第14章-⑥ 疫病を贈る
レガリア帝国国防軍は、第一軍から第八軍の八個軍から成り立っており、それらを統合する組織として、大きく第一軍集団と第二軍集団に分かれている。制式兵力は一個軍あたり15,000名で、これはロンバルディア教国の一個師団に相当する規模である。
その起源はレガリア帝国第二帝政、すなわちヘルムス総統が大統領と首相を兼任し絶対権力を手にする以前の旧体制にあり、国境を外敵の侵入から守る常備軍として創設された。
やがてヘルムス総統を頂点とした第三帝政下に移行すると、国防軍の主任務は防衛から侵略と威圧へと変質し、特に陸軍倍増計画である「T計画」の推進によってその変化は決定的となった。
ヘルムスは陸軍、特にその大部分を占める国防軍の戦力を大きく強化し、強化することによって国力を高めようとした。実際、その軍事的背景がなければ、彼の権力も、その権力によって成し遂げられた対内的及び対外的政策の多くが奏功しなかったであろう。当然、国防軍はその強大化を推進してくれるヘルムス総統に靡いた。ヘルムス総統と国防軍とは、さだめしヤドカリとその殻に住みつくイソギンチャクのような、共生関係にあると言えよう。無論、そのような関係を強力な政治手腕によって巧妙に構築していったのは、ヘルムス総統の側である。
国防軍はいわば、帝国の軍事力そのものであり、ヘルムス総統の権力の後ろ盾であった。
その第一軍司令官、すなわち実戦部隊の指揮官の筆頭は、ブルーノ・メッテルニヒ中将という男である。「番犬ブルーノ」なる異名を持ち、もとはヘルムス総統の私設護衛隊、つまり現在の親衛隊の源流をなす部隊を指揮していた。ヘルムスが政治活動を始めた頃からの股肱の側近で、番犬というあだ名は、ヘルムスに対してはこの上なく忠実であること、敵に対しては敵愾心丸出しに獰猛に吠えかかること、番犬がようやく務まる程度の能力であること、牙を剥いた番犬のような、そういう卑しく粗雑な印象を与える面構えをしていることから名付けられている。
ことさら無能というレッテルが貼られているわけではないが、そのほかの軍司令官たちが実力にも実績にもあるいは人望にも恵まれているなか、それらに比べるとフルトヴェングラー中将とともに一段かあるいは二段は落ちる、と目されている。
軍司令官たちのなかでは第二軍司令官のベーム中将こそ、司令官中の筆頭としてふさわしい人格、閲歴、経験、能力を備えていると見られているが、番犬ブルーノはヘルムス総統のお気に入りであるだけに、その贔屓でもって、栄誉ある第一軍司令官の任をたまわっていた。
この番犬ブルーノことメッテルニヒ中将が、特務機関のハーゲン博士と秘密の工作部隊を帯同し、「エイクスュルニルの迷い」付近まで進出してラドワーン軍と会敵したのが、4月14日である。
「大軍だな」
ラドワーン軍の陣容を確認するため軍を率い丘に上がったメッテルニヒは、率直に呟いた。その言葉には、まともに正面からぶつかっても勝てない、という響きが込められており、その判断は正しい。だが帝国軍には秘策がある。
「明日、例の手順に従って交戦する。よろしいな、先生」
振り向いた先に、カーキ色の外套をまとい背中を丸めたハーゲン博士がいる。この数日、帝国領はまるで季節が3ヶ月逆戻りしたように冷え込んで、ひょっとすると雪でも降るのではないかという冷え込みである。ハーゲン博士は軍での階級は持つが、それ以外はあくまでもごく平凡な神経科医師にすぎない。まして恐怖の科学者たる貫禄や風格などはどこにもなかった。
しかし博士の考案した戦術を、その細部まで予め知っているだけに、メッテルニヒはこの一見して影の薄い、机に向かって論文でも書くのが似合いそうな中年男性の底にある冷血的な一面を恐ろしく思っている。
メッテルニヒはヘルムスの番犬として、これまで多くの機密に携わり、その都度、手を汚してきたが、今回はさらに別格であろう。
