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ミネルヴァ大陸戦記  作者: 一条 千種
第16章 王権は崩れ
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第16章-① 光は闇の器へ

 術者レティは、その氷晶(ひょうしょう)のお告げによって、どこまでを見通していたのであろう。

 サミュエルがスミンの毒牙によって、その光を失ったことは、彼女の、というよりは氷晶の告げた通りである。光は、闇に飲まれたのである。

 王都トゥムルの宮殿に潜り込み、スミンによって囚われの身になってから、2ヶ月ほどになる。

 囚われ、といっても、それは縛られているわけでも、檻に入れられているわけでもない。だが少なくとも精神的にはそれに近い状態であろう。

 彼はスミンと会った倉庫で、闇の術を浴びた。彼の唇を通して、スミンは毒霧を吹きつけるようにして闇の思念を送り込み、あっという間に彼の奥底に蓄えられている光を食いちぎって、彼の白い無垢な人格を墨で塗ったような黒さに塗り替えた。

 以来、彼はスミンの起居する寝室の住人となった。

 スミンの寝室は、寝台も、壁も、調度品も、すべて赤を基調とした豪奢(ごうしゃ)なつくりになっている。この時代、王国では赤の染料が最も高価で、高価であるために高貴とされた。宮殿を一歩でも外に出ると、路上には物乞いや病人があふれ、人買いや人さらいが跳梁(ちょうりょう)し、人妻や若い娘が家畜のように並べられて売られ、治安や風俗は大いに乱れて、伝統と文化が花開くかつて大都市トゥムルの面影さえもない。そうした外界に比べると、この宮殿やこの部屋は、まるで天上の豊かさと美しさである。

 強者が弱者から富を吸い上げ、弱者は強者の奴隷として尽くすことを余儀なくされる。

 王国の政道の象徴が、この呆れるほど赤い部屋に凝縮されていると見ることもできよう。

 この部屋で、サミュエルはスミンと交わった。自我は、あるようでない。人には人格というものが備わっており、人格は意識のなかで、自分という存在を支配している。だが今や、彼を支配しているのは自分の人格ではない。彼が見たもの、感じたこと、そうした記憶はすべて記憶として残り続けるが、一方で自分は自分を操作することはできない。例えるなら、自分の人格は檻のなかにいて、別の人格が自分自身を操作するのを見ているような状態である。彼の人格は完全に死んだわけではないが、それよりも圧倒的に強い人格が、彼を支配している。

 スミンのもたらす闇は、体を重ねるたびに注入され、彼をいよいよ心身ともより完全な奴隷へと仕立てていった。

 一方のスミンは、光の術者の脅威を取り除くとともに、新たな器を手に入れて、内心、喜んでいる。以前から教国に術者が存在すると聞いて忌々(いまいま)しく思っていたが、それが先方からのこのこと我が宮殿までやってきて、闇の術に(さら)せば他愛なく彼女の意のままに動くようになっている。それにこれは彼女自身が体験して分かったことだが、術者同士の交わりには何か神秘的な作用が働くのか、もたらされる快楽、そして思念の高ぶりは計り知れないほどであった。

 彼女は生まれて初めて、男女の交わりがもたらす真の快楽を享受し、以前よりもさらに度外れた頻度でその行為に没頭した。サミュエルの肉体は、スミンの常軌を逸した性的欲求に応え続けた。

 スミンが多くの愛人を抱えるのは、男という生き物は無限に性交を続けることはできず、その体力も子種(こだね)の蓄えにも限界があるためであった。彼女が懐妊するために最も効率的と思われる方法は、精力に富む愛人を数多く用意して、順番に交わりを持つことで、常に一度の性交機会でより多くの子種を自らの子宮に受け入れられるようにすることである。この取り組みのため彼女は、愛人の健康状態の確認、交わりの順番や回数の管理などを仕事とする、専門の女官を置いているほどだ。

 ところがサミュエルの場合、替えの愛人は必要なかった。何故か、彼は並の男どもとは違い、無尽蔵の体力と決して衰えない男性的機能を有していた。スミンには当初、その理由がわからなかった。だが彼女はやがて、サミュエルの奥深くに閉じ込められている光の思念が徐々に減ってゆくのに気付いた。彼は自らに生来宿る光の思念を削って、スミンとの肉欲に費やしているらしい。

「そのようなことができるのか」

 スミンは、自分自身でさえ知悉(ちしつ)できてはいない術者の底知れぬ力に畏怖するとともに、そのあまりの都合のよさに近頃珍しく哄笑(こうしょう)した。闇の術者である彼女にとって最大の脅威である光の術者を手籠(てご)めにして自らの性的奴隷にしてしまい、しかも同時にその光の思念を食いつぶすことができるのなら、一石二鳥とはまさにこのことである。いずれ光の思念を使い果たせば、目の前のこの男は魂の(うつ)ろなただの盲人に成り下がるであろう。そうなったら、彼女にとっては何の役にも立たない木偶(でく)人形も同然である。乳の出なくなった牛のように殺してしまってもよいし、王宮から放逐して野垂れ死にさせるのもよいであろう。

