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ミネルヴァ大陸戦記  作者: 一条 千種
第13章 光と闇
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第13章-① 歓喜の涙、失意の涙

 年明けの開戦以来、帝国との国境に築かれたカスティーリャ要塞は、常に軍事的重圧に(さら)されていた。その冒頭では、ゴルトシュミット大将率いる第一軍集団による苛烈な攻撃があり、それが不調に終わるや、次々と調略の手が伸びて、要塞は内部崩壊の危機と隣り合わせであった。

 だが1月下旬に国都からラマルク将軍が到着し、デュラン将軍とコクトー将軍を両翼に配して全要塞を管理下に置いてからは、全軍その命令と規律に服して、小賢(こざか)しい調略にもびくともしなかった。

 また2月上旬になると、アリギエーリ副師団長率いる第四師団約8,000名も到着して戦線に加わったため、要塞内の士気も大いに上がった。

 そのため戦線はいよいよ膠着し、2月も半ばに入ると、双方とも対陣の緊張が長く続いて疲労の色も濃くなり、ラマルク将軍が巡察していても、少々哀れに思われるほどである。野外に陣取っている帝国軍は、さらに士気が低下しているはずであった。

 実際、帝国軍は長期にわたる野営に疲労の極にあり、この状態がいつまで続くのかが分からないなか、その戦意も一様に乏しくなっている。

 3月に入ってからの大きな変化としては、帝都近くのブリュールに教国軍の一部が上陸し、その退治のため、第一軍集団から第一軍が引き抜かれたことである。

 第一軍集団は第一軍から第三軍の三個軍で構成されており、このうちの一個軍が離脱するということは、戦力は約3割減となり、いわば片翼をもがれるも同然である。

 が、ゴルトシュミットは帝都からの命令に従った。幕僚や麾下(きか)の実戦指揮官たちからも、大きな反発の声はなかった。これは、例えば第四軍のリヒテンシュタインのような、反骨心過多で直情径行タイプの部下がいなかったことと、少なくともレーウに比べれば彼は前線の経験や武勲も豊富で、配下諸将の心服と彼らに対する支配力が得られていたということである。

 兵力の点では、この段階でほぼ拮抗(きっこう)した状態になった。帝国軍は第二軍と第三軍、そして第一軍集団司令部の直属部隊。教国軍は第一師団と突撃旅団、第四師団の約半数。どちらも兵数約3万、といったところである。

 ただ、教国軍にはカスティーリャ要塞という堅固な防壁があるだけに、少なくとも心理的には有利であった。また、この頃にはこの前線の基地にも、クイーンと遠征軍が健在のむね伝わっている。今や帝国軍の方が、挟撃の危地に立たされていることは両軍ともに周知の事実であった。

 とはいえラマルク将軍はなお慎重で、軽々しく出撃することはせず、時機の到来をひたすらに待った。

 3月31日、第二軍集団がキティホークの地で惨敗したと聞くや、それまで我が面目を重んじてカスティーリャ要塞攻略に未練を残していたゴルトシュミットも、ようやく戦線の後退を決断した。すなわち、カスティーリャ要塞前面から撤退し、教国遠征軍との接触を避けるためまずは西へ退避し、そこから北上して、帝都方面へとしりぞいたのである。ぼやぼやしたまま数日もすれば、教国遠征軍が彼らの後背に現れて、要塞の守備軍と挟撃され、完敗するであろう。一瞬の逡巡(しゅんじゅん)とて、禁物であった。撤退すべきときに撤退を決断できるという点で、ゴルトシュミットは少なくともレーウよりははるかに指揮官として有能であることのこれが証左と言えるだろう。

 カスティーリャ要塞は、開戦以来4ヶ月近くの緊張から解放された。無論、戦時下の国境線上の要塞であるから、警戒はせねばならないが、目の前に敵軍がいるといないとでは、心持ちも違う。

 ラマルクは、麾下(きか)の第一師団長デュラン将軍、突撃旅団長コクトー将軍、第四師団副師団長アリギエーリ将軍を召集し、今後の見通しについて議した。

「敵軍の撤退は、同盟領方面での戦況が思わしくなく、前後から挟撃されることを恐れて撤退したか、あるいは我が軍を要塞からおびき出して奇襲をかけるつもりか、そのどちらかだろう」

「これを好機をとらえ出戦し、クイーンのご帰還を援護すべきか、それとも要塞を堅守すべきか」

「現時点では性急にどちらと判断するのは危険だ。もう少し情報を集めてから」

「だが、クイーンは今も敵地で苦しい戦いを戦っておられるはずだ。敵の後退に乗じて国境を侵し、クイーンの出迎えに出るべきでは」

「これまで手練手管を駆使してこの要塞を内部から覆そうとしてきた敵だ。今、彼らが潮が引くように後退してゆくといっても、その真意は測りがたい。我らが一致団結してこの要塞を守ってこそ、領内への敵軍の侵攻を一歩も許していないのだ」