翌日、メッテルニヒ中将の率いる第一軍はラドワーン軍と正面から開戦した。ラドワーン軍は帝国南部地方における最大の戦略的要路、すなわち同盟領と教国領を結ぶヌーナ街道と、ダンツィヒ街道が帝都ヴェルダンディから伸びてヌーナ街道に交わる通称「エイクスュルニルの迷い」を堅守することのみを優先して考えているらしく、数的に劣る第一軍に対しても、専守防衛に徹して容易に陣からは出てこない。
第一軍はラドワーン軍のこの戦術姿勢を奇貨として、作戦を実行に移した。20台のカタパルトを最前面に押し出し、号令とともに一斉にラドワーン軍の陣営に投射したのである。
だが、石ではない。人であった。
袋詰めにした人間の遺体を、連続で、それも都合120人分ほどの遺体を投げて寄越したのである。
ラドワーン軍は付近の森林を伐採し、石材を集めて強固な陣営を築いており、やわらかい人間の体が降ってきてもびくともしない。逆にラドワーン軍からは反撃として長射程のロングボウ部隊が一斉射撃し、数千の鋭い矢に追われて、第一軍のカタパルト部隊は速やかに後退した。
第一軍が遠く引き下がり、臨戦態勢を解除したあとで、ラドワーン軍は陣内のあちこちに落ちてきた遺体袋を開き、中身を検めた。中に入っていたのは人間の死骸だが、死んでからさほど時間も経過してはいないようである。その新鮮な死体にはいずれも特異な膿疱や水疱、紅斑が見られ、ひどい病気にかかって死んでいったものと思われる。
当初、ラドワーン軍の将兵のほとんどが、これらの死体が生前に患っていたであろう病気の正体について知ることができなかった。そしてまずいことに、降ってきた遺体の詳しい情報がラドワーン王及びその側近にもたらされたのは、兵らと死体との最初の接触から8時間も経過してからであった。報告すべき将兵の側が、遺体袋に収容されていた死体の状態について、緊急報告を要すべきとは認識できていなかったためである。
しかし、情報を受け取った側にとっての重要度はまるで違う。報告を聞いた参謀のヤアクーブは、概要の報告を受けると、まるで鳥が飛び立つように卒然と立って、遺体を見に行った。
「これは恐らく、天然痘患者の死体に違いない」
ヤアクーブは戦慄し、兄であり、軍の総司令官であり、王でもあるラドワーンに、直ちに撤退するべきことを進言した。
天然痘はかつてペストと並んで大陸全土に災厄をもたらした伝染病で、その非常に強力な感染力と極めて高い重症化率から、死の病として知られている。この数世紀、天然痘の感染状況は小康状態にあり、昨今では120年ほど前に旧バブルイスク帝国で、20年ほど前にロンバルディア教国で流行の兆しがあったが、いずれも破壊的な被害が発生する前に沈静化した。特にスンダルバンス同盟では長らく天然痘の脅威からは無縁であり、天然痘なる感染症の存在は知識人である読書階級でのみ知られており、しかも医学や衛生分野にかけて後進国である同盟にあっては、その脅威への初期反応として鈍感であるのはやむを得ないかもしれない。
ただし、ラドワーン軍随一の知恵袋であるヤアクーブには、事の重大さの察しがつく。
「つまり帝国軍は、天然痘患者の死体を我が軍に送りつけて、我が軍に天然痘をばらまき、内側から崩壊させようという魂胆だ。この場に留まれば、軍の組織性を失い、大敗する」
ヤアクーブは軍の幹部、すなわち司令官で長兄のラドワーン、兄弟のラフィーク、フィラース、アッバース、アーディルに力説した。
いち早く賛同したのは、兄弟のなかで次兄にあたるラフィークである。彼は帝国内に築造した陣営や占領した土地をすべて放棄し、自領深くまで後退して、帝国軍に対しては徹底的な焦土戦術を敷くことで対抗し、その国力の消耗を待つべきだと述べた。