 スミンとサミュエルは、来る日も来る日も、発狂したように淫楽に(ふけ)り、その獣じみた情欲の連続には、主人の暮らしぶりをよく知る女官らでさえ、ぞっとして顔を見合わせるほどであった。

 そして、サミュエルとの邂逅(かいこう)から7週間ほど経過し、スミンは夜の食事をとろうとして、突然の吐き気に見舞われ、そのまま激しく嘔吐(おうと)した。彼女は当初、胃病の(たぐい)を疑った。だが典医に()せると、実に恐れ入った表情で、

「いたってお(すこ)やかにて、病根は見当たりませぬ。あるいはご懐妊のこともありうべし」

「身ごもったか、ついに」

 スミンは叫び、(かわや)へ駆け込んで、自分が出てくるまで決して声をかけぬよう女官らに命じた。そして、赤く塗った(ひのき)の便器に座って、数時間にわたる瞑想に入った。

 もし受胎し、(はら)に子がいれば、思念に乱れがあるかもしれない。女が身ごもるということは、つまり自分とは別の命が胎内に宿っているということである。どれほど小さい命であろうとも、当然、思念への干渉が発生する。本来の自分の思念に、制御しえない雑念が混入していたら、それは彼女がいよいよ(はら)んだということであろう。

 (あか)りを消し、恐ろしいほどに深く純粋な闇のなかで自らの思念と対峙し、やがて彼女は悲願であった懐妊の喜びを得た。思念の波を探り、そのなかから闇の思念を切り分けた先のほんのかすかな、それこそ漂うように頼りなく非力な波動を見出したとき、彼女は生涯において初めて愛という感情を抱いた。

 どれほど欲しても得られなかった子が、ついに彼女の胎内で誕生した。この7週間、彼女の子宮に精液を注いだ男はサミュエルだけであったこと、それまでどの男も子種の主という点ではまるで役立たずであったことを考えると、父親はサミュエルで疑いなかろう。

 術者と術者の子。

 世にこれほど偉大な子、祝福されるべき子はいないであろう。スミンは歓喜し、厠で声を放って泣いた。彼女が涙を流すのは、赤子のとき以来である。

 翌日から、スミンはまるで人が変わったように、肉欲の一切をやめ、怒気を発せず、目つきや口調は穏やかになり、朝夕は庭園を散歩し、花鳥風月を友として、すべての時間を胎の中の子の養育に使い、我が子との対話を楽しんだ。

 執政者としては領民に対する冷酷な態度と方針に変化はなかったが、こと日常の生活という点では、妊娠を知った多くの婦人たちと、何ら変わるところはない。自らのすべてを胎児に捧げようという、聖女のような敬虔で神聖な気持ちでいる。

 さて、そうなってくると、スミンとして困るのがサミュエルの扱いである。この7週間ほど、サミュエルは彼女の寵愛、というよりは酷使を受けてきたわけだが、スミンとしてはこの男に次期皇帝の実父たる栄誉や地位を与えるつもりは毛頭ない。彼女の子は、それが男児であれ女児であれ、当然、次の皇帝になるべきであるし、その者に必要なのは母親であるスミンだけであって、生物としてもまた形式の上でも、父親などという存在は無用である。彼女にとって男というのは、あくまで彼女が子を宿すための媒体でしかない。彼女が身ごもったのなら、差し当たりは用済みなのである。

 それに、スミンはこと術者の件となると用心深く、光の思念を持つサミュエルに対しては、いかに交わりを重ねようと、内心で警戒を怠ることはない。

「殺そうか」

 とも思った。自分以外の術者、とりわけ光の術者などは、脅威以外にはなりえない。殺してしまうのが順当というものであろう。彼女が背後から首を一突きにすれば、それで脅威は跡形もなく消える。

 (しかし……)

 何か役立つ使い道はないか、と思案した。

 やがて考えのまとまったスミンは、馬車の用意を命じるとともに、サミュエルに別れの接吻(せっぷん)を施した。渾身(こんしん)で念じ、サミュエルが彼女から離れても決してその呪縛から逃れられないよう、漆黒の闇を注入する。

 すでにスミンとの荒淫のなかで、サミュエルの思念はそのほとんどが不可逆的に削がれてしまっている。だが術者としての力自体はまだわずかに残っている。

 それを利用してやろう。

 そしてもしまた彼が戻ったら、そのときはせめてもの慰めとして、この手で殺してやろう。

 スミンは、我が子の父親である男の髪を、慈愛の豊かな表情で撫でてやった。紅茶色の、美しい髪であった。

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