 議論は分かれたが、ラマルクはどこまでも用心深い。彼らの意見をよく聞いた上で、改めて全軍に待機を命じた。

 一方、教国遠征軍は、4月1日にはヌーナ街道とダンツィヒ街道の交点に到着していた。ラドワーン軍も、ともにある。

「クイーン、ヌーナ街道とダンツィヒ街道の三叉路に到着しました。我々が来たのが、ヌーナ街道を東に進み、同盟領へと続く道。この三叉路を右に折れれば、ダンツィヒ街道が帝国の首都ヴェルダンディまでつながっております。左の道が、我が国と帝国の国境線上にあるカスティーリャ要塞へと接続しております。クイーン、カスティーリャ要塞まではあと2日足らず。間もなく帰還できます」

 その三叉路には、ある高名な詩人により、「エイクスュルニルの迷い」という格調高い呼び名が与えられている。

 古神話に、エイクスュルニルという牡鹿(おじか)が登場する。この牡鹿が、南から三叉路に差し掛かった。牡鹿は迷い、迷ううちに、自らがやってきた方角さえ見失い、ついに窮し、心を病んで、三叉路を利用する旅人を捕らえてはその肉を食らうようになった。エイクスュルニルは神々によって退治されるが、(あわ)れみを受けて魂を浄化され、のちは平穏に暮らしたという。

 どうということのない凡俗な神話ではある。ただ、この三叉路を構成する街道が、古神話の時代から存在するほどに長い歴史を持つこと、そして神話に登場するまでに古代人にとって重要かつ価値の高い街道であると認識されていたことが分かる。

 ジュリエット近衛兵団副団長の状況説明を聞きながら、クイーンは「エイクスュルニルの迷い」から北へと視線を向けた。その表情に、故国への帰還を喜ぶ明るい色合いはない。

 (我が軍の捕虜の身を案じていなさる)

 クイーンの、ともすると憂色と陰影とが差し込む横顔をじっと見つめながら、エミリアはそのように解釈した。征旅のあいだ、クイーンはそれこそその身を砕くような思いで、兵をいたわり、気にかけていたように見える。デュッセルドルフでもキティホークでも、自分が将兵を正しく指揮できていれば、少なくとも被害を抑えることはできたであろうと。

 デュッセルドルフは宣戦布告手続きのない一方的な奇襲戦であり、キティホークの会戦も結果的に大勝に終わったのはクイーンの天才的な指揮能力によるものとエミリアは思うが、クイーン自身の感想はそうではない。

 特に、デュッセルドルフで捕虜となった将兵は、未だに帝国領に送還されたままである。捕虜の交換や返還交渉も、現在の状況では政府間外交が断絶した状態であるので進んではいない。それらを置き去りにして、いわば自分たちだけが祖国へ帰るというのは、クイーンに忸怩(じくじ)たる思いがあるに違いなかった。

 だが、一方で指揮下にある兵らを無事に本国へ帰還させる責務も、極めて重大と言うべきである。今はそれを重んじて、クイーンも後ろ髪を引かれる思いで南へ向かうしかないのであった。

「我が軍は予定通り、南へ向かいます。まずはカスティーリャ要塞へ入り、本国の味方と合流すること、それが最優先です。ニーナはご苦労ですが、ラドワーン王の陣へ向かい、これまでの好意の数々について、私からの礼を伝えてください。そして、必ず時期を見て大軍を北上させ、帝国と雌雄を決するので、無理はされないようにと」

 教国軍はそのまま南へと行軍を再開し、ラドワーン軍はそれを歓呼で見送りつつ、三叉路のあたりに陣営を築造しこの地に留まった。事前の申し合わせ通りである。教国軍はこのまま南下し、カスティーリャ要塞前面の敵を一掃しつつ、本国への帰還を目指す。ラドワーン軍は三叉路を守って、教国軍の後背を安全圏とし、彼らの帰還を支援するのが任務である。

 そして半年後を目安として、教国軍は大軍を率い、ラドワーン軍や合衆国軍と呼応して帝国を一挙に覆す、そうした約束が結ばれている。

 盟友とのしばしの別離から2日後の昼、教国遠征軍はついにカスティーリャ要塞の視界内にまで達した。

 要塞の守備兵、遠征軍の兵ともに、彼方(かなた)の友軍の姿に歓喜したことは言うまでもない。要塞を守るラマルク将軍は居てもたってもいられず、すぐさま使いを出して、クイーンの安否を確かめた。使いが復命し、クイーン帰還のむね確報がもたらされると、デュラン、コクトー、アリギエーリら将軍たちも互いに抱き合って祝福し、冷静沈着で知られるラマルク将軍さえも涙腺を緩ませた。