そもそもを言うなら、ラフィークは帝国に対する積極攻勢自体に反対であった。彼は帝国軍に対しては同盟領西部の砂漠気候を利用した焦土戦術で防ぎ、本軍はオクシアナ合衆国からの援軍と協力してイシャーン王を滅ぼし、オユトルゴイ王国軍を叩き出して、同盟領全域を防衛するという構想を以前から持っていた。帝国領にまで進軍し、教国が軍を立て直して帝国領に再進出するのを待つなど、国力の限界を超えていると考えていたのである。そして暗に、教国女王の親征の背景にある道義的精神にロマンティシズムを刺激され、主力を東から西へと振り向けたラドワーンの判断に対して批判的な立場をとってもいた。
だからこそ、軍に組織的戦闘力が充分あるこの段階で、早期撤退すべきであるとした。
これに対抗して、当地での堅守を主張したのが、末弟のアーディルであった。アーディルは死を恐れぬ勇者でありながら弁舌爽やかな好青年で、このときも、部隊内に疫病が蔓延して軍隊活動が機能不全に陥る危機よりも、教国との連絡線が途切れ、かつラドワーンの勇名が損なわれることの危険こそ大であるとして、声高に主張した。
「万を超える軍隊であれば、戦地で病者が発生することもありましょう。疫病ならば帝国軍とて、同様に苦しんでいるはず。この地は盟友であるロンバルディア教国と我が領土をつなぐ要地。ここを失えば、いわば戦略上の大動脈を敵の手に委ねるようなものです。疫病を恐れて逃げ出したと知れれば、教国に対して王は面目を失い、世間からは冷笑を買うでしょう。ここは陣を崩さず、一歩も退かずに敢然と戦う覚悟を帝国軍に見せつけ、もって我が軍の士気を上げるべきかと存じます」
ラドワーン王は、20近くも年の離れたこの異腹の弟を、溺愛と言っていいほどに愛している。知勇に秀で、身辺は清潔であり、兄への敬愛と忠義も抜きんでている。この弟が意見を出すと、ついついそれに肩入れをしてしまうほどに、その寵愛は偏っていた。
ラドワーンには、子がない。およそ女色というものに縁がなく、実子をもうけられないために、やがて後継者の座は、彼が養子をもらうか、あるいは居並ぶ弟どものいずれかが手にするものとされていた。そして衆目の一致するところ、その本命は末弟のアーディルである。若く、有能で、兄弟や文武の有力者たちともほどよく付き合っている。次兄のラフィークを除けば、彼が後継者たることに故障を言い立てる者はいないであろう。
が、ラフィークがいる。
この男は純粋な政治的あるいは軍事的能力で言えば、アーディルはおろか、王たるラドワーンをも凌ぐかもしれない。しかし生来、潔癖な兄に対して反抗的で、その屈折した心理が、彼を酒色に向け、兵卒や民衆に対する冷厳な態度にも表れており、この兄弟に埋めがたい溝を生んでいる。彼ら兄弟が会話する都度、周囲が緊張感のある表情を見せるのは、弟たちを導くべき長兄と次兄でありながら、右のような険悪な経緯があるためである。
ラドワーンは王としての半生、常に高潔な君主であると評されてきた。その彼にして、ついに人事ばかりは、公正無私であろうとするその行動判断も曇るのかもしれない。
「この議論、双方に理がある。だがアーディルの言い分に、さらに一分の理があるようだ。帝国軍が一大攻勢をかけてきたのであればともかく、我が軍よりも少ない兵力であるのに、疫病の蔓延を恐れて逃げ出したとなれば、今後の戦いに響く。この地域を確保しておくことの戦略的優位性は言うまでもない。各部隊は陣営の防備をいよいよ厳しくして、帝国軍に付け入る隙を与えぬようにせよ」
ラフィークとヤアクーブは、顔を見合わせ、どちらからともなく視線を外した。彼らは、自らの意見の正しさ以前の問題を、この決定に対して感じていた。つまり彼らの現在の状況に対する警告が、長兄の末弟かわいさという感情的処理の前に却下されたのではないか、というほんのささいな違和感で片付けるには深刻すぎる疑惑が頭をもたげたのである。
ラドワーン陣営は警戒を強める以外は、いかにも従前通りに、「エイクスュルニルの迷い」付近、この郡部の名前でディーキルヒの地に留まることとなった。




