第16章-⑥ かりそめの平穏
ランバレネ高原からの撤退に成功した合衆国遠征軍は、勇将であるストーン中将と4,000名以上の犠牲を出し、副将のフェアファックス中将も重傷を負いながらも、同盟領に最も近い都市であるオースティンへの退避に成功し、この地で味方の再集結と再編成、負傷者の療養などの目的でしばし滞在することとなった。
捕虜にした刺客の尋問も、行わねばならない。フェアファックスを襲った刺客はイシャーン麾下のアサシンであることは疑いなかったが、背後にある経緯や事情を聞く必要がある。
そしてあっけないほどの容易さで、フェアファックスの暗殺未遂に実戦指揮官の一人であるウェルズ中将が関わっていることが露見した。
当初、尋問の責任者であるフェアファックスの副官ペイトン少佐は信じなかった。刺客はウェルズの名を出すことで、合衆国軍内部に亀裂を生じさせようとしているに違いない。それにアサシンは特別な訓練を受けた精鋭の暗殺者であり、無論、あらゆる拷問に耐えるための訓練もそのなかには含まれている。拷問すらしていない段階で、アサシンがすらすらと真実を話すのはどう考えても罠であろう。
しかし、ウェルズがフェアファックスを仇敵とみなしていることは、遠征軍に知らぬ者はいない。念のため、と思い、ウェルズの身辺を探らせると、彼はフェアファックスの負傷を笑い、一方で殺すに至らなかったことを無念がり、しかもイシャーンの手の者と複数回、交通があったことが判明した。
調査結果は遠征軍総司令官グラント大将に報告され、大将は「重大な疑義あり」としてウェルズを緊急解任し、その身柄を拘束するとともに、首都ブラックリバーの国防省本部へと送還して、軍法会議に告発した。ウェルズは敵の手を借りて仇敵を殺害するべく、自らイシャーンに接触してフェアファックスの居場所を教えたことを白状した。軍法会議は本人の自白をもって即座に結審し、さらに叛逆罪によって即日の処刑を申し渡した。
いずれにしても、合衆国軍は同盟領での作戦を主導していたフェアファックスの重傷によって、この方面における積極的展開の意欲を失い、かつ旧ラドワーン政権がラフィーク率いるジャバル派とアーディル率いるバハル派に分裂して支援先が不透明になったことで、当面は旧公国領でのゲリラ活動以外は専守防衛の方針をとることとなった。いずれ、教国軍が南から帝国領を攻略する際、南北で呼応して進撃するのが常套策ということになろう。
合衆国軍の完全撤退を知ったラフィークは、さらにアーディルがイシャーンに降伏し、その尖兵となって北上していることをつかんで、この剛胆な男にして、ようやく深刻な危機を感じ始めていた。彼はンジャイ王から奪い取ったジャガー戦士団や象兵団、そして天然の要害であるンゼレコレ地方の密林といった武器を手にしているが、それでも合衆国軍を叩き出して意気上がるイシャーン軍、王国軍、そしてアーディル軍のすべてを向こうに回してどれだけ戦えるかについては自信がない。
ラフィークは、自陣営における唯一の知恵者である弟のヤアクーブに諮って、善後策を検討した。
「イシャーンの狙いは見え透いている。これはいわゆる二虎競食の計で、あなたとアーディルを戦わせ、勝者が傷ついたところを刺し殺すという算段であろう」
「やはりそうか、イシャーンらしい卑劣で陰湿なやり口だ」
「策にはこちらも策で対抗すればよろしい。イシャーンは利口な男だが、王国のチャン・レアンは匹夫の勇を誇るだけの知恵なし。うまく仲を裂いてみましょう」
ヤアクーブの指示で、直属の隠密部隊が王国軍の陣地へと潜入し、夜陰に紛れて兵糧を盗み出し、それをアーディルの陣地へと積み込んだ。数日で、アーディルの不実はチャン・レアンの知るところとなった。知恵なしと評されたこの狼が憤激したことは言うまでもない。
彼はわずか数百の鉄騎兵のみをひっさげてアーディルの陣を急襲した。アーディルは襲撃のその理由さえ分からぬまま、ただ狼狽するのみで応戦もかなわず、ただ一騎で逃走し、ドワングワ湖までたどり着くとそこから小舟を操って南方のランダナイ宮殿へと落ち延びた。指揮官を失ったアーディルの軍はチャン・レアン率いる鉄騎に狩り殺され、副将格でアーディルの兄にあたるフィラースもたちまち生首となって、路上に晒された。
(あの痴れ者が、まんまと計にかかったな)
なんの下相談もなく、配下の密偵から状況を伝え聞いたイシャーンは、盟友の無能ぶりに少々呆れる思いであった。知恵が足りていないからこそ、利用するに造作もないが、こうも容易に敵の調略に踊らされているようでは、安心して肩を並べることもできない。実際、以前にもイシャーンとチャン・レアンとは反目しかけたことがある。あのとき、チャン・レアンの知恵袋であるトゴン老人なる者が両者を周旋して和解させなかったら、ついに同盟関係も破綻していたかもしれない。
アーディルを先鋒に使うことで対立する兄弟を争わせるという構想は失敗に終わった。イシャーンは次善の策として、火計を用いてンゼレコレの密林をすべて焼き尽くし、ンブール宮殿へと進撃しようと考えたが、この地方はちょうど長い雨期に入り、しかも西風が吹いているため、東からンゼレコレ地方に侵入しようとするイシャーン軍がいくら苦心して火を放とうとも、燃え広がる様子は見られなかった。
イシャーンは失望し、ンゼレコレ地方を短期的に攻略することは難しいことを悟って、本拠のクリシュナへと帰還した。しばらくは内政と外交、そして調略に専念し、雨期が明けてからンゼレコレ地方の攻略に着手するほかはないと判断したのである。ランダナイへ逃亡したアーディルなどは、放置しておいてもいずれ滅ぶであろう。それに王国軍も、旧公国領でのゲリラ活動にはほとほと手を焼いているらしく、軍を引いて各地の抵抗を鎮圧する必要に迫られているようだ。
イシャーンは、完璧とは言えぬまでも、全同盟領の支配権が手の届くところにまで近づいたこの段階を充分な戦果とみなしていた。宿敵ラドワーンは帝国軍との戦いのなかで天然痘を患い非業の死を遂げ、その弟たちは反目して血で血を洗う闘争を始め、合衆国軍も駆逐した。ドワングワ湖の西岸を帝国軍、東岸をイシャーン軍が抑えたことで、東西の連絡もとりやすくなった。教国軍、合衆国軍もそれぞれに本国で立て直しの期間が必要である。ここで、彼だけが焦って得られるものはない。
大戦のこの時期、奇妙な光景と言えそうだが、ミネルヴァ大陸には疑似的に平和が訪れることとなった。それはあたかも、弓弦がゆっくりと引かれ、ある瞬間の激発を待っているかのような、緊張感に満ちた平和ではあった。各勢力が互いに力を蓄え、次の衝突に備えている。時機が到来すれば、再び大きな戦火が大陸全土に波及するに違いない。
そして、表面上は平和でも、水面下では虚々実々の駆け引きが進行している。
我々は再び、目線をロンバルディア教国へと向けることとなりそうである。




