第16章-③ 黒衣の新王
ラフィークの話を挟む。
ラドワーン王がナジュラーン宮殿に帰還してのち、天然痘に感染して身罷ったことは、ほどなく大陸全土に知れ渡った。
その正統な後継者を自称する者が二人いる。
一人はラドワーン王の末弟アーディルで、これが兄のフィラースとともに実戦部隊を率いていたのを幸い、ナジュラーン宮殿とナジュラーン市を実力で抑え、官僚団ら政権中枢を掌握している。
いま一人はラドワーンの第一の弟であるラフィークであり、長兄の死没の際は西方にあって帝国軍に対する防御任務にあたっていたため、いわば身一つで放り出された状態となった。その率いる軍も内は天然痘、外は帝国軍に悩まされ、兵力は2,000ほどまで減少し、しかも負傷兵も多い。根拠地もなく、補給のあてもなく、孤軍である。
彼は素早く決断し、軍を北に向け、ンジャイ王の治めるンゼレコレ地方に足を踏み入れた。何しろ大陸一の密林地帯である。街道は整備されておらず、行軍は難渋したが、途中でンジャイ軍の斥候に出くわしてこれを案内役とし、ようやくンブール宮殿に達したのが、6月11日のことであった。
ンジャイ王は軍事にも政治にも特に秀でたところのない凡人ではあるものの、善人である。やや褐色がかった黒い肌はなお油を塗ったように艶があるが、肉はたるみ、髪も白い。齢は60を過ぎているであろう。ネタニヤ会戦の折は自ら出陣し、足に重傷を負い、以来めっきり衰えてきている。最近は目もあまりよく見えていないらしい。政務は息子のタボに委ね、主力軍もラドワーン王に預けてしまって、半ば引退の身である。
彼はラフィークをあたたかく出迎え、料理、酒、贅沢な寝所や絹の寝具、そして女と、何くれとなく世話をした。肌が黒い女を、彼は初めて抱いたが、その体は黒豹のような野性的な妖しさとやわらかい筋肉を持っていて、戦陣の長かったラフィークの性欲を存分に満たした。
やがてドワングワ湖戦線を離脱したムアンマルが兵を連れて合流すると、ラフィークはいよいよ心強くなり、将来の展望を意欲的に描き始めた。彼は知恵袋のヤアクーブと無類の腕白者であるムアンマルを常に傍らにひきつけ、対アーディル、対イシャーン、対帝国の戦線をどう構築するか、夢中になって想像をめぐらせている。
ンゼレコレは一年のほとんどが雨季であり、鬱蒼たる密林が果てしなく続くジャングル地帯で、その境界をジャガー戦士団と呼ばれる精鋭の歩兵団が守っている。ジャガー戦士は太古よりこの地方で編成される伝統的部隊で、古代は石の剣で武装し、ジャガーの毛皮をまとっていたというが、この時代ではその名残を彼らの部隊章と軍旗にだけ留めている。ただし、森林でのゲリラ戦に特化したそれら3,000名ほどの部隊は、少なくともンゼレコレ地方にあっては10倍の規模の兵団に相当するとされた。彼らが守っている限り、ンゼレコレは大陸最強の要害と言えるのである。
そのため、本拠ンブール宮殿とその城下町は交易にすらひどく難のある立地でありながら、別天地のような平和を謳歌している。
しかし、時は乱世である。秘境のそのさらに奥にあるンブール宮殿ですら、平穏無事でいられるはずもない。
6月18日昼、天は鈍色に染まり、地は四方を森に囲まれ、じっとりと不快な雨が降りしきるなか、ひとり剣を研ぐラフィークのもとに駆け込んできた者がある。
「兄者、耳に入れたいことがある」
「ムアンマル、どうした血相を変えて。お前はいつも騒々しくていかん」
「顔色も変わるだろう、すぐそこまで謀殺の手が忍び寄っていると知ればな」
「なに、謀殺だと」
「ほら、兄者も顔色が変わっただろう」
「茶化している場合か。早く話せ」
「あぁ、耳寄りな情報だ。感謝してくれよ」
ムアンマルは唇を湿らせ、自らの知りえた知識を余すところなく披露した。
この日の朝、ナジュラーン宮殿に盤踞するアーディルからンジャイ王のもとへ内密の使いがあった。ンジャイはわずかな側近とともに使者を迎え、1時間以上にわたって密室で談合したらしい。部屋を出た両者は、実に和やかな雰囲気で、互いに笑みすら見せていたという。
その後、ンジャイは出し抜けに命令を発して、宴の準備を始めた。宴にはラフィークはじめ、ヤアクーブとムアンマルも招いて、盛大に歌い踊るつもりでいるようだ。
「確かに先ほど、ンジャイ王から宴の誘いがあった。今夜は朗報がある、ぜひともに喜びたい、と言ってきていたな」
「さてこそ」
兄者を殺す算段が仕組まれているのだ、とムアンマルは断言した。
(ありうる)
と、ラフィークは咄嗟に考えた。アーディルからの使者は、恐らく何かしらの条件を提示したに違いない。その条件と引き換えにするものは、彼ら三兄弟の首ということに、当然なるであろう。
ンジャイ王は仁者であるともっぱら評判の男だ。だが、人の心など所詮、計れぬもの。客人であるラフィークの首が宝と交換できるというのであれば、しかもそれが楽々と手に入るというならば、誰もが飛びつくであろうことは、むしろ明々白々の道理である。