 要塞と遠征軍の兵とは、どちらからともなく、

万歳(ヴィーヴァ)!」

 の声を発し、遠征軍が要塞に到着するまで、総勢5万人以上の大合唱が続いた。天地の揺れるほどの歓呼であり、福音(ふくいん)であった。もはや大難は彼らの上を過ぎ去った。大きな損害を出したとはいえ、遠征軍は無事に帰還し、何よりクイーンが戻った。要塞は帝国軍による数度の激しい攻撃にも耐え、領内への敵の侵入は許していない。

 すべて、彼ら将兵の奮戦によるところである。

 要塞の外へ、ラマルク将軍自ら出迎えに向かう。

「クイーン、よくぞご無事で」

「ラマルク将軍も、よくカスティーリャ要塞を守り抜いてくださいました」

 ラマルクから見る主君は、長い遠征と過酷な環境のためであろう、常は短く整えてある髪が伸び、装いにも旅塵が目立つ。

 しかし、その最上質のガラス細工を思わせる容貌と、神話の女神のように凛々しい表情には、いささかの曇りも衰えも見られない。

 (敵地での壮絶な体験を経て、この方はさらに、さらに強くなられた気がする)

 ラマルク将軍は仰ぐような気持ちで、それを思った。クイーンは彼にとっても、彼以外の将兵にとっても、旗であった。彼らの象徴であり、彼らの誇りであり、彼らのアイデンティティであり、そして彼らの魂そのものであった。彼らはその旗を押し立て、その旗を掲げることで、初めて彼ら自身の戦いでもあるこの戦争に、一致した意義を見出すことができるであろう。

 今やラマルク将軍の忠誠心は、聖杯に葡萄酒が満ちるような(おごそ)かさでクイーンに対し注がれている。

 クイーンは遠征軍とともに要塞に入って将軍らと再会を祝し、その日はそのまま夕食もとらずに要塞内の簡素なベッドで眠った。主君に倣(なら)ってか、遠征軍将兵のほとんど全員が、この日ばかりは規律と緊張の鎧を脱ぎ捨てて、要塞の広場地面に転がり、泥沼のように深い眠りに落ちてしまった。

 側近のエミリアやヴァネッサ、第三師団のレイナート将軍、遊撃旅団のドン・ジョヴァンニ将軍さえも、義務と責任から逃れて、思い思いに睡魔と(たわむ)れている。彼らには、そうするだけの資格があったであろう。生き残った者の特権として。

 ただ一人、深夜まで眠らなかった者もいる。

 第二師団長代理のティム・バクスター将軍である。

 彼はラマルク将軍、そして第一師団長のデュラン将軍とともに、キティホークで戦死したカッサーノ将軍を(しの)ぶ酒を()み交わしていた。前者はかつて第一師団の師団長と副師団長として、後者は公私ともに親密な長年の僚友として、そしてバクスター自身は教国軍の軍籍に入って以来、一兵卒から副師団長にまで引き上げてくれた恩人として、それぞれにカッサーノとは特別な間柄であった。

 バクスターは以前、カッサーノから「一身これ胆なり」と評されたほどの無双の剛勇を誇り、その胆力はデュッセルドルフでもキティホークでも、遺憾なく発揮された。だがこの日は失意と哀惜(あいせき)のまま、ただ子供のように泣きじゃくる一匹の男でしかない。

 この遠征で教国が失ったものは、クイーンと遠征軍の帰還の喜びによって完全に忘れ去るほどには小さくなかったのである。

 だが一方で、彼らには胸に深く期すところもある。

 (借りは必ず返す)

 クイーンと同様、将軍らも大局を見ている。しかしそれとは人間としてまったく別の心理的構造の奥に、復讐という感情的な動機が潜み、それが旺盛な戦意へとつながってゆくことがある。

 彼らの上官が、彼らの同僚が、彼らの部下が、多く戦場に(たお)れた。しかもその発端は、外交の場における正式な交渉決裂でもなければ、正々堂々の戦場の駆け引きでもない。表面上は柔和な態度を装いつつ、教国軍を領内深くにまで引きずり込んで、何らの通告もなく一方的に奇襲を仕掛けてきたのである。

 遠征軍はやむなく同盟領に退避し、さらにラドワーン軍と協力して本国への帰還を目指す途上で、やはり数多(あまた)の将兵が戦場の(むくろ)となった。

 教国軍将兵が帝国に対し復讐の炎を燃やしたのは当然であったろう。

 だが、今はただ、戦地において無念に散った同胞に対し、涙をもって報いるほか、彼らの痛みを慰める手段はないのであった。

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