは殺させるわけにはいかない。
エミリアはその場に座り込み、背中からクイーンを抱き締めるようにして覆った。たとえ百本の矢を受けようと、光の術の裁きを受けようと、クイーンにだけは指一本とて触れさせてはならない。
「エミリア!」
「クイーン!」
ふたりは最後に互いを呼んだ。次の瞬間には、彼女たちが経験したことのない恐ろしい術が降り注いでくるに違いない。術者の前には、人間などまるで赤子よりも他愛ない生き物だ。
エミリアの片腕のなかで、華奢な体が震えている。この人だけは、守りたい。
専一に念じていると、やがて霧が風に吹き払われるようにして闇がかき消され、視界が開けた。同時に、まるで水面を漂っているような不思議な浮揚感と、冬の早暁のような厳しくも冷たい空気が彼女たちを包み込んだ。
振り向くと、手の届くほどの近く、老人が背中を見せて佇んでいる。老人、と分かったのは、哀れなほどに体が小さく、背骨が曲がっているからである。
「レティか……?」
現れたのは、術者レティであった。ここ数ヶ月、光の術者の危機を告げてから、この老婆は心労がたたって床に臥せっており、衰弱して死相が見られていた。
今は、氷の結界を張って、ふたりを守ろうとしている。
「光の術者……闇に操られてるようだね」
「闇に……やはり、術者スミンか!?」
「あぁ、この結界から一歩も外に出るんじゃないよ」
「その体で、戦う気なのか」
「勘違いするんじゃないよ。術者に対抗できるのは術者だけ。アタシ以外に、アンタたちを救える者はいないだろう」
レティの目線の向こうには、青と白の結界越しに、サミュエルの姿がある。
(術者同士の戦い……)
それは遠き昔の、先人たちが残したおとぎ話であるとされる。かつて梟雄セトゥゲルは、術者エルスから術を授かり、それを自らの腹心にも与えて、世界に術者が散った。術者アルトゥの子孫がそれを逐い、世界は破滅への道をたどった。そして、術者と人間の戦い。
その惨劇が、この宮殿でまた引き起こされるのであろうか。
サミュエルとレティは、ともに火の術者ムングの末裔と語っていた。1,400年ほどのあいだで、血筋が彼らを分かち、互いに見えることなく過ごしてきたのであろうが、今、彼らは邂逅した。
戦うべき相手として。
この舞台にあっては、エミリアもクイーンも、ただ傍観者として見守るほかはない。
レティが杖を一閃してから、術者同士の激突は始まった。