ラフィークは再び、剣を研いだ。
「今夜、この剣を使う」
「やるか」
「そうだ。奴らの企てを逆用する。宴の席でンジャイとその側近を皆殺しにして、この宮殿も奴の軍もそっくりもらい受ける」
「災い転じてなんとやら、か。そりゃいい」
楽しんでいるつもりなのか、ムアンマルの瞳に浮かれたような色がある。彼は兄の命に従い、ただちに手練れの精兵を選りすぐって、宴会場の周囲に忍ばせた。
夜。
「ラフィーク殿。今日は存分に過ごしてくだされよ」
「ンジャイ王、かたじけない」
「実は貴殿に提案があります。アーディル殿と和睦されてはいかがか」
「ほう」
「アーディル殿の使者が参ったのです。ラフィーク殿は母は違えど同じ父の血を分けし兄弟。ともに手を携え、国難に対処したいと」
「眉唾物の話ですな」
「なんにせよ、兄弟が和解せし今日は吉日。雨降って地固まると申す通り。さぁまずはこのバナナ酒を酌み交わしましょう」
「なるほど、酒に毒でも入れたか、死にぞこないの逆賊」
「なんと」
「貴様を斬ってやる」
吐き捨てると、ラフィークはまるで空中を駆けるような速さで踏み込んで、一刀にンジャイ王を刺し貫き殺してしまった。同席していた息子のタボと側近どもも、ムアンマルと忍ばせていた手下が皆殺しにした。
(計られたか)
殺戮が終わったとき、ラフィークは天性の直感でもってそれを知った。ンジャイ王も側近らも、まるで抵抗する様子がなかった。全員が、驚愕と恐怖の表情で死んでいる。ンジャイ王が話したことは、事実だったのかもしれない。ラフィークと仲直りしたい、とアーディルが提言し、ンジャイは無邪気にそれを信じて喜び、ラフィークのために祝っただけであったのかもしれない。そうでなければ、ラフィークが剣を抜くと同時に、ンジャイも剣を抜いていたはずであろう。
だがラフィークは、仮にそうであったとしても、アーディルの和解の意志まで真実であると評価するほどに甘くはなかった。アーディルは両者の仲違いなり戦意の低下なり、あるいは敵情を偵察するだけの狙いのために、使者を派遣したのかもしれない。
(どうやら計られた)
ラフィークは、彼の傍らにあって、肩で息をするムアンマルを見た。この弟は戦場に立てばそれなりに度胸はあるが、好戦的な性格で、それも堂々たる力や駆け引きの勝負を楽しむ武人というよりは、殺人や他者の恐怖を好む異常な性癖の持ち主であった。今も、何人の人を殺したのであろう。無残に転がる死体を眺めては、狂気の多分に混じった薄ら笑いを浮かべている。
迂闊にも、このような弟の言を信じて盟友を殺してしまった。
しかし、後悔や悲嘆に暮れる時間はない。
ラフィークはンジャイ王に謀殺されかけたためやむなく先手を打ってこれを誅殺した、と諸方に通知を発し、自らはジャガー戦士団をはじめとする旧ンジャイ王麾下の軍を、褒賞の授与を条件に丸め込んで掌握した。ンジャイ王まで47代にわたって続いた長命のンブール朝は、ここにあっさりと滅んだのである。
ラフィークは、自ら王を称した。対するアーディルも王を名乗った。アーディルは一旦はナジュラーン宮殿を手中とするも、ラフィークが守っていた西の支えを失ったことにより、ゴルトシュミット大将率いる帝国軍の襲来に対処しきれず、わずかな手勢とともにナジュラーン南東に広がるキサンガニ砂漠を東へ抜けて、ランダナイ宮殿へと達した。
ゴルトシュミットは天然痘の蔓延したナジュラーン市に入らず、むしろ火を放って、砂の都と称されるこの古都を住民もろとも焼き討ちにした。雨の降らないナジュラーンで、火は7日間にわたってくすぶり続け、鎮火したときにはこの都は廃墟と化していた。
もっとも、帝国軍の快進撃もここまでが限界であった。補給がもたない。この地域最大の都市であるナジュラーンが消滅した以上、3万近い兵力を有する帝国遠征軍の食糧や物資を現地調達できる見込みがなかった。
一方、ラフィークが新たに根拠地としたンゼレコレ地方、アーディルの逃げ込んだランダナイ地方はともに守りやすく攻めがたき土地とされ、彼らはそれぞれに腰を据えて、しばらくは外交戦を繰り広げることとなる。帝国軍、王国軍、合衆国軍、イシャーン軍、そして教国軍と、近隣勢力が大兵力をもって彼らを取り巻いている。手持ちの兵力が少ない以上、いずれを味方につけ、いずれと戦うか、難攻不落の地にじっくりと構えて、駆け引きにいそしむほかはない。
この当時から、旧ラドワーン政権を二分したラフィーク・アーディル両派を、それぞれジャバル派、バハル派と称することが多かった。ジャバルとは山、バハルとは海のことである。厳密にはンゼレコレ地方はあくまで亜熱帯性雨林地帯であって山ではなく、ランダナイ地方は砂丘に囲まれた湖畔の都市で海に面してはいないのだが、大まかに内陸と沿岸に分かれて戦ったことから、このように呼ばれるようになったものであろう。




